オールド レノンストリート物語

元オーナー通称レノマスが語る自由が丘にあったレノンストリートの話です。あの頃の時代の仲間、全員集合!

黒のビートル3

2007-06-27 14:15:36 | Weblog
さあ散財したことはさておき、このビートルはオカジュウ近辺でたちまち有名になった。フォルックスワーゲンクラブが集合し、店の前に20台近くのビートルが駐車した事もあった。また他のワーゲンショップ、ラグスピードやフラット4の人達も常連になって頂いた。店の旧来の常連の達の中からも僕のビートルに影響されて、塩沢君がトライアンフTR4,伊藤君が50年代の黒のオープンのコルベット、野村さんはゴルフGTI,吾妻君はベンツ350SL,と盛り上がり結局、全員参加の散財となった。とにかく暇になると、ゴーという排気音とともに、ゴキブリのように自由ヶ丘周辺をドライブしまくったので、かなりめだったと思う。
結局、計3回エンジンを壊して、直し、最後はフラット4に引き取ってもらった。

黒のビートル2

2007-06-26 16:31:36 | Weblog
この日本への最後限定200台のビートルは白と黒の2色だけで、内装の椅子は赤のチェックの模様だった。しばらくは平和に乗っていたのだが、ある日、長身でハンサム、サングラスをかけて、超改造ビートルで来る芝さんが登場した。店の外で
グーンという排気音がするので彼がくるのはすぐ解る。すぐに親しくなり話をしていくいくうちに、彼は当時、環八にオープンしたスキヤットというワーゲンの改造
ショップで働いてる事がわかった。ともかく彼の運転するビートルはかっこよく、
乗せてもらうと、めちゃくちゃ早い。またまた悪い虫が起きて、自分のワーゲンも
是非改造してみたくなり、ある日、一大決心で新エンジンをたのんでしまった。
ピカピカの2.2リッターまでボアアップしたエンジンを載せて、しゃこたんにして、後輪をオバ-フェンダーにして大型タイヤを装着、エンジンルームを半あけ状態にして補助のラジエターを乗せ、レカロのシートにレースハンドルとシフトレバー、ポルシェメーターとかなりこりまくった車にしあがったが!はっきりいってかなりの金額を散財したが、広告宣伝費だったのかなー?

黒のビートル 1

2007-06-25 04:02:47 | Weblog
僕の車暦を簡単に説明しよう。もちろんアメリカに移ってからは車は必需品なので
所有した数はいっぱいふえたが、僕の時代の日本では、車を持つこと自体が高値の花の時代から始まっている。両親は車反対派であったし家には車がなかった。僕はどうしても車がほしく、とうとう両親に大学の終わりの頃、運転免許がないと就職に不利という大儀名文で、教習所の費用だけは出してもらった。車に慣れてないせいもあって苦労したが何とか免許をとった。費用は当時の36万円ぐらいかかってしまい高額で払ってくれた親に感謝している。ただ、車自体が欲しければ自分で買えと言われた。結局、レノン開店後2年位で、資金がたまり、イスズの117クーペが僕の最初の車となった。デーラーはもうなくなってしまったが、目黒通りの秀和の隣、シェルガーデンの反対側にイスズがあった。結局、この車はスタイルは良かったが、駐車違反やその他の切符を切られ、いやになって売ってしまう。しばらく車なしの状態の後に、また車が欲しくなり、今度は平和な車という感じで、日本への最後の輸入限定車の黒を買ってしまった。
写真は、田園調布、白山メガネ、ビギの白シャツにアルマーニジーンズ、ロレックスデイトナとこれも当時としては凝っていた。

レノン紳士録 1 カメラマンの江副さん

2007-06-24 15:05:13 | Weblog
江副さんは、レノンのドアーを開けて最初に入ってきた時から(カウンターから見ていると舞台に登場する感じ!)、ひとなつこいニコニコ顔で、目だって、何か芸能関係かなーと思わせる雰囲気たっぷりで、すぐに打ち解けあった。店を経営すると、店を離れられないので、情報収集はどうしても客との話と、お気に入りのマガジンを読み漁るしかない。江副さんは何時も、海外ロケの前後に寄ってくれて、ロスやハワイ(当時は海外旅行は簡単に出来なかった)の話をしてくれて、おもしろく、うらやましかった。その江副さんが大好きだったのが、レノン風スパゲッテイナポリタンである。これはオリジナルはケチャップだけの当時の典型的なスナック定番メニューであったが、僕は改良を加え、オニオン、ピーマンの他にコーンとマッシュルームの野菜を加え、これにハムと海老の具も加えた。野菜汁とケチャップの他に、トマトジュースも加えシェリーを振って出来上がり!今はグルメの食材がいっぱい手に入るので想像もつかないが、当時はこれでもかなりのグルメであった。僕はサンディエゴのポイントロマに住んでた頃、江副さんがやって来て、近くのポイントローマシーフードで手に入れた新鮮な魚介類と、テリーのお父さんが作ったトマトと赤ワインで煮込んだ魚介類の煮込みスープが忘れられない!
写真の僕は長髪!で当時はやったエルビスプレスリーのサングラス、江副さんはあごひげいっぱいでレイバンのグラスをかけている。

レノンクラブの時代

2007-06-08 14:26:21 | Weblog
今思い出しても、当時のレノンは毎日変化し続けていた。僕も毎日起きると、昨晩考え付いたアイデアを、どんな小さな事でも、すぐ実行した。つまり、これは何時でも、どんな仕事でも言える事だが、流行の微妙な変化を鋭く感じ取りたえず改革し続けていた。当時、XXXXCLUBという言葉がはやり始めていた事を感じた僕は、ある日突然、今日からレノンクラブに名前を変えようと決意した。(きっと時には何も疑問をいだかずに気軽にのってしまうと、成功する事がある)
別に店の内装を変えた訳ではないが、レノンの店時代のトレードマークのLENNONの文字をやめて、デザイナーの中村氏にたのんで、ジョンレノンの顔をデザインしてもらって、これを新たな基本シンボルマークにした。レノンクラブ時代は3年くらいしかなかったが、その間に、マッチ、レシートと変え、当時ウエイトレスのアルバイトをしていた女性のお兄さんが、近くで鉄工所をもっていて、そこで頼んで入り口にジョンの顔の付いたゲートを作成してもらった。また入り口の左側に、当時輸入されたばかりのヨーロッパ製の街燈を銀座三越から購入して、自分でそなえつけた。外側のテントも赤に金のモールがついた、パリのカフェ的な感じに変えた。

ジップとケン

2007-06-04 00:15:14 | Weblog
親友のジップは大の子供好き、男の子がいないので、僕の子供をよくかわいがってくれる。ハリウッドのジップの家でケンは得意の指相撲でジップに挑戦している。
ジップは日本でアメリカンカジュアルを代表するHTCのオーナーである。
日本の若い人達にはかなりの有名人らしく、フリー&イージーマガジンhttp://www.east-r.co.jp/によく載ってるので機会があったら読んでください。