リートリンの覚書

117・日本の神様・大鷦鷯天皇・額田大中彦皇子


117・日本の神様

・大鷦鷯天皇
・額田大中彦皇子


大鷦鷯天皇
(おほさざきのすめらみこと) 


仁徳天皇
応神天皇と仲姫の子


別名


仁徳天皇(にんとくてんのう)

大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)

聖帝(ひじりのみかど)

大雀命(おほさざきのみこと)

難波天皇 



「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。

“二年、春三月三日、仲姫を皇后に立てました。后は、荒田皇女、大鷦鷯天皇、根鳥皇子を生みました。”

応神天皇と皇后・仲姫の間に生まれた子です。

応神天皇133月、

応神天皇は

日向に髪長媛という美人がいると聞き、

特使を遣わして、

召し出しました。


9月中旬、

髪長媛が日向からやってきました。

この時、大鷦鷯尊は髪長媛を見てしまい、

恋情を持つようになりました。


応神天皇は大鷦鷯尊が髪長媛に

恋しているのを知り、

会せてあげようと思い、


後宮で宴会する日に始めて髪長媛を呼び寄せ、

宴席に坐らせました。


そして大鷦鷯尊を呼び寄せ、

髪長媛を指さして歌い、

髪長姫を譲りました。


大鷦鷯尊は髪長媛を譲り受け、

すぐに交わり慇懃となりました。


応神天皇40年1月8日、
応神天皇は
大山守命(おおやまもりのみこと)、
大鷦鷯尊を召しだして、
「子どもは愛おしか?」
と問いました。

二人は「大変愛おしいです」
と答えました。

また更に問いて、
「年長の子と年少の子、
どちらが愛おしいか?」
と問いました。

大山守命は、
「長子におよぶものはありません」
と答えました。

その答えに天皇は不悦の色を浮かべました。
それを察した大鷦鷯尊は、
「年少の子は
大人になっておらず心配で愛おしいです」
と答えました。

天皇は、
菟道稚郎子を太子に立てようとの
思いがありましたので、
その答えを聞き喜びました。

1月24日、
菟道稚郎子を皇太子に立てました。

同日、
大鷦鷯尊を太子の補助として、
国事を執行させました。


41年春215日、

阿知使主らが、

呉から縫工女らを引き連れて帰国しましたが、

天皇が崩御しました。

そこで大鷦鷯尊に献上しました。



祀る神社


神楽坂若宮八幡神社(東京都新宿区)
難波神社(大阪府大阪市)
各地の若宮八幡宮など


額田大中彦皇子
(ぬかたのおおなかつひこのみこ)


応神天皇の子


別名


額田大中日子命
(ぬかたのおおなかつひこのみこと)

大中彦皇子


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十
本文では、
このように登場しています。

“これより先に、天皇は、皇后の姉の高城入姫を妃とし、額田大中彦皇子、大山守皇子、去来真稚皇子、大原皇女、澇来田皇女を生みました。”

応神天皇と妃・高城入姫との間に
生まれた子です。

巻第十では、
名前のみの登場で
詳しい活躍は記載されていません。

巻第十一では、

応神天皇41年春2月
額田大中彦皇子は、倭の屯田(みた)及び屯倉(みやけ)を手に入れようとして、

その屯田司(みたのつかさ)である、出雲臣の祖、淤宇宿禰(おうのすくね)に、「この屯田は、もともと山守の地である。これをもって、吾が治める、汝は司ってはならぬ」といいました。

しかし、大鷦鷯尊が倭直(やまとのあたい)の吾子籠(あごこ)に問い合わせたところ、纒向玉城宮御宇天皇の世に、『倭の屯田は御宇(ぎょう)の帝皇の屯田である。帝皇の子であっても、御宇でなければ司ることはできない』と定められたので、その屯田が山守の地ということはありません」といいました。

そこで、大鷦鷯尊は、吾子籠を額田大中彦皇子のところに遣わして、事情を知らせました。大中彦皇子はそれ以上言うことはありませんでした。

仁徳天皇62年
額田大中彦皇子は、闘雞(つげ)で猟をしました。その際、皇子は山の上から望んで、窟(むろ)を見つけました。

そこで闘雞稲置大山主(つげのいなきのおおやまぬし)を呼び、何の窟か問うと、氷室(ひむろ)と答えました。

そこで皇子は、その氷室の氷を御所献上しました。天皇は喜びました。


祀る神社


山崎神社(京都府京田辺市)
氷室神社(奈良県奈良市)



勉強途中ですので
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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