ウラ伊予弁【愛媛新聞 伊予弁コラムで書ききれなかったコトを綴る】

大三島リモーネ Iターン就農から酒造り(リキュール)6次産業の取り組み色々想う事のコトダマを綴る主観ですのでご了承を

「しょうがない」

2016-04-13 01:17:44 | 日記

人生でおこったことの大半は「しょうがない」と思う。
問題に直面したときに「しょうがない」
私がつぶやくと妻は「でた」といって肩を落とす。
どうやら妻は「しょうがない」を「諦観」「無気力」
打つ手なしの「敗北宣言」だと受け止めているらしい。

「しょうがない」は現状を受け入れ気持ちを入れ替え次のステージに進むリスタートの言葉。むしろ前向きな言葉だ。
残念ながら妻にはそう解釈してもらえていないようだ。

ただし「生死」に関しては話が違う。
病死の場合、ああしてやれば、もっと別の治療法が、そもそも発見が、と悔やみ心に折り合いがつかない。それでも日がたてばきっと本人も病から解放され今は天国で安らかに過ごしているだろう、と解釈し手を合わせてみて生者である自身の気持ちをなだめる。

しかし「不慮の事故死」であるならばこうはならない。

店の看板猫「三つ目」が死んだ。
そもそも数年前に親猫の「キジ子」がある日店に顔をだし妻が餌付けをしたのが始まり。
仔猫だと思っていたキジ子の腹は膨らみ、やがて店の裏で四匹の仔猫を生んだ。

神通力というか、おのれの意思を通す力強さをあわせもち額に目の模様があるこの仔猫には手塚治虫氏の漫画「三つ目が通る」の主人公にちなみ「三つ目」と命名した。
「三つ目」以外にふくよかで妖しい腰回りの「マリリン」(恵まれた体躯を生かし他の猫を押さえつけ餌を喰らう姿から別名クリチコと私だけ呼ぶが分かる人だけで良い)
器量が劣る上にどん臭くいつも三匹に比べ後手に回るにまわる「キジパン」
サバキジ柄の三匹に混じり一匹だけ黒白柄で尻尾がかぎ状に折れ曲がった「クロタン」

こともあろうに四匹の仔猫はすべてメスであった。この四匹が半年程度でまた四匹の仔猫を産みそれがすべてメスだったら…と考えると頭を抱えた。

数カ月たち四匹に避妊手術を施し
四匹中、主張が強く生命力に富んでいそうな
「三つ目」と「マリリン」を店に残し
私と妻になぜかなついている「キジパン」「クロタン」を自宅に連れて帰ることにした。

外の世界の方が猫は幸せではないか、妻は主張したがそこかしこにフンをする姿や石を投げつけられる姿を見ていた私は「世の中、猫好きばかりじゃないんだ」と説得させ二匹を連れ帰った。
本音で言えば四匹を家猫にしたかった。



そして二年経った頃の突然の別れ。
この二年、何度店の二匹を連れ帰ろうと思っただろう。
しかし近隣の猫好きや造船所の作業員から可愛がられているのをみて
「これでいい」そう言いきかせた。
家猫とした二匹達に「キミたちの姉妹も元気だよ」
ひけ目を感じつつ店に残した三つ目とマリリンの近況を報告はしたが、
現実には先住猫あわせた計五匹の世話に追われる猫との暮らしだった。
その間、平穏な日々でありながらも「長くは続かない」心のどこかでそう言い聞かせていたのも事実だ。外飼いは様々なリスクがあり覚悟の上だったはずなのに。

悔しい。
死体をみた近所の方の証言だと車に轢かれたらしい。
早朝に死体は処理したらしく私の目では確認していないがその日以来、姿を見せていないし特徴からして「三つ目」に間違いない。

店の裏に安全な場所を作っていたがその場所に別の猫がいつくようになり撤去したばかりだった。その場所さえあれば不用意に道路で車に轢かれることはなかったかも。
野犬によって外飼い猫が襲われた話は大三島ではよく聞いていたがあの二匹なら大丈夫だと三つ目の野生を信じていた。
寒波がきてもみかん箱に毛布を入れ越冬させていたがやはり寒かったろう。

二月のある日、あるイベントに参加するために東京に行った。
宿泊ホテルは私が幼年期に過ごした「錦糸町」にあった。
錦糸町の駅に七年ぶりについて驚愕した。
改札をでると私の記憶ではなかったはずのスカイツリーがそびえ立っている。
それは私の記憶にある錦糸町駅の風景ではなかったからだ。

この先、私の存命中にスカイツリーが取り壊されることはないだろう。
となれば育った錦糸町の思い出は胸にしまい、今の風景に「慣れて」いくしかない。
かつての憧憬と現実を照らし合わせてため息ついても解決はしない。
それは「しょうがない」こと。
三つ目の居なくなったリモーネも残影を抱きしめて、そして当たり前のように
その佇まいを堅持していくことが残された者の使命なのだ。
屹立するスカイツリーを見ながら三つ目がそう教えてくれた気がした。

過日、店に残ったマリリンを家に連れて帰った。
「三つ目」と同じ目に遭わせたくない一心だった。
しかし一週間たってもまったく家に慣れず
かつての姉妹猫とも溝が埋まらず結局、店に戻した。

今、店に出勤した私に寄り添い餌を食べるマリリンを撫ぜながら
「マリリン」に万が一あったら、と考える。
私は「しょうがない」とはいえないがそれ以上のことも考えられない。
しかし万が一あった場合には「しょうがない」の言葉は頭によぎらないだろう。
それも「しょうがない」ことなのだ。きっと。