結局 レノンは、その17年の歴史の中で、店名をその時のコンセプトに合わせて
計3回変更した事になる。つまり最初は喫茶、レノンの店(1973~76年)から始まり、レノンクラブ時代(1976~79年)そしてレノンストリート(1979~1989年)時代となりました。
まずは僕がどうして最初のレノンの店を開くに至ったかを紐解いてみたいと思います。
それには僕の家族の話から始めなければなりません。僕の母親は戦後、自由ヶ丘で洋裁教室(ドレメ系)を開いて成功した人でした。今から考えると特殊な時で、物が無い時代で、ブティクなんかないですから、婦人達は洋裁を習い自分でドレスを作りました。そんな時を得た商売だったので、たちまち家は自由ヶ丘婦人や田園調布婦人の生徒さん達で一杯になりました。僕が地元の八幡小学校に通うようになると、その生徒さん達が、各週おきぐらいに僕の服を作ってくれたので、若い頃から洋服のセンスが身についたようです。
我が家のライフスタイルも当時、先端を走っていて、決して大きな家ではなかったのですが、広い床板張りの広間があり、大きなダイニングテーブルもありました。また当時珍しかった、テレビやステレオもあり、朝食はいつもコーヒーを点てトースト、コーンフレーク(シィリオ)、ハムエッグを食べてました。(結局味覚の多様性の発達)そして母親は何時も生徒さん達と、当時、自由ヶ丘駅前に沢山あった、生地屋さん、まりむら、みどりや、白樺を廻りその後、モンブランや和風の亀やさんなんかに寄っていたようでした。
母親は仕事が忙しかったんですが、家庭教師を雇ったり、僕には勉強を強要しましたが、勉強好きでない僕に例外を作ってくれました。それは時たまラジオの音楽を聴いてもよいということなんです。つまり当時流行語となった”ながら勉強”でした。小学6年頃でしょうか、文化放送のヒットチャートからビートルズの抱きしめたいが流れ始め、ビルボードの一位にいる間に次のヒット曲ヘルプが10位に入って来るという具合で、ビートルズサウンドのオンパレードでした。当然僕もしらずのうちに好きになっていた様です。(ビートルズへの目覚め、ビートルズ世代)
計3回変更した事になる。つまり最初は喫茶、レノンの店(1973~76年)から始まり、レノンクラブ時代(1976~79年)そしてレノンストリート(1979~1989年)時代となりました。
まずは僕がどうして最初のレノンの店を開くに至ったかを紐解いてみたいと思います。
それには僕の家族の話から始めなければなりません。僕の母親は戦後、自由ヶ丘で洋裁教室(ドレメ系)を開いて成功した人でした。今から考えると特殊な時で、物が無い時代で、ブティクなんかないですから、婦人達は洋裁を習い自分でドレスを作りました。そんな時を得た商売だったので、たちまち家は自由ヶ丘婦人や田園調布婦人の生徒さん達で一杯になりました。僕が地元の八幡小学校に通うようになると、その生徒さん達が、各週おきぐらいに僕の服を作ってくれたので、若い頃から洋服のセンスが身についたようです。
我が家のライフスタイルも当時、先端を走っていて、決して大きな家ではなかったのですが、広い床板張りの広間があり、大きなダイニングテーブルもありました。また当時珍しかった、テレビやステレオもあり、朝食はいつもコーヒーを点てトースト、コーンフレーク(シィリオ)、ハムエッグを食べてました。(結局味覚の多様性の発達)そして母親は何時も生徒さん達と、当時、自由ヶ丘駅前に沢山あった、生地屋さん、まりむら、みどりや、白樺を廻りその後、モンブランや和風の亀やさんなんかに寄っていたようでした。
母親は仕事が忙しかったんですが、家庭教師を雇ったり、僕には勉強を強要しましたが、勉強好きでない僕に例外を作ってくれました。それは時たまラジオの音楽を聴いてもよいということなんです。つまり当時流行語となった”ながら勉強”でした。小学6年頃でしょうか、文化放送のヒットチャートからビートルズの抱きしめたいが流れ始め、ビルボードの一位にいる間に次のヒット曲ヘルプが10位に入って来るという具合で、ビートルズサウンドのオンパレードでした。当然僕もしらずのうちに好きになっていた様です。(ビートルズへの目覚め、ビートルズ世代)
冬のうす曇の、えらい寒い日でした。
所要があって、魚菜会館側から、東急のガードを
くぐった時、ふと、目にとまったのが当時の
レノンクラブでした。
向かって左側に大きな木。
石段をのぼって、中をのぞくと、フローリング
(昔の小学校の板の間風)の上に赤々と暖かそうに
灯った石油ストーブに引かれて入店したのが最初
でした。
カフェオーレを注文したかな?
ほっと、一息。
以来、自称、常連として、お世話になるとは、
思っても見ませんでした。
ブログ開設、おめでとうございます。
寒かったような気もします。あの頃は暖房装置も十分でなく、円筒形のパーカッションと呼ばれた石油ストーブを使ってました。
青春の1ページです。