以前母に『ブログを書いている』と言ったらどういうことを書いているのか尋ねられ、日々の出来事や思ったことを書いていると言うと『それを他人が読んで(読まれて)楽しいのか?』と。
それがたま~に頭の片隅からひょこっと思いだし、嫌味とかではなく素朴な疑問として言った言葉がいつまでも忘れられないでいる。
ブログを書くことを始めたのは2006年ごろ。
それなりにテーマを決めて書き始めたものの、趣味が変わって方向がずれはじめたり、愚痴が多くなり読み返したくないようになったり、ネタが切れ書きたい内容より読んでもらえそうな記事を書くようになってきて続けるのをやめた。
何度もその繰り返し。
読み手を意識した途端、何を書いていいのかわからなくなるパターン。冒頭の言葉も引っかかってるのかもしれない。それに気づいてしまったら『そうだよね』っていう。
自分の備忘録としてネット上に残すなら晒す(公開)する必要って確かにないかもなぁって。非公開で誰にも気づかれずはけ口、または吐露、または自分の行動記録っていうだけでいいのでは?って。
でも誰かが読んでくれてるっていうのは書くモチベーションにもなるんだよね。公開されていても全部本心を書く必要はないし、でもじゃぁ何で書いているの?って問われればなんでだろう?って。
なんか文章がうまくまとまらないわ。
母にスマホの使い方を教えている時、電波という見えないものについてしつこく『何故?』と聞かれ『そういうものなの!』と答えるのと同じで、ブログを書くのにそんなに真剣に考えてない、とした方がいいのかもしれません。
先日読んだ小説の一説にブログと日記の違いを語る部分がありまして。
ブログは人の目に触れるもの、日記は自分だけが見れるもの、というような感じで。
だとすればやっぱりブログは読まれる前提の内容で、それが嫌ならば非公開なのかな。読まれる前提の日記っておもしろいのか?
よくわからなくなってきました。
読みたきゃ読めよ、そうでなければいっこうに構わぬ。私は私が書きたいから書いているだけ。
そんな感じでいいのかな。
それがたま~に頭の片隅からひょこっと思いだし、嫌味とかではなく素朴な疑問として言った言葉がいつまでも忘れられないでいる。
ブログを書くことを始めたのは2006年ごろ。
それなりにテーマを決めて書き始めたものの、趣味が変わって方向がずれはじめたり、愚痴が多くなり読み返したくないようになったり、ネタが切れ書きたい内容より読んでもらえそうな記事を書くようになってきて続けるのをやめた。
何度もその繰り返し。
読み手を意識した途端、何を書いていいのかわからなくなるパターン。冒頭の言葉も引っかかってるのかもしれない。それに気づいてしまったら『そうだよね』っていう。
自分の備忘録としてネット上に残すなら晒す(公開)する必要って確かにないかもなぁって。非公開で誰にも気づかれずはけ口、または吐露、または自分の行動記録っていうだけでいいのでは?って。
でも誰かが読んでくれてるっていうのは書くモチベーションにもなるんだよね。公開されていても全部本心を書く必要はないし、でもじゃぁ何で書いているの?って問われればなんでだろう?って。
なんか文章がうまくまとまらないわ。
母にスマホの使い方を教えている時、電波という見えないものについてしつこく『何故?』と聞かれ『そういうものなの!』と答えるのと同じで、ブログを書くのにそんなに真剣に考えてない、とした方がいいのかもしれません。
先日読んだ小説の一説にブログと日記の違いを語る部分がありまして。
ブログは人の目に触れるもの、日記は自分だけが見れるもの、というような感じで。
だとすればやっぱりブログは読まれる前提の内容で、それが嫌ならば非公開なのかな。読まれる前提の日記っておもしろいのか?
よくわからなくなってきました。
読みたきゃ読めよ、そうでなければいっこうに構わぬ。私は私が書きたいから書いているだけ。
そんな感じでいいのかな。