彷徨う普代村民

普代村の一村民、
彷徨う村からの貧民の呻き声

傍観者のことなかれ主義

2015年11月13日 | Weblog
「全体主義」とも言うのではないか。政治的な思想体制のひとつなそうです。1人(1団体)の支配的意見が、全体を規制してしまい、個人の個人の意見は規制・強制された全体の流れに従う。と自分なりの解釈。

マルティン・ニーメラー(ドイツの神学者)
《1950年代から平和主義者、反戦運動家として声をあげるようになり、ベトナム戦争中もホー・チ・ミンと面談し、反核運動でも活動した。

基本的な内容は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が迫害対象を徐々に拡大していく様に恐怖を感じつつも、「自分には関係ない」と見て見ぬふりをしていたら、己がいざ迫害対象になると、社会には声を上げる人は誰もいなかったというもの。》

と、載っています。

 その、ニーメラーさんという人の詩があるそうで、こんな↓

『ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。
けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。
けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。

— 丸山眞男訳、「現代における人間と政治」(1961年)』

 傍観者が多くなれば、攻撃的な人の言うことが、全体的な空気となり、その方向へと進む。
多くの人がそれはおかしいと感じつつも、声がないのでその方向へ流れる。
その攻撃が自分に向かったとき、周りは傍観者のみ。

  ということなのでしょうか? ドキッとする詩です。

今の自民党安部政権内部、おおさか橋下徹。

 安部独裁政権は、国民の声を無視し次々法案を通し、普天間をいじめて国民に対する攻撃の手を緩めません。最後は17年4月からの消費増税で国民にとどめをさし、アメリカ企業とと大企業の住みよい社会を目指すのでしょうか。
 橋下ガンガン氏も同様、大阪市民のためかどうか分からない都構想を、「最後のチャンスです」と煽って国民投票し、決着がついたはずなのに再び持ち出して、反対者は攻撃するという「ナチまがい」を強行しています。

村、組織など、一つのコミュニティーの中でも起こっていそうなことではあります。

全体主義状態の中で口を出すのは非常に勇気がいる。
声を出しても、傍観者だけだと、ひとりでは何も変わらない。

決して争いたいわけではないが、ことなかれ主義は、、、楽です。

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