リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十九 天命開別天皇 九十 ・天武天皇の殯



日本書紀 巻第二十九 
天命開別天皇 九十

・天武天皇の殯



二十八日、
諸々の僧尼は、
また殯庭(もがりのみや)で
発哭(みねたてまつる)をしました。

この日、
直大參の布勢朝臣御主人
(ふせのあそみみぬし)が、
太政官の事を誄しました。

次に、
直廣參の石上朝臣麻呂
(いそのかみのあそみまろ)が、
法官の事を誄しました。

次に、
直大肆の大三輪朝臣高市麻呂
(おおみわのあそみたけちまろ)は、
理官の事を誄しました。

次に、
直廣參の大伴宿禰安麻呂
(おおとものすくねやすまろ)は、
大藏の事を誄しました。

次に、
直大肆の藤原朝臣大嶋
(ふじわらのあそみおおしま)は、
兵政官の事を誄しました。
 
二十九日、
僧尼はまた、
発哭をしました。

この日、
直廣肆の阿倍久努朝臣麻呂
(あへのくののあそみまろ)は、
刑官の事を誄しました。

次に、
直廣肆の紀朝臣弓張
(きのあそみゆみはり)は、
民官の事を誄しました。

次に、
直廣肆の穂積朝臣蟲麻呂
(ほずみのあそみむしまろ)は、
諸国司の誄しました。

次に、
大隅・阿多の隼人(はやひと)、
及び倭・河內の馬飼部造
(うまかいべのみやつこ)が、
各々誄しました。

三十日、
僧尼が、
発哭をしました。

この日、
百濟王の良虞(りょうぐ)が、
百濟王の善光(ぜんこう)に代わり、
誄しました。

次に、
国々造等が、
參り赴いて、各々誄しました。

かさねて種々の歌儛を奏しました。



(感想)

(朱鳥元年9月)

28日、
諸々の僧尼が、
また殯庭で発哭をしました。

※挙哀(こあい)
死者を弔うために泣き声をあげる礼の一つ。発哀・発哭・奉哀・慟哭などとも記される。

この日、
直大参の布勢朝臣御主人が、
太政官の事を誄しました。 

※誄(しのびごと)
日本古代以来、貴人の死を哀悼し、生前の功績・徳行をたたえ、追憶する弔辞

次に、
直大参の石上朝臣麻呂が、
法官の事を誄しました。

※法官
のちの式部省

次に、
直大肆の大三輪朝臣高市麻呂は、
理官の事を誄しました。

理官
のちの治部省

次に、
直廣參の大伴宿禰安麻呂は、
大蔵の事を誄しました。

大蔵
のちの大蔵省

次に、
直大肆の藤原朝臣大嶋は、
兵政官の事を誄しました。

兵政官
のちの兵部省
 
29日、
僧尼はまた、
発哭をしました。

この日、
直広肆の阿倍久努朝臣麻呂は、
刑官の事を誄しました。

刑官
のちの刑部省

次に、
直広肆の紀朝臣弓張は、
民官の事を誄しました。

民官
のちの民部省

次に、
直広肆の穂積朝臣蟲麻呂は、
諸国司の誄しました。

次に、
大隅・阿多の隼人、
および倭・河内の馬飼部造が、
各々誄しました。

30日、
僧尼が、
発哭をしました。

この日、
百済王の良虞は、
百済王の善光に代わり誄しました。

次に、
国々造等が、参上して、
各々誄しました。

かさねて種々の歌舞を演奏しました。


天武天皇の条、本日で終了です。
いかがだったでしょうか?

個人的な意見としては、吉祥も多かった反面、災害や天変地異が多い御代だったように感じました。

大友皇子の祟りでは?
なんて思うほど。

明治天皇が大友皇子に弘文天皇という諱を送っていることから、即位していた可能性があります。

しかし、大友皇子は母親の身分が低いことから、周りからの抵抗も激しかったのではないかと思います。

そのため、大海人皇子が担ぎ上げられたのではないでしょうか。

今となっては、真実はわかりませんが…

さて、次の持統天皇の御代はどのような時代だったのでしょうか?

明日から持統天皇の条を読んでいきたいと思います。

また、おつきあいいただけらた幸いです。

それでは、また。

最後まで読んでいただき
ありがとうございました。





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