南相馬市ふるさと回帰支援センター

南相馬市ふるさと回帰支援センターより、南相馬の情報や移住の案内などを発信。なんでもきいてけろ。

「ふるさと回帰フェア2013」 沖縄県からも移住者がやってきた! ~南相馬市~

2013年09月14日 | 日誌
 9月7日8日早稲田大学講内で「ふるさと回帰フェア2013」が行われました。

 昨年は震災の影響で参加を断念せざる得ない状況でしたが、今年見事に復活!

 前回参加したのは3年前、まだ駆け出しだったセンターはうろうろきょろきょろ、どきどきしながらも、

 早稲田大学、大隈重信の銅像の前でしてやったり感満面で微笑みながら写真だけはしっかりと

 撮ったのでした。

 そして震災。「相双地域には、福島県には、だ~れももう移住なんてくるわけない!」なんてことは?な~い!

 を見事に証明するべく、ボランティアから移住された二人の女性を引き連れ参上つかまつりました。

     

 相談ブースでにこやかに対応して下さっているのは移住者の武藤琴美さん。

 この日、琴美さんは南相馬市の様々なPRに大忙し。
 
 震災後に移住されてはや2年近く。地域住民としてさっそうと対応する姿にただただ脱帽です。
 
  「行ってきました!ふるさと回帰フェア。42道府県201団体、1万2166名が参加した大イベントです。

  前夜祭のシンポジウムでは、まちづくりのアイディアマンのお話を伺いました。

  被災地の話じゃないなあと聞いていましたが、まてまて、ピンチはチャンス!と、元気をもらいました。

  すると、翌日、移住のブースでは、話を聞いてくれる人から、「新しいことをしてみたいんだ」という

  声があり、やっぱりピンチはチャンスだ!と思いながら帰ってきました。」      琴美さんより

 そしてもう一人は、今年の春、沖縄県宮古島から移住して来られたばかりの与儀ひなみさん。20代。


 この日は、数日前から用意して移住体験をセミナーで

 発表しました。

 にしても、沖縄県から福島県!よく来て下さいました!

 最初は被災地の状況を自分の目で確かめようと福島を

 訪れたそうでうが、情報がつかめないまままずは郡山へ。

 そこで出会ったのは、会津弁で話す語り部のおばあちゃん。

 そのおばあちゃんからNPOの団体さん。そこから、南相馬市の現状を知りその足をむけたそうです。

 そして南相馬市で多くの市民団体の方やボランティアの方と出会い、語らい、現在は市内の老人介護施設で介護仕と

 して働いています。当日はひなみさんが元気に働く様子も会場内で紹介されました。

  「ここの人々の温かさ 気さくさ 優しさを本当に感じました!ここは地元が好きで、畑いじりが好きで、お祭りが

 志木で、地元愛に溢れた方たちばかりです。私の大好きな南相馬にぜひ来て下さい!」  ひなみさんより

   
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相馬野馬追 地元っ子らの様々な想い    ~南相馬市ふるさと見聞録~

2013年06月29日 | 日誌
  どんよりとした曇り空に隠れて6月が静かに過ぎ去ろうとしています。

 新たに迎える7月は相双地域にとっては特別な月。

 国の重要無形民俗文化財「相馬野馬追」を迎える準備が着々と行われています。

 今年は7月27日(土)28日(日)29日(月)の3日間の開催です。

 震災や原発事故の影響を受けながらも一千余年もに亘るその歴史を不屈の精神で守り抜いた「相馬野馬追」

 その相馬野馬追の開催を、今年4月、ふるさと南相馬市を離れ人生の歩を又一歩進み始めた一人の女の子も

 遠くから見守っている事でしょう。

その女の子は、今年、相馬農業高校を卒業した南相馬市

出身の茜ちゃん。

 のまたんのパネルの横で笑顔で映っている写真は、今年

 5月、GWに南相馬市に帰省し、久しぶりにセンターに

 顔を見せに来てくれた時のものです。
 
 手にしているのは茜ちゃんが考案し、相馬農業高校のマス

コットキャラクターになっている民芸品「てるてる馬坊主」

 この「てるてる馬坊主」オリジナルと簡単に作れるように考えた2種類あります。

 今、茜ちゃんが持っているのがオリジナルのてるてる馬坊主。

 新作の黒いてるてる馬坊主は初披露!うん。何か凛々しい!

