淀駅のロータリーの所に、
河津桜と淀の水車がありました
初めての方をご案内しました
1枚撮影後、碑があったので、それも撮影
そして、その内容を、LINEの文字認識の機能を使って撮影
こんなにたくさんの内容を、読む時間がありません💦
そこで、LINEの文字認識の機能を、ご説明
早速、みんなで、練習です~(笑)
文字認識をしたデータが下記の内容です
少し修正を加えましたm(_ _)m
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「淀の水車」の碑
「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」で有名な淀の水車は、淀城の淀川沿いの城壁に一つあって、一つは淀小橋下流の宇治川と種川の合流する辺り、もう一つはさらに下流の庭園近くに取り付けられていました。
もともと宇治川筋には古来より灌漑用の水車があったと言われており、淀においても淀城が出来る以前に住んでいた河村与三右衛門の屋敷に水車があったと「淀下津町記録」には記されています。
「帝都を守護せむ地、淀にまされるはなし、汝今より淀に城築くべし」との徳川二代将軍秀忠の命を受けた松平定網は寬永二年(一六二五)に淀城を完成させ、初代城主に就きました。
淀は宇治川、桂川、木津川、巨椋池、四方を川と池に囲まれた美しい水上の城下町となり、さらに二代目城主永井尚政が寛永十五年(一六三八)、木津川を南に下げて城下を拡張し、庭園を新設しました。
永井藩主の家老、佐川田昌俊によって作られたという説が残っていることから、どうやらこの頃までに二基の水車が整備されたようです。
元禄五年(一六九二)に江戸参府の途中、淀を通過したオランダ一行の医師ケンベルは「淀の町は美しく、水車小屋がその城の一部になっている」と書いています。
また、江戸時代に来日した朝鮮通信使も絵と文章で淀の水車のことを伝えました。
宝暦年間(一七五三以降)淀稲葉藩士渡辺善右衛はその著「淀古今真佐子」で次のように「淀の水車は日本国は言うに及ばず朝鮮、琉球、オランダまでも知れ渡ったものである。
二つ二ヶ所にあって、二の丸居間の庭園用と花畑の茶屋の水鉢用に使用している。直径は四間(七,ニメートル)、全体が竹製でわらび縄(蕨の繊維で作った繩)で結んだものである。
心棒に毎朝小船に乗って水油(菜種油などの液状の油)を一升注さねばならない。油を多く注すと良く回る。
箱形の釣瓶が二十個付けられるようになっているが、多く付けると早く痛むので普段は三個にしている。
この釣瓶の古いものが茶の湯の花入れとして大坂や西国で人気となっている。」と記しています。
安永九年(一七八〇)に刊行された「都名所図絵」や文久三年(一八六三)に出版された「淀川両岸一覧」には淀城と水車が描かれ、淀城と言えば水車が付き物となっていました。
葛飾北斎も「雪月花淀川」で淀城と水車を描きました。
明治時代の画家富田渓仙は淀城の水車が好きで作品を残しています。
溶溶と流れる淀川の波に従い優雅に廻る水車の姿は、淀川を行き来する旅人の心を癒したに途いありません。
「ほととぎす待つやら淀の水車」西山宗因
「霧の中何やら見ゆる水車」 上島鬼貫
(松井遠妙)京都淀ライオンズクラブCN 40周年記念
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