ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

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臨床美術と、行間を読む、こと。

2013-07-16 12:10:30 | 人間関係

**相変わらず、人とのコミュニケーションへの不安が深くなり、今更青臭いなーと思いつつ、混迷の模中。

 

来ました。

今年も「平成25年度 NHK全国短歌大会」 募集要項と大会のパンフレット

昨年、ビギナーズラックで1首入選しました。今年は春先から無謀に忙しくしてしまったため

短歌を詠む余裕もなく、しばらく離れていました。また、詠もうとしていますがカンが取り戻せないというか、

さらっと詠めません。

実は、詠めなくなった理由があります。それは、臨床美術に触れて考えたことにちょっと起因します。

++臨床美術協会サイトより 「臨床美術とは(一部抜粋)」

脳の活性化には、視覚的、直感的な作業や芸術活動が効果的だということも知られています。しかし、ただ絵を描けば脳が活性化するわけではありません。
偉大な美術家の中には「創作する際に普段とはちがうものの見方をする」と言う人がいます。これを脳科学を用いて理論付けたのがBetty Edwards(米)の研究です。
Betty Edwardsは、「ほとんどの人は左脳を使って絵を描いている」「右脳を使って描かせることにより才能とは関係なく、急速に絵が描ける」と説明しています。
臨床美術はこの理論を取り入れ、さらに五感を刺激し、感じる事によって美術表現が可能になることを実践しています。

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友人が、臨床美術の簡単なWSをやってくれました。まず、人が絵を描く時に、表現がいかにそれまで学習してきた知識を集約した「記号」として、絵を描くものであるか。

を体験させてくれました。

「太陽」「家」とか単語を聞いて5秒以内に描く、ことをちょっとやってみて

絵はひとにイメージを伝えるための記号であること

しっかりと伝わりやすい記号の絵は「左脳」で処理され描かれているものであること。

逆に、自分のなかのイメージだけを表現して他者との情報共有を意図していないように描かれた絵は、「子供の絵」と同じであり「右脳」で描かれた絵だということ。

そんな説明を受けたのでした。

<記号と左脳>、<自己のイメージ表現と右脳>、<コミュニケーション>についてその時考えたこと

左脳で適切に処理された記号を正確に使うことで、ミスの少ないコミュニケーションが可能だろう。逆に右脳で生成したイメージをそのまま「ぽんっ」と相手に手渡せば、間違った意図が伝わったり、何も伝わらす相手を困惑させるだけなのではないかと。

そのWSで作った「はにわ」

何かを伝える意図が全くない物体になっていますが隠喩を込めたつもりではあるのです。でも全く伝わらないですね。このときは「右脳でつくってね」という目的だったので、ある種「右脳全開」でよかったのですが。

 

話を短歌に戻します。私の短歌は、発想のオリジナリティーの強烈さを指摘されます。

イメージから発想する「言葉」、「言葉」から起草して切り取ってくる「風景」「イメージ」が、一般的な記号に合致しないのです。私が普通に考えるとそうなってしまう部分もあり、敢えてそう言う発想の訓練を自分に課しているところもあります。

私はますますコミュニケーション困難な域へ、自分が行ってしまうのではないかと、不安になったのです。

論理的に説明すること、は相手に正確に伝えることを目的とするので、そこに行間や揺れやカラー不明なものは正確な伝達の邪魔です。それはとても素敵な伝達方法で、そうしたいといつも思うのですが、文学や芸術はそうではないようです。自分が発する意味不明な曖昧な表現を、相手の捉え方を既定しないこと、を含めて、表現になる。

**** でも気づきました。

それでも、誰かに観てもらったり読んでもらったりすること、そしてそれによって相手にいい影響を与えること、を究極の目的とするなら、

言い換えるなら、自己表現が全くの一方通行やマスターベーションではイヤだと思うのであれば

解りにくい「ワタシ」というものを何らかの形で伝える「武器」=(技術) を持たなければならないのだろうということ。結局のところ、何かを表現したい欲求=誰かに何かを伝えたい に違いはないのです。

 

心に響く歌は、「スコーン!」と思いもよらず心を突き抜ける言葉を、見せてくれたりするのですよねー。

 表現するというのは、本当に自分を切り刻むようなものなんだな、と今更ながらに思いつつ、

今年も「全国短歌大会」へ応募します。果たして自己表現への「迷い」は吹っ切れるのか。

 

 

 


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