 昨年、センターではこの「てるてる馬坊主」のワークショップ

を開催。多くの方が相馬農業高校の生徒さんに手ほどきを受け

ながら楽しく作品を作りました。

「相馬野馬追の開催中は雨が降らずに、無事に野馬追ができます

ように…」

 毎年、野馬追に参加するいとこの為に「何かないかなぁ」と作り始めたと

いうてるてる馬坊主。

 一度見ると忘れられない愛らしさが大好評です。

 茜ちゃんは今年、大学生になりました。

 あの震災を乗り越えた多くの若者がここ南相馬市を巣立って行きました。

 でも、こうしてふるさとを想う心はいつまでもいつまでも続いていくのですね。

 相馬野馬追が無事に開催されることを願う少女。

 早朝、乗馬の練習がされていた鹿島区烏崎の海岸。津波の被害に遭いたくさんのがれきが埋もれる砂浜を、

 きれいに清掃する地元の住民の皆さん。そして、それをお手伝いして下さるボランティアの皆さん。

 センターがある道の駅南相馬の観光交流館内のモニターからは、数年前の相馬野馬追の様子が映し出され、

 ギャラリーには、昨年開催された「相馬野馬追フォトコンテスト」の入賞作品が展示されています。

 これらの写真を黙って見つめていた初老の方が、目に涙を一杯ためながらこう言われました。

 「相馬野馬追は、家族みんなで参加するのがいちばんいいんだ。俺はあの甲冑を家族が直してあげている

 写真が一番いいなぁ、ほんとに、野馬追は家族で参加するもんなんだ…」

 「愛情家族」その写真にはそうタイトルがついていました。

 様々な想いを胸に秘め、馬上で毅然とした勇壮な姿を見せる騎馬武者の姿は、古来からこの地方に住む

 「ひと」に培われた大切な大切な伝統文化なのかもしれません。

 今日もここ南相馬には梅雨空を吹き消すような、晴れやかな力強い武者魂が空一杯に広がっています。 

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ようこそ南相馬市へ  鮫川村農村体験交流協議会の皆様♪

2013年03月01日 | 日誌
2月25日から26日にかけて「しらかわ地域農家民宿研修会」の皆様13名様が、南相馬市を訪れふるさと回帰

支援センター会員、4軒の農家民宿に分宿され、復興を目指す南相馬市内の視察やグリーンツーリズム実践農家

の取組を研修しました。

一日目は約2時間、小高区の海岸沿いや市内を視察し、語り部安部さんから語られる震災時の様子や現在の復

旧状況など熱心に耳を傾けていました。

 

