オールド レノンストリート物語

元オーナー通称レノマスが語る自由が丘にあったレノンストリートの話です。あの頃の時代の仲間、全員集合!

レノンの店の始まり1

2007-05-01 19:10:25 | Weblog
まず、自分が結婚して店をやりたい意向を両親に話すと父は怒ったが、不思議と母は賛同してくれた。多分、自分で洋裁学校も経営したし基本的に商売が好きな性格
だったのか、父親を説得してくれた。そして今から考えると、一人息子とは言え、随分信じてくれてたんだと思うが、家の一階部分を店に改造する資金を城南信用金庫から借りる保証人になったのだった。当時、世間体では飲食店をするという事は
今は信じられないだろうが、非常に悪い印象だった。(確かに、不安定で、営業時間も長い、非家庭的と要素はあるが)そして、知り合いのプロに相談すると、その頃の自由ヶ丘の商店街は小さくこの場所は少し遠いので無理だと判定されてしまった。おまけに学生時代、家庭教師ばかりして、飲食店の経験がなく度素人であった。駆け込みでなぜかわからんが駅前の藪伊豆のそば屋と女房の兄が喫茶店をしていて、そこで一週間指導してもらった。それだけでスタートするのだから、若くて
怖いものしらずだった。しかし後から考えると学校に行きながら始めたこの店、来年まで待つとオイルショックが発生し世の中不況に突入、とても始められなかったっとおもう。とにかくラストチャンスだったのだ。(自分にアイデアがある時は迷わず、すぐ実行すると成功する場合がある。)僕の発想はきわめてシンプルで、自由ヶ丘で、気楽な若者があつまれる場所を提供しようと言う事だった。当時自由ヶ丘には旧態の喫茶店(マイアミ、桃山、サンレモ、タンポポ)しかなく、べビーブーマーを対象とする店(誰もがブウマーが次の客になる事が予想できてなかった)が無かった。丁度、音楽喫茶の部類ではクラシックを聞かせてた名曲喫茶が落ち目になっており、ジャズ喫茶はまだ健在だったが、マニアの世界を出ていなかった。
反面、ロック喫茶というものが出ていたが、多くがかなり高い音量とアングラな環境であった。コヒーの味の世界では、従来のまとめてドリップ式のコヒー作りから
らんずグループによるサイフォン式が人気を得ていた。これらの当時の現状判断から、もし簡単に素人でも始められそうな喫茶店なら、窓が大きくて明るくリビングルーム見たいな(ほんとにそこは我が家のリビングルームだった。)空間で、バックグラウンドミュージックもパワフル過ぎずに繊細な音(当時の高級スピーカーJBLを天井にはめ込んだ)にこだわった。そして選曲も万人受けするビートルズの曲を流すという他に無い、今で言うニッチなマーケットを考えだしていた。またこの店は、商店街の外、住宅街にある店として全国の先駆けの存在になった。
写真は1972年ノンノンの雑誌から抜粋

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