ところで話は変わるけど。

身近な話とディープな話など。

長崎観光裏事情②

2004年11月19日 | 長崎
続きです。

そういうわけで、その写真により「グラバーの息子」に興味を持ちました。
何故、表舞台にでないのか?シーボルトの嫁(お滝さん)と娘(お稲)はよく聞くのに何故だろうか?と疑問を持ったのです。

さて、グラバーの息子「倉場 富三郎」どういう生涯をおくったのか?
以下抜粋です。

「グラバーには倉場富三郎、ハナという二人の子どもがいました。倉場富三郎はアメリカ留学から長崎に戻り、ホーム・リンガー商会に入社すると、蒸気トロール漁船をイギリスから輸入し、日本の水産業の振興に大いに貢献しました。底引き網にかかる膨大な魚を見た富三郎は、分類学的研究ができる魚類図鑑をつくろうと思い、私費を投じて4人の画家に魚の絵を描かせ、21年の歳月をかけてグラバー図譜を完成させました。旧スチイル記念館、旧グラバー邸の奥の廊下にその一部が展示されています。」

これも初耳でした。多分俺が知らないだけなんでしょうが・・・。たまにグラバー園に行きますが目に付かないところに記述されていたかも知れません。

「また、混血として生まれた富三郎は、日本と外国をつなぐ仲立ちになろうと懸命な努力を重ね、内外クラブという外国人との親しん睦ぼく団体をつくり、日本初のパブリックコース、雲仙ゴルフ場の設立にも力を注ぎました。しかし第二次大戦中、スパイの容疑をかけられ、造船所が見えるグラバー邸を明け渡すよう強制されます。そんななか同じ混血の境遇に生まれた妻ワカが急死。やがて長崎に原爆が落とされ、絶望のなか終戦を迎えたた富三郎は、その11日後に自ら命を絶ちました。遺言には、街の復興のために莫大な金額を長崎市に寄付するよう記されていました。 」

・・・なんとも、やりきれない思いがしました。日本の為にしてきたのに。日本人なのに。
何かしらの差別もあったのかもせれません、一応敵国の血縁ですし。

そして最後に俺が疑問に思ったのは、これだけの功績と悲劇をもった人が何故表舞台に出てこなかったんだろう?ということでした。

ゾルゲなんかよりよっぽど人間的なのに。

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