そしてその夜は鹿島区にある、「森のふるさと」「翠の里」「いちばん星」「森林」の4軒の農家民宿へ宿泊。

震災後初めて南相馬市を訪れた方や初めて他の農家民宿にお泊りになられた方などもおられたようですが、

1泊2日という限られた日程の中でも活発な意見交換を通して有意義な時間を過ごされたようでした。

また二日目は原町区食彩庵に於きまして、ふるさと回帰支援センターの会員15名を交えた計28名で、交流

会を開催しました。

司会進行を当センターの安部部会長にお願いし、

和やかに意見交換が始まりました。

グリンツーリズムは農家民泊などをしながら田舎

暮らしのシュミレーションや農業体験、自然に触

れる体験を推進する事業ですが、震災前は南相馬

市でも活発に行われていました。

韓国の農業大学生や韓国の小学生などの民泊もそれにあたります。当時は体験型長期滞在を推進する為、

体験メニューの開発を行い、農家民宿様や地域で体験できる乗馬体験やサーフィン体験、ツリークライミング

などもご提供していただいていました。まさに「海 山 川がある恵まれた自然環境と相馬野馬追の伝統を重

んじる地域風土を活かせる最高のロケーションだったわけです。

その時の様子を原発事故により原町区に避難され、現在、農家民宿を休業せざる得ない状況となってしまった

小高区の「ほほえみの宿」の渡辺チイ子さんがお話しされました。チイ子さんは手作り味噌作りや手作り豆腐な

ど体験メニューとして提供されていて、再開の目途がつかない無念さを感じさせない位、整然とお話し下さいま

した。
時も過ぎゆき、それぞれお泊り頂いた感想や意見を、

自由にお話し頂ました。

「あんなにご馳走だして、やっていけるの?」

「大勢の宿泊客がきたらお風呂はどうしてるの?」

「農家民宿を開業するのに、費用はどの位かかったの?」

等など…。リアルな回答には時に笑いも誘います

「同じ福島県の中にあっても本当に知らない事ばかりだった。今回おじゃまするのも何だか物見遊山のように

思われるのではないかと心配でした。でも、来てみて小高の様子を現実に見て、そして農家民宿の皆様とお話

しさせて頂いて本当にきて良かった!と思いました。そして多くの方にこの現実を見て頂きたいと感じました。

今度は多くの方をここへ連れて来ます!」という温かいお言葉で閉会となった。

  ありがとうございました!

  負けないぞ!みなみそうま!


          











語り部 安部あきこさんとたての山を目指すとそこにあったのは村上城跡

2013年02月14日 | 日誌
実は「たての山」という地名はいくら検索しても

 わかりません。安部さんが祖先から語り継い

 だ「何かあったらたての山に逃げろ!」

 その山は村上地区にありました。

 地元のお年寄りが話してくれた所によると、

 村上地区は過去にも津波の被害に遭い一度

 消滅してしまった村だというのです。生き残った

 者たちが、新しい村上地区を築き直すため数百メートル離れた海岸沿いに新天地として住み始めたのが

 現在の村上地区だそうです。「昔は砂浜があったんだよ」

 これは原町区渋佐でも聞かされたことで、長い年月ととともに砂浜は侵食され住空間が変化していった事

 は間違いありません。断崖絶壁に聳え立つ山を背に青い空と穏やかな海面に視線をむけながら不安定な歩

 行でゆっくりと小道を登っていくと、震災前そのままだというテトラポットやほっき貝の砕かれた白さが

 目に飛び込みます。

 
 「この海が…この波が…。」

 浜辺に白いとぐろを巻きながら何度も何度も

 狂ったように覆いかぶさる様を想像すると空

 恐ろしくなります。

 生まれ故郷のその様子を安部さんは遠く浦尻

 から見つめるしかなかったそうです。

 まるでコップになみなみと注がれた真水の様に、

 ぷっくりと膨らみながら右に左にゆらゆらと穏やかに揺れる海面を見ていると「海を嫌いにならないで下さい。

 山を嫌いにならないで下さい」と誰かが言った言葉を思いだしました。見たこともない大津波がせまるあの時、

 海岸沿いにあるこの小道を逃げる事は到底無理だったことでしょう。

 恐らくこの小道は、あっという間に真っ黒な漆黒の闇へと吸い込まれたに違いありません。

 ほどなく左手に見えたのは地震により傾いたまま佇む「波切神社」の姿でした。
 
    

 先日安部さんが金性寺の住職様の避難先で見たお不動様はここに祀られていました。

 震災後、波切神社を訪れましたが、鍵が掛かったままになっていた為中を見ることはできず心配していた

 のです。住職様が原発事故により立ち入り禁止となる小高区から持ちださなければならない!と思われたお

 気持ちがよくわかります。幾多もの災害からこの地を守らんとしたそのお姿は、その力強いお姿とは対照に

 哀しみに満ちているかのように見えます。

             

 波切神社はその名のいわれ通り、この神社で津波の波が切れたのではないかと言われいます。

 神社の斜め向い側にあるお墓は壊れたままになっているものもあり、おそらくそれは地震により倒壊したもの

 で、津波が被った様子は殆どみられませんでした。

 多くの方が犠牲になった村上地区、波切神社まで海岸からはわずか数分。

 波切神社を後にさらに数分小道を登るとその先には荒廃した畑があり、壊れた鳥居を潜るとそこは村上城の

 跡地でした。村上城は、海城としても知られ今、その面影を残すのは史跡跡を記す案内板だけです。

 城跡に建てられた神社も今回の地震により全壊。

 

