津野町高野に 中平善之進の像が!
高野の回り舞台の近く、国道の並びにあります。
宝暦年間に起こった津野山一揆の指導者。
農民救済に生涯をささげた義民で、その功績はいまなおかたりつがれている。とのこと・・・
出典: 中平善之進墓
中平善之進(1709-1757)
東津野村北川庄屋上岡吉左衛門次正の長男として生まれ、元文3年(1738)檮原村大庄屋中平弥左衛門の養子になりその職を嗣いだ。
土佐藩は宝暦2年(1752)に専売制を強化し、各種国産物に問屋を指定し生産者農民から強制的に買い上げさせたが、不当に安値だったので農民の厳しい抵抗が起こった。宝暦5年(1775)の津野山騒動である。
庄屋であった善之丞はその責を全て負い藩にその不正をうったえた。藩は善之丞と問屋商人・蔵屋利左衛門とを対決させた。強く利左衛門の不正を指摘して問屋制の矛盾に迫ったが、藩は両人とも死罪にした。その後各地で専売制への批判が起こり、ついに宝暦13年(1763)に,専売制全般を一時撤去した。
出典: 「しまんとふぁん」より
中平善之進は、「天誅組」(大岡昇平著)の主人公・吉村虎太郎や坂本龍馬が活躍する時代よりもおよそ百年ほど昔の人で、地元農民の苦しみを背景に、庄屋の身分ながら山内家の使者の行列に「待った」をかけ、妻子ともども打ち首にされた人物です。
それよりも、およそ百年前の千葉佐倉で起こった「惣五郎の事件」によく似ていることもあり、ひところ、彼のことを「土佐の佐倉惣五郎」などと称することもありました。
その生き様(死に様)からも想像できるように、土地の人々から深く慕われた、彼のような人物に対する土佐藩の扱いは、百年後の「維新の時代」へとつづくアンチ山内家&アンチ徳川家への感情的流れの本流となるべく、深く静かに一般民衆の心の中に浸潤してゆくきっかけなったことは否定すべくもなく想像することができます。
中平善之進の像
中平善之進風神塚
高知県高岡郡津野町高野
HN:訪問者