大阪七福神参り・・・四つ目は、≪宝満寺(大乗坊)≫
毘沙門天・・・金銭融通の御利益
大阪 日本橋のど真ん中にありました
何度も通った事のある場所なんですが・・・
きっかけがないと、行く事もなく、ぜんぜん知らなかったのです~~
本堂の中も、少しだけ撮影させて頂きました
歴史
もと天王寺牛が崎にあった崑崙山宝満寺の子院で、新坊と称したが、
天文(1532年 - 1555年)・天正(1573年 - 1592年)の頃、再三の戦火を罹り、
秀言律師が本尊を奉じて各地に流寓し、本坊は廃絶となり、難波の地に大乗坊のみ再建された。
文禄(1592年 -1596年)の頃、宝及律師が船場の豪商灰屋善兵衛の別荘を寺とし、現在地に移転。
万延年間(1860年 - 1861年)には堂島の米問屋二川家の寄進により寺勢大いにあがり、
長町の毘沙門堂と親しまれる[1]。 昭和20年(1945年)の空襲で堂宇は全焼。大阪七福神めぐりの1つ
文化財
木造毘沙門天立像 重要文化財(大正3年4月17日指定) 南北朝時代 御前立の立像
信貴山・鞍馬山・北山本山寺と並んで日本四毘沙門天の1つに数えられていた。
毘沙門天は秘仏で、60年に一度の開帳であったが、
現在では毎年春秋2回(5月と11月の第2日曜)開帳されている。 Wikipediaより
もと天王寺牛が崎にあった崑崙山宝満寺の子院で、新坊と称したが、
天文(1532年 - 1555年)・天正(1573年 - 1592年)の頃、再三の戦火を罹り、
秀言律師が本尊を奉じて各地に流寓し、本坊は廃絶となり、難波の地に大乗坊のみ再建された。
文禄(1592年 -1596年)の頃、宝及律師が船場の豪商灰屋善兵衛の別荘を寺とし、現在地に移転。
万延年間(1860年 - 1861年)には堂島の米問屋二川家の寄進により寺勢大いにあがり、
長町の毘沙門堂と親しまれる[1]。 昭和20年(1945年)の空襲で堂宇は全焼。大阪七福神めぐりの1つ
文化財
木造毘沙門天立像 重要文化財(大正3年4月17日指定) 南北朝時代 御前立の立像
信貴山・鞍馬山・北山本山寺と並んで日本四毘沙門天の1つに数えられていた。
毘沙門天は秘仏で、60年に一度の開帳であったが、
現在では毎年春秋2回(5月と11月の第2日曜)開帳されている。 Wikipediaより