 色々調べてみると、村上城にはこの海岸沿いの小道以外に2ヵ所参道がありそれは内地から続いていることが

 わかりました。そう、お城である以上簡単に外敵に責められては困る。しかし、人びとを災害から守るため人

 から人へと語り継がれた言葉はこの参道を示していたに違いありません。

       

 

「たての山に逃げろ!」 語り部 安部あきこさんと小高区金性寺を訪ねてみた。  

2013年02月02日 | 日誌
 
  
 南相馬市小高区村上地区の「たての山」と呼ばれる

 山に波切不動尊というお不動様が祀られていました。

 安部さんが、ずっと気になっていた話し。

 「津波がきたらたての山へ逃げろ!」

 その根拠を探り先代からの教えが今回の震災

 でどうだったのかを知るために…。

 まずは震災後、その波切不動尊の妙見尊(

 お不動様)をお預かりしているという南相馬市小高区

 金性寺の住職様が、仮事務所としていると教えられた

 原町区大甕を安部さんと訪れました。

 訪ねるとこの地域ではめったに見ることのない立派なニ階建ての茅葺屋根と静寂と翠織りなす日本庭園にまず驚いてしまいました。

 こんな風靡な景色をここで見ることができるとは想像していませんでした。

 「此処は何代か前に住職の茶室だったそうです。」

そう教えてくださったのは、現住職の奥様。今は東京に避難され

 月に何回かこちらに来る生活をしているそうです。

「茅葺屋根の修復にあたっている職人さんは、宮城県石巻市に

 ある熊谷産業様なんです。

 津波の被害に遭いながらも流出してしまったスレートを回収

 し1枚1枚手作業で洗浄し、そのスレートで東京駅の屋根の

 復元をされた職人さんです。」

 その映像は確かにTVで見た記憶がありました。

 その職人さんの魂の籠った葦。

 その一本一本が、まるで矢のような鋭さと正確さを

 持って、凛とした風貌を兼ね備えた「屋根」という

 作品を形作っていました。あの状況でも絶対に手は

 抜かない。その職人魂 感動です。

 ひと目見たいと安部さんが熱望していた波切不動産の

 お不動さんは、静かな日本家屋の和室の一角に鎮座していました。

 赤い顔をしたお不動様は想像していた以上にきれいで保存状態が良く、金を基調とした箱の中に丁寧に祀られています。

 奥様は手を合わせる私達の背中に囁くように、波切不動尊のことや小高区村上の事を話しはじめました。

 村上地区は、二十三夜に波切不動尊の前に集まり、

 年4回(お節句の時)ご詠歌が行われていたそうです。

 住民はみな、着物を身に着け着飾って参加しました。

 安部さんも小さい頃、竹に入った甘酒を持って参加した

 という記憶が残っているそうです。

 村上地区には全国的にも珍しい一個人に対し遺体を埋葬

 する埋め墓(葬地)と墓参りをする為の詣り墓(まいりほか、

 祭地)の二つの墓を作るという両墓制と呼ばれるものが

 あるという事も教えて頂きました。

 お不動様の近くにあるお墓はお参りする為のお墓になっていたそうです。

 両墓制がなぜ発生したのかということに関しては、不明な点が多くはっきりしないようですが、代表的な意見としては死

 穢の観念や遺体恐怖から遺体埋葬地を人里離れた場所に作り、人の住む場所の近くや寺院境内に死者供養のための

 石塔墓地を別に作ったというもの、現実に土葬習慣における腐敗した遺体の臭気を避けるために埋葬地を別にしたとも考

 えられるそうです。両墓制は土葬を基本とするため、火葬が一般的となった現在では土葬の両墓制は役割を終えたといわ

 れるそうです。

 「今回の津波被害で埋め墓は低い場所にあった為流出してしまいましたが、詣り墓は波切不動尊の近くの高台にあった為

 津波からは免れました」奥様は言いました。

 波切不動尊は波を切るという名前の通り3月11日の東日本大震災の時には、海のすぐ近くにあるにも関わらず不思議と

 津波の被害を受けなかったというのです。

 

 「たての山へ逃げろ!」このお不動様はいったい何を伝えたいのか…    (つづく)


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