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SF小説を読む その3

2014-06-22 00:06:54 | レビュー
月日は経つことは驚くほどはやいもので、またSF小説のエントリを投稿しようと思って、以前「SF小説を読む その2」を書いた時期を確認したら今から3ヶ月ほど前だった。主観的には1ヶ月ほどしか経っていないと思っていたのだけど。
以前の更新から読んだSF小説のタイトルは以下の通り。

「幼年期の終わり」アーサー・C・クラーク
「イシャ―の武器店」A・E・ヴァン・ヴォークト
「タイタンの妖女」カート・ヴォネガット・ジュニア
「スローターハウス5」カート・ヴォネガット・ジュニア
「プレイヤー・ピアノ」カート・ヴォネガット・ジュニア
「猫のゆりかご」カート・ヴォネガット・ジュニア
「SF怪奇伝説の謎」草川隆
「ニューロマンサー」ウィリアム・ギブスン

SF小説を読みはじめるきっかけとなった、ディックの小説は全く読んでいなかった。ディックで読みたい本はまだまだ残されているのだけど、この3ヶ月間はカート・ヴォネガット・ジュニアの小説を中心に読んでいた。
ヴォネガット自身は、自分をSF作家であると表現されることに違和感を持っていたというような記述が、「猫のゆりかご」の解説にあったが、確かに、当初持っていたようなSFのイメージとは趣の異なる話が多い。僕が持っていたSF小説に対するイメージはテクノロジーが支配をする、ある種、無味乾燥とも言える世界を描いた話だ。人間よりも、テクノロジーが重要な世界。読者を惹きつけるテクノロジーや世界観をいかにフィクションの中で生み出せるかが、SFの面白さを左右する、そんなイメージだ。しかし、ヴォネガットの小説はSF小説ではあるけれども、なんていうか話に湿り気がある。無味乾燥ではない。確かに今いきている時代よりも進んだテクノロジーの話は出てくる。その湿り気の正体が何だろうと考えると、やはり登場人物に鍵があると思う。ヴォネガットの小説には、どこか間の抜けた人物が良く登場する。人間は本来、間の抜けた存在であって、それを補う為にテクノロジーが存在すると思う。SF小説に描かれる世界に無味乾燥な印象を持ってしまうのは、テクノロジーが発達しているせいか、人間の間の抜けたいわゆるダメな部分があまり感じられないからだろうか。ヴォネガットの描く人物はSF的な世界に身を置きながらも、調子が外れたダメな人間が多く、それでいて、作者のダメな人物に対する優しい眼差しが読み取れる。愛すべきダメな奴だ。
また、ヴォネガットの小説には読んでいて、ハッとさせられる良い言葉、いわゆる格言のような一文が多く登場する。格言が僕たちに必要なのは、僕たちが不完全な存在であるからだとも思う。不完全で間違ってしまうことも多いから、道標となるような言葉に惹かれる。ヴォネガットの話はSF的な世界の中で、人間や組織の不完全さがうまく描かれていて、だからこそ発せられる格言というものが巧く機能しているように思う。

うまく考えがまとまらない。もっとSF小説を読まないといけない。

映画「アクト・オブ・キリング」

2014-06-07 23:24:25 | レビュー
〇映画「アクト・オブ・キリング」を観ました。

予告編を劇場で観て以来、気になっていたドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」を観る。

「アクト・オブ・キリング」は1960年代にインドネシアで行われた大虐殺をテーマにした、ドキュメンタリー映画だ。1965年にスカルノ大統領の親衛隊がクーデター未遂事件を起こす。クーデターの収拾にあたった軍部のスハルト少佐は、クーデターの黒幕は共産党だとし、インドネシア各地で100万とも200万とも推定される人々を共産党関係者だとし虐殺。実際に虐殺にあたったのは、プレマンと呼ばれるギャングや、右派勢力であるパンチャシラ青年団など。虐殺を行った後に彼らは罰せられることもなく、現在でもインドネシアにおいて権力の座についている。
「あなたが行った虐殺を、もう一度演じてみませんか」監督であるジョシュア・オッペンハイマーは虐殺に加担した実行者に持ちかけ、彼らの殺人を再現する映画を撮る。このドキュメンタリー映画は、その再現映画を撮る過程の記録である。

