5月13日(日)
昼から、また中山道歩きをする。
加納の国道157号線の東からスタート。
ここには二文字屋という江戸時代からの鰻を看板にした料理屋がある。
岐阜は海がないため、古くからの料理屋といえば川魚が主であり、ごちそうといえば鰻ということになる。
この店の近くに「当分本陣跡」の石柱があった。明治天皇が休憩されたらしい。
この先に「旧加納町役場」があった。
こんなところにあったとは初めて知った。
岐阜市は昭和15年に加納町と合併しているので、それ以前に役場として使われていたということになる。
鉄筋コンクリート造りで、今となっては小さな建物だが、当時はずいぶん近代的な立派な建物だったのだろう。
旧役場を過ぎたところで道は加納城大手門跡のりっぱな石柱に行き当たる。
ここから南へ突き当たったところが加納城跡だ。
中山道はここでいったん北へ向き名鉄電車の線路の手前で再び東へ向かう。
この加納新町のあたりは古い街道筋の街並みの雰囲気を多少残している。
そして岐阜城東通りを越え、また名鉄電車に阻まれる格好で南に少し下がる。
この角地に道しるべがあった。「左西京」「右岐阜谷汲」と読める。
そして、県道181号に出会い、県道に沿って東へ向かう。というか、中山道が県道になっているというのが正しいのだが。
そして。名鉄の茶所駅の横を越え、JR東海道線の高架下を通り岐阜市領下へ入る。このあたりはところどころに畑が見えたりして、加納の街から徐々に郊外へ出てきたという感じがする。
領下往還南の交差点を過ぎると三叉路になっており、地蔵堂の前に大きな石柱が建っており「西京道」「伊勢名古屋近道」「木曽道」と三面に彫ってある。もう一面には明治の年号が彫られており、明治時代にも主要道路だったことがうかがえる。
この先に、細畑の一里塚があった。
一里塚を見るのは初めてだ。もっとこじんまりしたものをイメージしていたが、これなら、江戸時代には遠くからでもよく見えただろう。
また。時代をタイムスリップしたような家もあった。
この先の切通4丁目を曲がったところにいりのと緑地のバス停があったので、今日はここまでにして、帰りはバスでおおむね同じ道をあっという間に岐阜駅まで帰った。
昼から、また中山道歩きをする。
加納の国道157号線の東からスタート。
ここには二文字屋という江戸時代からの鰻を看板にした料理屋がある。
岐阜は海がないため、古くからの料理屋といえば川魚が主であり、ごちそうといえば鰻ということになる。
この店の近くに「当分本陣跡」の石柱があった。明治天皇が休憩されたらしい。
この先に「旧加納町役場」があった。
こんなところにあったとは初めて知った。
岐阜市は昭和15年に加納町と合併しているので、それ以前に役場として使われていたということになる。
鉄筋コンクリート造りで、今となっては小さな建物だが、当時はずいぶん近代的な立派な建物だったのだろう。
旧役場を過ぎたところで道は加納城大手門跡のりっぱな石柱に行き当たる。
ここから南へ突き当たったところが加納城跡だ。
中山道はここでいったん北へ向き名鉄電車の線路の手前で再び東へ向かう。
この加納新町のあたりは古い街道筋の街並みの雰囲気を多少残している。
そして岐阜城東通りを越え、また名鉄電車に阻まれる格好で南に少し下がる。
この角地に道しるべがあった。「左西京」「右岐阜谷汲」と読める。
そして、県道181号に出会い、県道に沿って東へ向かう。というか、中山道が県道になっているというのが正しいのだが。
そして。名鉄の茶所駅の横を越え、JR東海道線の高架下を通り岐阜市領下へ入る。このあたりはところどころに畑が見えたりして、加納の街から徐々に郊外へ出てきたという感じがする。
領下往還南の交差点を過ぎると三叉路になっており、地蔵堂の前に大きな石柱が建っており「西京道」「伊勢名古屋近道」「木曽道」と三面に彫ってある。もう一面には明治の年号が彫られており、明治時代にも主要道路だったことがうかがえる。
この先に、細畑の一里塚があった。
一里塚を見るのは初めてだ。もっとこじんまりしたものをイメージしていたが、これなら、江戸時代には遠くからでもよく見えただろう。
また。時代をタイムスリップしたような家もあった。
この先の切通4丁目を曲がったところにいりのと緑地のバス停があったので、今日はここまでにして、帰りはバスでおおむね同じ道をあっという間に岐阜駅まで帰った。