私の写真館

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大阪七福神 3・・・法案寺

2016年01月31日 | ・イベント「大阪」



大阪七福神参り・・・三つ目は、≪法案寺≫


弁財天・・・智恵財宝の御利益







朱塗りの山門・・・外から・・・中から・・・


都会の雑踏の中、眼が覚めるようなキレイな朱塗り~~











歴史
寺伝によれば、推古天皇の頃(593年 - 628年)に聖徳太子が志宜野(しぎの)
(大阪市城東区鴫野(しぎの))に法案寺を建立したという。
建立した場所の地名から山号を「志宜山」とし、
仏法弘通の公案をしたところから寺号を「法案寺」としたという。

時代が下り、本地垂迹説が広まるようになってからは、
生玉明神と習合して神宮寺の別当として隆盛したが、
後になって衰微したが、応永年間(1394年 - 1428年)に
松永政廣が称光天皇の勅命を受け、法案寺の再興に尽力した。

「天文日記」には、法案寺第3世・正教が蓮如に帰依したために、
蓮如が法案寺の敷地に借地して石山本願寺を建立し、
後に寺地を譲渡したという記録がある。

豊臣秀吉が大坂城を築城するとき、法案寺は法円坂町付近にあったが、
天正11年(1583年)生玉明神とともに
馬場崎(大阪市天王寺区生玉町、生国魂神社の所在地)に強制移転させられた。

なお、法円坂の語源は法案寺からきたものとされ、「法案」から「法眼」、
そして「法円」となまったものという。
江戸時代になり江戸幕府から寺領300石を与えられて以降は、
歴代の大坂城代が法案寺に帰依したこともあったので、隆盛した。

明治時代に入り、廃仏棄釈に遭って寺領を失った当時の法案寺住職・栄達は
本堂から聖観音と聖天堂の歓喜天を持ち出し、明治16年(1883年)年6月に
現在地である大阪市中央区島之内2丁目に法案寺を復興再建したが、
境内地は生玉町にあったころと比べるとはるかに狭くなった。

昭和20年(1945年)3月、太平洋戦争による大阪大空襲があり、
法案寺は本堂・諸堂とともに焼失した。
聖観音・歓喜天は焼失せず、仮本堂に祀られている。Wikipediaより

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