山とパンと中山道

岐阜市近郊の山歩きとパン作りの記録です。最近は中山道をぼつぼつ歩いています。

中仙道(細畑~高田)

2007年11月24日 | 中山道




11月4日(日) 

 午後から例によって中山道歩きに行く。
 今日は東に向かい、切通4丁目からスタート。
 県道181号をひたすら東へ向かう。
 しばらくいくと道の北側に伊豆神社があり、その横に馬頭観音が祀ってある。





 さらに行くと道の突き当たりに大きな鳥居が現れる。手力雄神社だ。



 そのまま行くと神社の参道となる。中山道はここで左へ折れてからふたたび東に向かう。やがて町並みが途切れ田んぼが広がる。田んぼの中をしばらく歩くと東海北陸自動車道の下をくぐる。今日はここまで。
 帰りは名鉄各務原線の高田橋駅まで戻り時刻表を見るとちょうど岐阜行きがくるところだった(ラッキー!)。5分ほど待って電車で切通駅までもどる。乗っている人はぱらぱらという感じだ。2駅180円あっという間に戻った。

中仙道(東赤坂~美濃赤坂)

2007年11月18日 | 中山道
10月28日(日) 

 今日も午後から中山道歩き。
 東赤坂駅前を出発。
 県道230号を少し西に歩いたところで県道から斜め南に外れる。
 旧道らしい田舎道を歩いていくと、大きなイチョウの木に登ってゆさゆさ木をゆすって銀杏を落としている人がいた。下には奥さんらしき人がいて落ちた銀杏をほうきで集めている。たくさんの銀杏をどうするつもりなんだろう。
 途中には、一里塚の跡がかろうじて残っている。



 また、このあたりは、大理石の産地であり、加工場もある。



 やがて、赤坂大橋を渡り、杭瀬川を越える。もっとも大橋というほど橋は大きくはない。
 赤坂大橋を越えると両側に家並みが続き、美濃赤坂の街に入っていく。
 程なくして、小さな川があり、そのほとりに大きな常夜灯があり、赤坂港跡がある。



 ここは公園として整備されており、明治時代に警察の屯所として建設された建物を復元した赤坂港会館がある。
 中に入ってみると昔の資料などが展示してあり、ちゃんと管理のおじいさんがいて説明をしてくれる。
 それによると、戦国時代ごろまで杭瀬川は揖斐川の本流であった。その後流れが変わり揖斐川の支流となったが水量は多く舟運に利用され、このいったいは赤坂港として、明治の終わりごろから大正にかけては特に栄えた。また、ここは、中仙道と谷汲街道の分岐地という交通の要衝でもあった。
 杭瀬川はその後昭和25年の河川改修によって直線になり、赤坂の街より東の現在の流れになった。
 お礼を言って出ようとすると記帳を依頼されたので下手な字で記帳してきた。
 大阪から東京まで各地から人が来るという。今日の分を見ると名古屋の人が多かった。



 その先には本陣跡が公園になっている。



 ここからさらに西に行くと谷汲街道との分岐点に矢橋家の広大な住宅がある。国有形文化財建造物だそうだ。





 その先に、「五七処」という店がある。



 ここは、美濃赤坂が中山道六九次の中の五七次目の宿場町であることにちなんで地元の商店主の人たちが立ち上げたもので、さまざまなお土産を売っている。
 店の人に話を聞いてみると、まだ経営的には苦しいが2~3年後には軌道に乗せたいとのことだった。
 正直いって色々努力はされているが買いたいと思うものはない。赤坂らしいたとえば大理石をテーマにしたものとか、皇女和宮にちなんだものとか、まだまだ創意の余地はあると思う。今後もがんばってほしい。
 揖斐茶を入れたという「五七だんご」と地元の食材にこだわったという「押し寿司」を買って帰った。

中仙道 (岐阜経済大学~東赤坂駅)

2007年11月18日 | 中山道
10月6日(土) 

 昼から駄犬を連れて中仙道を散歩。
 岐阜経済大学前をスタート。



 県道の一筋南の住宅地の中の道を歩く。



 くねくねと歩いていくと途中で道は北へ折れ、県道230号と合流し、やがて養老鉄道の東赤坂駅の踏み切りに到着する。



 養老鉄道は、以前は近鉄養老線だったが、乗客減からこの10月から養老鉄道として再出発をしたばかりだ。そのため駅名の看板も新しく、ちょうどきた電車にも「祝養老鉄道」なんてプレートがついている。状況は厳しいががんばってほしい。

 ここまできたら犬が帰りたがってこの先へ行こうとしない。

 しょうがないので今日はここまで。