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空になりたい

誰も悪くない

おはようございます、MAOです

昨日、ふと「誰も悪くない」っていう言葉が浮かび
ました

これは、もちろん人に対して思うといいことですが
自分に対しても良い言葉のような気がします

ボケてる姑は、悪くないし、同じことを何回もいう姑を
怒る私も悪くない

夜の12時になって、薬を何度も飲みたがったり、ごはん
を食べたがったり、今日は、どこに行くん?と聞かれ
たり、何度も何度も…

それも、姑の意思で言ってるわけではない、と思うと
そこまで、腹は立たないけど、何度も起きようとする
ので、

「もう、寝た方がいいよ」「起きたらいけん!」
「もう、しゃべったらダメ!寝る薬を飲んだ意味が
ないよ!」と、しばらく言い続けると諦めて寝ます

声に出すと、もう少し、怒った感とか、イライラ感が
ありますが

酷いこと言ってるな、と思うのも、それも悪くはないと
考えることにしました

そう考えると、主人とのやり取りで、ちょっと意地悪
なことを言われても、主人の生い立ち、性格、器の
サイズなどなど、自分の意志で、どうにもできない部分
なのだろうから、仕方がないと考えたり

強気でガンガン言ってくる会社の人やお客さんも、こんな
風に人を攻撃しなければいけない自分の守り方とか
あるのかも知れないな、と考えると

そこまで、人の言葉に傷つかなくてもいい感じがするし

人の言葉によって、言われる原因である自分のダメな
ところや失敗したことなどについても、自分も悪くない
と思うことで、自分を責めずに済むかも知れないと思い
ます

そうやって世の中を見渡した時、絶対的な悪というもの
も、本当はあるのかも知れないけれど、世の中のみんな
も悪くないというか…

自分の考えや行動の結果で、今の出来事が起こって
いるという感じがしますが

先祖代々受け継いだいろんな人の行動や言葉が絡み
合って、今、この瞬間は、自分の意志で行動している
つもりでも、大きな流れの一部というか、そう仕向け
られているだけで

本当のところは、1人1人だけの責任で起こっているわけ
ではないのかも知れないなぁという気がします

その大きな流れの中で、個人である自分は、何ができる
かというと、たくさんの分岐点の中でどちらに進むかを
選べるという自由があるのだと思います

その選んでいることさえ、選ばされているのかも知れ
ないけれど…大きな流れの勢いがある中で、瞬間瞬間
ちょっとした分かれ道を選んで

たとえばそれを川だと例えると、どの河口から海に
辿り着くかを選べて、結局どの河口からでても

「あー楽しかった」とか「大変だったなぁ」とか
いろんな感想を言いながら、辿り着いた先の海は、1つに
繋がってるという、そんなイメージです

結局何が言いたいのかというと、人が悪い自分が悪い
世の中が悪い神様が悪いと、川の流れの中の船の上で

横の人に文句いったり、後ろ(過去)を嘆いたり

上(政治や経済に対しての無力さ)に文句言ったり

下(周りを見れない状態)を向いて苦しんだり行き
詰まったような気がしながらも、船は、海に向かって
流れていくので

前を見て、どちらに進もうか、と楽しんで、今を意識的に
進んで行く方が絶対いいな、と思いました

もっと具体的に考えると、瞬間瞬間の感情が、川の
流れの分岐点だと意識して

自分にとっての良い未来を、目標に、感情も選んで
いけばいいということだと考えます

うんうん、この考え方は、生活に取り入れると、なかなか
良いかも知れない

今日は、ちょっとそんな感じで、人生の川を流れて
みようと思います✨



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