今作の主人公であるアンワル・コンゴは当時に1000人以上の共産党関係者を虐殺したプレマンの一人。アンワルら虐殺者たちは、自慢をするように虐殺について語り、「ユーモアが必要だ」とし、おどけた調子で撮影に臨む。素晴らしかった昔の時代を懐かしむように「あぁ俺たちはよくここで殺しをしたんだよ」と振り返る。とてもシリアスな話であるべきなのに、始終、ほのぼのとしたムードが支配しているところが、不思議でもあり恐ろしい。例えば、印象的だったのは、初めて殺しの再現シーンを撮り、その映像を家で観ている時のアンワル・コンゴの反応だ。彼はずっと自分の姿に注目をしている。「あぁこの白いパンツはよくなかったな、俺は普段は白いパンツは履かない」「髪は黒く染めた方がよかったな」。殺しを行った事実に対しては無頓着であり、どうすれば自分が、映画スターのように格好よく映るのか、そればかり考えているように見える。また、パンチャシラ青年団の地域リーダーは、カメラの前で堂々と、俺の普段の様子はこんな感じだよ、というような顔をしながら、華僑商人からみかじめ料として金を巻き上げる。虐殺を行った当事者たちは現在でも、権力の座についていてやりたい放題だ。

観る前はいわゆるピカレスクロマン的な、「悪い奴」の活躍を題材にしたお話を読むときのようなわくわくした気持ちで、劇場の座席に座ったのだけど、その気持ちはすぐに間違ったものだと気付いた。虐殺を行った人々は「活躍」はしない。あくまでもメジャーな立ち位置である体制側に身を置き、一方的に虐殺をし搾取を行っているのである。だから、観ていて爽快感は全くない。あるのは、決してこの映画が悪いものだ、という意味ではないが、嫌悪感であり人の邪悪さだ。

しかし、このドキュメンタリー映画に救いがあるとすれば、虐殺者たちの心境の変化が感じられるところだろう。当初はおどけながら、殺人の役をふざけた調子で演じる彼らだったが、撮影を通じて、自らが犯した行為の残虐性に気付いていく姿が見られる。特に、主人公であるアンワル・コンゴの変化は強烈な印象を残す。彼はある時に、自らが考案した“最も効率よく殺しを行える”とする、針金で首を絞めるという方法で殺害される共産党関係者を演じた。その場面を観終わった際に、彼は被害者の気持ちが分かった気がしたと語り、「俺は罪人なのか…?」とショックを受けた様子で自問自答をする。アンワルはラストに、再びかつての殺害現場に赴き、当時の殺害についてカメラに向かって語るが、その時には、自慢気な様子もおどけた調子も見えない。1000人以上を殺害した当時の自分に対して底なしの嫌悪感がこみあげているのか、猛烈な吐き気に襲われ、嘔吐を繰り返すシーンは圧巻の一言に尽きる。

アンワル・コンゴらは再現映像を撮る過程で、過去の行いに対して気付きを得たのだろうか。何かを演じて、それを映像にする、という行為には人を内部から変革させるパワーがあるのかもしれないと思った。

発禁小説を読む

2014-05-18 22:51:50 | レビュー
ブログに書く読書のネタは、最近はもっぱらSF小説を読んでいることもあって、SFの話題が中心になっているのだが、合間合間にSFではない本を読むこともある。つい最近、読み終えたのは、「フランス詩人が書いた性の文学」と大きく帯に書かれている、「愛欲から愛欲へ」という小説だ。
舞台は1900年代初頭、ルーマニアのプリンス、モニイ・ヴィベスクは花の都パリに繰り出し、道端で出会う女、または電車の中で出会う貴婦人と次々と関係を重ねるという放蕩の旅を行う。そんなある時、日露戦争が勃発し、経緯はあやふやだが、モニイの元に赤紙が届き、ロシア帝国陸軍中尉に任命されることとなる。戦火が飛び交う中華人民共和国に赴いたが、それでもモニイの放蕩三昧の生活は止まらない、ルーマニアのプリンスが辿る華麗なる性の生涯…ざっとこんな話だった。

