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ホウジョウキ  ++ 小さな引籠り部屋から ~ ゆく川の流れは絶えないね

考えつつ振り返り、走りながらうずくまる日々。刻々と変わる自分と今の時代と大好きなこの国

休眠口座、ありませんか?

2012-08-30 05:28:20 | 生活改善プロジェクト

身辺整理が止まらない、はまだ続きます。

私は「モノを捨てられない」性格なので、いろいろなモノが「とりあえず」保管してあります。

きれいな包装紙や紙袋(日本の印刷物は本当にきれい)、洋服のタグ(だってデザインが素敵なんだもん)、昔使ったノートやスケジュール帳、ノベルティでもらったボールペン・・・

「とりあえず」いちいち取っておいたら、身辺は本当にモノだらけです。

そんなモノたちをバッサリ捨てたり、取捨選択をしているのですが・・・

銀行通帳も、どっさりあります。

今のメガバンクが合併する前、都銀と言われた頃の今はなき銀行の通帳。

京都の信金。札幌の唯一の都銀にして初めて潰れてしまった都銀の「たくぎん」。

数えれば20冊以上。

なぜこんなにバリエーション豊かなのかというと

都銀が何度も合併して新しい銀行が出来てはなくなったりしてくれた、ということもありますが

小さい会社に勤めると、会社が自社に(経理担当者に?)都合の良い銀行に、給与振込口座を勝手に作ったりしちゃうんです。それは法律違反ですが、業務上楽なので普通に行われています。零細企業にコンプライアンスを求めるのは難しいことが多いことの一例。

そんな零細企業を何社も渡り歩いているうちに、本来の自分の銀行口座以外に、給与口座がいろいろ増えて、そしてその会社を辞めるとなんとなく放置してしまったり・・・(銀行口座を放置していて平気なのは、私の金銭感覚の鈍さを表していると思いますが)

20冊ある通帳を、残高を確認してみて、

今利用しているメガバンク2行につながる歴々の銀行の通帳を時系列に並べてみると

あらら、遡る途中で繋がらない通帳が2つ。どうも、そこそこ残高を遺して、そのまま口座が放置されているのかもしれない。単に記帳していない状態だとしても、繋がらない口座が2つ。

早速、合併後の現メガバンクの窓口へ

残っていました・・・残高が。どちらも十万単位で・・・(なんということ!)

一行は、10年出し入れが無い口座でしかも合併前の口座なので、封鎖されていますのでセンターで調べないとわかりません、ということで待つこと1週間。で、残高があるという連絡を受けて、口座閉鎖と残高を今の口座に移す手続きにもう一度行きました。

もう一行は、10年以上前、こちらも合併前の口座でしたが、こちらは当日残高がわかり、現メガバンクの口座に定期を作って放り込みました。

国が、休眠口座の忘れられた預金をちゃっかり国庫に、と狙っている訳がわかりました。1円単位で、節約している一方で、こんなずぼらなことを平気でしてしまう人間も居るのです。たぶん、そういう方がけっこう居るのでしょう。

休眠口座、ありませんか?

今はなくなった、旧都銀の通帳、怪しいです!

残高が残っていたら儲けもの!

銀行窓口に行きましょう。窓口で時間がかかっても、面倒くさそうにされても、調べてみることをお勧めします。

 


食べること、食べないこと、の功罪

2012-08-14 10:18:50 | 生活改善プロジェクト

身辺整理が止まらない。と昨日書いた。

この「片付けたい」欲求はどこから来ているのだろう。何かを新しく始めるため、リセットするための、準備体操のようなものなのか。

そういえば、食欲減退も止まらない。

何故食欲が極端に減退しているのかは、胃の検査、色々飲んでいる薬や治療についての各担当医の見解もはっきりしない。

でもとにかく食べられないので、食事の量は極端に減り、体重も減っている。

それで、身の回りを片付けたくなったのは、食べていないことに関係があるような気がしてきた。

食べられなくなって、多少体の不調が出ている。血液検査で栄養失調状態だと言われたし、手足は頻繁にツルし、めまいも起きる。でも、けっこう元気に生活している。仕事もしているし、思考力が極端に下がっている様子も無い。

 

これは・・・普段が食べ過ぎ、なんじゃないか?

先進国の現代人の摂取カロリーは、そもそも過剰だという説をよく聞く。確かにハイカロリーな食事をこれでもかと食べて、間食もして、甘い飲み物もアルコールも飲んで。

後進国、途上国に住む人は我々の何分の一のカロリーで生きているのだろう?はたまた、ほんの少し昔の日本人、たかだか50年とか70年とかくらい前の日本人の食事と比べて。彼らはちゃんと生きて労働も生産も思考もしている、(いた。)

宗教の修行には絶食がよく取り入られられる。仏教の僧侶の修行食はほんとうに乏しい食事で、かなりの労働と思索をする。過剰なカロリー摂取が生産活動と思考活動の邪魔をしているかのごとく。

過剰に食べることで、人間の本能的な欲求がすべて十分すぎるほど満たされてしまって、食以外の欲求が麻痺するような。

食べること、はおそらく人類のDNAに累々と刻まれてきた根本的な本能だから、それを満たされればとりあえずOK、と体も脳も停止するような気がする。

逆に考えれば、食べられない、という事態は、自分の体をフル回転させて「食べられない」危機から自分自身を救おうとする。だから、生産効率が上がるはずだ。

それから、食べられなくなって、もうひとつ気がついたこと。

お腹が空いて、食事を美味しいと感じる、ことがいかに人を幸せにするか。結局人間は食べること至上主義なのだ。動物なのだから当然だ。

食べられればOK。さらにそれが美味しく楽しければ、オプション付き。

そう思えることも、とても人生をシンプルに片付けてくれる。食べないことが、違う景色を見せてくれた。

 


