日記 人間の先
ブッダの本を読んでいて、あゝそうか!と、なるほどなるほど〜と、ほぼほぼ納得出来るようになって参りました。
まあ、一度目は文字を追うだけの読み方でありましたけれど、実生活で実体験を積みながら再読致しますと、なるほどね〜と妙に腑にに落ちるのでございました。
人間というのは、生まれながらにして欲まみれ、欲の塊なんですね。我欲が再燃するように設定されての再誕なんですね。
それでまあ、本人の努力でそれらを打ち払って目覚めますと、もう次には、欲の亡者の人間に生まれ変わる必要も意味もないんですね。それでめでたく人間卒業となるわけでございますけれど。
そもそも本来一つのものが、ある部分を欠損して、人間という…なんでしょうね…、練習台というか、ドリルのようなものというか、チャレンジマシン、とでもいうか…
まあ、チャレンジボディ(笑)とでも言っておきますかっ⁈(C.B)笑
C.Bの発想でだいぶ頭と時間を浪費してしまいましたけれども…
つまり、人間を卒業出来た先には(死んだ意味ではなく、解脱。再誕の必要がない者)、
『大いなるひとつ』になるんだと思うのです。
この『大いなるひとつ』は、ひとつにして全てを満たしているから、ひとつであっても、全てを生みだせるわけなんですね。欠損している人間のような不便さは皆無なのです。
神話の男神が御子を生み出すという件も、そういう意味なんですね。
考えても、あ、みて、あご覧なさい。笑
だからブッダが、この人間たちに執着しない、という意味がよくわかるというものでございます。
ある和訳では、人間を、糞まみれと書いてあります。笑
ブッダは、この糞まみれの争いの途絶えない人間どもを哀れんで、救いたい一心で布教をされてくださっておられたんですね。
まあ、当たり前なんですけれど…。
ブッダは生きながらにして、『大いなるひとつ』に帰依された。
ブッダだから、当たり前じゃん!とか、
言われればそうなんですけれど.
じゃあ、現実にそのような御方が身近におられますか⁉️って話なんですね。(逆ギレしてみました)
私事では、まあ、昨日書いた尊敬出来る人というかたが、もしかしたら、もう輪廻の輪から解放されるかも…。
ガンバロ。
頑張るしかないわ。
糞まみれの人間なんか、もうなりとうない❣️