オールド レノンストリート物語

元オーナー通称レノマスが語る自由が丘にあったレノンストリートの話です。あの頃の時代の仲間、全員集合!

<レノンの店> が出来るまで、(1)

2007-03-25 19:01:27 | Weblog
結局 レノンは、その17年の歴史の中で、店名をその時のコンセプトに合わせて
計3回変更した事になる。つまり最初は喫茶、レノンの店(1973~76年)から始まり、レノンクラブ時代(1976~79年)そしてレノンストリート(1979~1989年)時代となりました。
 まずは僕がどうして最初のレノンの店を開くに至ったかを紐解いてみたいと思います。
それには僕の家族の話から始めなければなりません。僕の母親は戦後、自由ヶ丘で洋裁教室(ドレメ系)を開いて成功した人でした。今から考えると特殊な時で、物が無い時代で、ブティクなんかないですから、婦人達は洋裁を習い自分でドレスを作りました。そんな時を得た商売だったので、たちまち家は自由ヶ丘婦人や田園調布婦人の生徒さん達で一杯になりました。僕が地元の八幡小学校に通うようになると、その生徒さん達が、各週おきぐらいに僕の服を作ってくれたので、若い頃から洋服のセンスが身についたようです。
 我が家のライフスタイルも当時、先端を走っていて、決して大きな家ではなかったのですが、広い床板張りの広間があり、大きなダイニングテーブルもありました。また当時珍しかった、テレビやステレオもあり、朝食はいつもコーヒーを点てトースト、コーンフレーク(シィリオ)、ハムエッグを食べてました。(結局味覚の多様性の発達)そして母親は何時も生徒さん達と、当時、自由ヶ丘駅前に沢山あった、生地屋さん、まりむら、みどりや、白樺を廻りその後、モンブランや和風の亀やさんなんかに寄っていたようでした。
母親は仕事が忙しかったんですが、家庭教師を雇ったり、僕には勉強を強要しましたが、勉強好きでない僕に例外を作ってくれました。それは時たまラジオの音楽を聴いてもよいということなんです。つまり当時流行語となった”ながら勉強”でした。小学6年頃でしょうか、文化放送のヒットチャートからビートルズの抱きしめたいが流れ始め、ビルボードの一位にいる間に次のヒット曲ヘルプが10位に入って来るという具合で、ビートルズサウンドのオンパレードでした。当然僕もしらずのうちに好きになっていた様です。(ビートルズへの目覚め、ビートルズ世代)

レノンストリートを閉めて、今年で早や 18年です。

2007-03-19 19:01:47 | Weblog
何故か、いまだに昔の仲間は、僕の事を”レノマス”と呼ぶ。つまりレノンのマスターという意味で本名よりこっちの呼び方のほうが愛着があるらしい。また時たま自由ヶ丘を散歩していて、駅前の踏み切りの角にあるフルーツマルトのおやじなんかと目があうと、未だに
(あっ!レノンさんお元気!)と声をかけてくる。やはりあの頃の仲間達にとって
僕の存在は印象深かったのかもしれない。
どうです!この住宅街の端にあった夜のレノンの外観の写真!
確かに、レノンは1973年から1989年まで、自由ヶ丘の魚菜学園の線路の
反対側に存在したわけで、これからすこしづつ僕が覚えてるレノンの話をしてみたい。もちろんレノンを覚えてる仲間達がこれを読んで懐かしく思ったりして、
コンタクトしてくれるのは大歓迎だし、また時代、時代でクリエイテブな同じ様なビジネスを考えてる次の若い世代の人達に何らかのヒントになればよいなと考えて
います。