日本書紀 巻第十 譽田天皇 七
・弓月君の来帰
十四年春二月、
百済王が、
縫衣工女(きぬぬいおみな)を貢しました。
真毛津(まけつ)といいます。
今の来目(くめ)の衣縫(きぬぬい)の始祖です。
この歳、
弓月君(ゆづきのきみ)が、
百済から来帰しました。
そして奏して、
「臣は自国の百二十県の人夫(ひと)を
領(ひき)いて帰化しました。
しかし、
新羅人が拒むので
みな加羅国に留まっています」
といいました。
そこで
葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を
遣わして、
弓月の人夫を加羅で召しました。
しかし、
三年を経ても襲津彦は来ませんでした。
十五年秋八月六日、
百済王が、
阿直伎(アチキ)を遣わして、
良馬二匹を貢(たてまつ)りました。
軽坂の上の厩(うまや)で養いました。
阿直伎に飼うことを
掌(つかさど)らせました。
それで、
その馬を養ったところを、
厩坂(うまやさか)と呼びました。
阿直伎はまた
経典を読むことができました。
太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が
師とされました。
天皇は阿直伎に問いて、
「汝よりも勝(すぐ)れた博士が、
ほかにいるのか」、
答えて、
「王仁(わに)という者がおります。
これが秀れています」
といいました。
そこで上毛野君の祖の
荒田別(あらたわけ)、
巫別(かんなぎわけ)を百済に遣して、
王仁を徴(め)しました。
それ阿直伎者は、
阿直伎史(あちきのふびと)の始祖です。
十六年春二月、
王仁(わに)が来ました。
太子・菟道稚郎子が師事して、
諸典籍(てんせき)を王仁に習いました。
一通り悟らないものはありませんでした。
王仁というのは、
書首(ふみのおびと)らの始祖です。
この年、
百済の阿花王(アカオウ)が薨じました。
天皇は直支王(トキオウ)を召しだし話して、
「汝、国に帰って位を嗣(つ)け」
といいました。
そしてまた東韓の地を授け、
遣わしました。
(東韓とは、
甘羅城(かむらのさし)、
高難城(こうなんのさし)、
爾林城(にりむさし)のことです)
八月、
平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、
的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を
加羅に遣わしました。
そのさい精兵を授けて、
詔して、
「襲津彦が、久しく還ってこない。
かならずや新羅が拒(こば)むので
滞っているのだろう。
汝等は、
急ぎ行き新羅を撃ち、
その道路をひらけ」
といいました。
ここに木菟宿禰等は、
精兵を進めて、
新羅の境に相対しました。
新羅王は驚きあわてて、
その罪に服しました。
それで弓月(ゆつき)の人夫を率いて、
襲津彦と共に来ました。
・弓月君(ゆづきのきみ)
渡来系豪族秦氏の祖
・諸典籍(てんせき)
古代の重要な書物や文献
・書首(ふみのおびと)
文筆専門の渡来氏族
感想
14年春2月、
百済王が、
縫衣工女を献上しました。
真毛津といいます。
今の来目の衣縫の始祖です。
この歳、
弓月君が百済から帰化しました。
そして奏して、
「臣は、
自国の百二十県の人を率いて帰化しました。
しかし、
新羅人が妨害するので、
みな加羅国に留まっています」
といいました。
そこで葛城襲津彦を遣わして、
弓月の人を加羅で招集しました。
しかし、
三年を経ても、
襲津彦は帰って来ませんでした。
15年秋8月6日、
百済王が、
阿直伎(アチキ)を遣わして、
良馬二匹を献上しました。
軽坂の上の厩で養いました。
アチキに飼うことを司らせました。
それで、
その馬を養ったところを、
厩坂と呼びました。
アチキはまた経典を読むことができました。
太子・菟道稚郎子は師とされました。
天皇はアチキに問いて、
「汝よりも優れた学者が、
ほかにいるのか?」
答えて、
「王仁(ワニ)という者がおります。
これが秀れています」
といいました。
そこで
上毛野君の祖の荒田別、巫別を
百済に派遣して、
ワニを召しました。
それ阿直伎者は、
阿直伎史の始祖です。
16年春2月、
ワニが来日ました。
太子・菟道稚郎子が師事して、
古代の重要な書物や文献をワニに習いました。
一通り悟らないものはありませんでした。
ワニというのは、
書首らの始祖です。
この年、
百済の阿花王が薨じました。
天皇は直支王を召しだし話して、
「汝、国に帰って位を継げ」
といいました。
そしてまた東韓の地を授け、
百済に遣わしました。
(東韓とは、甘羅城、高難城、爾林城のことです)
8月、
平群木菟宿禰、的戸田宿禰を
加羅に遣わしました。
そのさい精兵を授けて、
詔して、
「葛城襲津彦が、
久しく還ってこない。
きっと新羅が妨害し、
滞っているのだろう。
汝等は急ぎ行き新羅を撃ち、
その道路をひらけ」
といいました。
ここに木菟宿禰等は、
精兵を進めて、
新羅の国境に相対しました。
新羅王は驚きあわてて、
その罪に服しました。
それで弓月の人を率いて、
襲津彦と共に来ました。
渡来系豪族秦氏の祖の弓月君が
帰化しましたね。
秦氏は、
日本に多大なる影響を与えた氏族。
それは今でも様々な所に残っています。
例えば、
日本で一番数が多い神社、
お稲荷さん。
伏見稲荷大社は、
秦氏の祖霊として建立されています。
弓月君がどういった人物だったのか?
気になりますね。
いつか調べてみたいものです。
明日に続きます。
読んで頂き
ありがとうございました。
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