リートリンの覚書

日本書紀 巻第二十四 天豊財重日足姫天皇 一 ・出自 ・即位・蘇我入鹿



日本書紀 巻第二十四 
天豊財重日足姫天皇 一

天豊財重日足姫天皇
(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)

皇極天皇
(こうぎょくてんのう)

・出自
・即位
・蘇我入鹿



天豊財重日足姫天皇は、
(重日は、これ伊柯之比(いかしひ)といいます)

渟中倉太珠敷天皇
(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)
の曾孫で、

押坂彦人大兄皇子
(おしさかのひこひとおおえのみこ)
孫で、

茅渟王(ちぬのおおきみ)の娘です。

母は、
吉備姫王(きびつひめのおおきみ)と
言います。

天皇は古の道に順(したが)い考え、
政を行いました。

息長足日広額天皇
(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)
二年に、
皇后に立ちました。

十三年十月、
息長足日広額天皇が崩じました。

元年春正月十五日、
皇后は天皇の位に即きました。

蘇我臣蝦夷を大臣とするのは前の如く。

大臣の子・入鹿(いるか)
(更の名は鞍作(くらつくり))は、
自ら国政を執りました。

威は父に勝っていました。

これによりて、
盜賊は恐懾(きょうしょう)し、

路(みち)で
拾遺(しゅうい)しませんでした。



・押坂彦人大兄皇子
(おしさかのひこひとおおえのみこ)
敏達天皇の第一皇子
・息長足日広額天皇
(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)
舒明天皇
・恐懾(きょうしょう)
慎んだ態度をとること。恐れ畏まる。恐懼
・拾遺(しゅうい)
漏れ落ちたものを拾い集めてくる意



(感想)

皇極天皇は、
敏達天皇の曾孫で、

押坂彦人大兄皇子の孫で、

茅渟王の娘です。

母は吉備姫王と言います。

天皇は古の道理にしたがい考え、
政治を行いました。

舒明天皇2年に、
皇后に立ちました。

13年10月、
舒明天皇が崩じました。

元年春1月15日、
皇后は天皇の位に即きました。

蘇我臣蝦夷を
大臣とするのは以前と同じです。

大臣の子・入鹿は、
自ら国政を執りました。
威勢は父に勝っていました。

こういうわけで、
盜賊は恐れかしこまり、
みちで漏れ落ちたものがあっても、
拾い集めることをしませんでした。

皇太子・中大兄皇子(なかのおおえのみこ)
がいたにもかかわらず

その母親が天皇に即位しました。

そこに至るまでの経緯が 
全く記されていませんね

記載すると都合の悪い事が
多々あったのでしょうか?

どうも、
中大兄皇子。

今後の行動を教科書で知っていますから、
そこから想像すると…

天智と漢風諡号をつけられていますが…

武力で改新を成し遂げるとか、
血の気が多すぎような気がします。

正直、
天皇に向いていないような…

当時の人々も同じように思ったのでは?

16歳という若さですし、
年を重ねたら少しは落ち着くのでは?

とりあえず、
天皇の席が空では、
色々とまずいので、

ここは無難に
母親に天皇になって頂こう

と思ったのではないでしょうか。

想像ですがね。

さて、
皇極天皇の御代は
どの様な時代だったのでしょうか?

明日に続きます。

読んでいただき
ありがとうございました。


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