身辺整理 これはbroken windows theoryだと思う

2012-08-13 20:39:27 | 生活改善プロジェクト

1ヶ月くらい前に、いつものように週末土曜日ののだら~んとした朝、ほんの少しだけ片付けて、自分のデスク周りくらいは奇麗にすれば、きっとやる気が出る・・・と思って片付け始めたら、止まらなくなった。

デスクの上からパソコン周り、本棚、仕事の書類、と際限なく続き、止められない。

「片付けたい気分」は思いのほか長続きし、ずっと解決しなかったfontインストールを解決して長年思い続けていたPCのMac 移行、(さようならWindows、まあ残してはあるけど)積年の年賀状の処分、不要な本の処分、放ってあった壊れたままのスキャナの処分、多分、言葉通り売るほどあるポストカードの分類整理・・・もう、止まらない、止まらない。

とうとう、長年放置していた銀行口座まで奇麗にした。二行、今はもうなくなっている都市銀行の通帳の残高確認をして、現在の口座に移した。いくらかのお金を発掘してしまったというおまけ付き。

どんどん片付いて行く自分の身の回り。

そうすると、新しいものを増やすことを、以前に増して躊躇する。

正確には違う、新しいものを増やすことに躊躇しているのではなく、不要なものが増えることへの嫌悪感が増したのだと思う。

一時、欲しい!と思っても、手に入れてみるとそれほど嬉しくないもの、使わないもの、はとても多い。

今私が本当に必要で欲しいものは何か、ということを考えていると、行動もシンプルになるように思う。よけいな行動も無くなるのだと。

自分の周囲から不要なものを削ぎ落とすと、不思議とどんどん削ぎ落としたくなる。

ああ、憧れ続けている数寄屋造りの日本建築の部屋のように、何も無い、いらないという精神世界へ、近づけているのではないだろうか、とさえ思う。

ものを作るときの、究極まで削ぎ落とす作業はきっとこれなのだ。

削ぎ落とし続けることで見えてくる本当に必要なもの=本質。

人生半ばにして、やっとたどり着けたこの境地の入り口。

今度こそ、洋服をごくシンプル、オーソドックスなものだけにして、最も自分を表現できる個性的な着こなしができるようになれる、気がしている。

 

 


タルコフスキー再び

2012-08-05 23:04:39 | art

渋谷ユーロスペースで、パンドラ配給の「タルコフスキー生誕80周年記念映画祭」

8月4日から始まりました。

A.タルコフスキーは、熱烈なファンがいる監督、寡作ですが美術史に燦然と輝く美しい映像なので、芸術関係者、愛好家にとっては、必見のもの。

時々、このような形で集中的に公開されてきました。

4日の初日に「ノスタルジア」、今日「サクリファイス」「惑星ソラリス」と3本観ました。これからまだ観ますが。

どの作品も、私自身過去に1回以上は観ています。学生時代に一度観てずっと見ていない作品もありますが。初めて見たときの鮮烈な印象を忘れることができません。

こんな美しい映像が、こんな暗示的な詩や場面が、こんな俳優のアップの表情が・・・

と驚きました。おまけに「能」上演を観るときによく似た睡魔への誘いも。

 

久しぶりに観た、タルコフスキーの世界は、若い頃の衝撃とはまた違った感情を沸き立たせるものでした。歳を取るって、こういうことなのか。と一人ごちたりしました。

どの回もかなり込んでいて、若い女性が一人できている姿が多かったのが印象的でした。圧倒的に男性好きのする作家だと思っていたので。一人で、渋谷ユーロスペースに古い映画を見に来るきれいで若い女性、がたくさんいるのは、ちょっと嬉しいことです。

 

今改めて発見したこと。

水の表現の美しさは言わずもがなですが、特に美しいのは汚れて淀んだ水、本来なら汚いはずのものをこの上なく美しく表現できるのだと言うこと。

若いときにはその手法や映像美ばかりに目がいきましたが、今観ると、この監督は人間を、人間だけをナイフでえぐるように描いていたのだと言うこと。

女性への視線が固定的だということ。タルコフスキー自身の母親への葛藤からでしょうか。女性という存在に対してかなり硬直的なイメージで描いていますね。

女性を憎み女性を愛した人生だったのかもしれないなと思わせられました。

タルコフスキーの映画は、その哲学的、詩的、極限まで追求する美的なところに魅力を感じていましたが、とても人間をを愛し、人との関係の構築に苦しんだのだということを、今は読み取ることができました。

そして私自身を振り返り、そこまでの他の人間への愛がないことに気づかされました。

その差異には、時代、国や民族性、文化、の違いがあるはずですが、芸術というのは人間をとことん愛せないとできないものなのだと、思い知ったような気がします。もちろん愛と憎しみは表裏一体。

 

最近、私はちょっとセンシティブなのかもしれません。

かなりこの3作も胸に迫るものがありました。最も好きな「ストーカー」を観たときは何を感じるだろう、ちょっとドキドキします。

先日の、PMFコンサートのブラームスとR.シュトラウスといい、全身がざわざわとする感動を味わうこのごろです。