単に性を扱ったお話とか単に文学を書いたものは世の中に数多くあれど、「性の文学」と言われると、あまりたくさんの数は思い浮かばない。日本の小説家だと谷崎潤一郎の本にそういうテーマの話が多そうな気はする。谷崎の小説は読んだことがあるが、神聖なものに対峙するときのような気構えのようなものが必要なタイプの話が多い。登場する人間の心情が複雑で絡みあっている、「格式が高い」そんなイメージだ。
このような背景から、この「愛欲から愛欲へ」も格式が高いお話なんじゃないかと読む前は思っていた。なにせフランスだ。フランス文学のことはよく知らないが、性を扱っていないものですら官能的なイメージがある。その上に詩人が書いた文学だ。これはかなり格式の高い世界が繰り広げられた話なんじゃないかと身構えていた。
さて、そんな心構えを持って、本のページを繰り始めたわけだが、その期待は見事に裏切られる。特に主人公の“放蕩殿下”ことモニイが女たちと交わす会話がかなりおかしい。いくつか引用する。

「お嬢さん、一目お眼にかかっただけで、私は愛欲の狂おしさに死にそうですし、私の肉体は純潔なあなたの美しさにひきつけられています。そして、体は、テキラ酒を一杯飲んだよりも火照っているのです!」
「お人が違うんじゃないの?」
「私は財産も愛情もあなたの足元に捧げます。もしあなたがベッドで試してごらんになれば、私の愛情は、あなたにならば、続けて二十回以上も施工できることがお分かりになると思います。これが偽りなら、一万一千人の乙女等に懲罰を受けても、一万一千の鞭で打たれようと本望です。神かけて誓います!」

p.18 パリで出会ったばかりの婦人との会話

ちょうどその時、モニーのオーバーの中の興奮状態が、婦人からはっきり分かるような位置にあり、とっくに婦人が気がついて注視しているのに気付いた。それを見たモニーは驚いて、顔を真赤にしながら、慌ててそれを隠そうとした。婦人は声をあげて笑いながら言った。
「ちょうど、誰にも見られない位置にいらして、ようございましたわね…可愛いい、あなたの坊やを…でも、何て素晴らしい、大きいエンジンですこと!」
「お赦し下さい。あなたの、皇后のような美しさに対して、いささか敬意を表したのです」

p.53-54 急行オリエント号で出会ったばかりの婦人との会話


引用をするのはこの2編だけだが、モニイの女たちとの会話は始終こんな調子なのである。なんていうか、必死さが目立つ。潔くなく、情けない男、そんな印象が浮かぶ。しかもモニイの言葉には一貫性というものが全くなく、「二十回以上も施工できる」と神かけて誓ったはずなのに、婦人とは5回しか行為をおこなえなかったし、「敬意を表した」はずの婦人は結局、行為の最中にあっさり殺害をしてしまうのだ。主人公のモニイはセリフも情けない上に、何度失敗をしても懲りずに新たな地で放蕩を繰り返しているという、一言でいってかなりダメな奴なんである。
肝心の放蕩行為も中々良い味を出している。モニイが婦人と行為を行っている間、脈絡もなく第三者が現れドタバタな展開になっていく場面が目立つ。ある時は最中に強盗が押し入り、ナイフでモニイと婦人もろともめったざしにすることもあれば、婦人の夫が押し入り、罰としてモニイを鞭打ちにするも、結局はモニイが鞭を取り上げ、粛清を行う場面もある。しかしナイフでめった刺しにされても、夫に鞭で打たれまくってもモニイは止まらない。最後に日本兵に捕まり、まるで自ら暗示をしたかのように、一万一千の鞭打ちの刑で果てるまで、彼は放蕩を繰り返しまくるのだ。これは官能的でもないし、文学的でもない。B級ホラー映画のようなドタバタ感が、この「愛欲から愛欲へ」という物語を支配している。

ちなみにアポリネールにより、1907年に上梓されたこの小説は、鞭打ちなどの場面が目立つ過激さからか、発禁処分を受けていて、1970年まで公刊されることはなかった。調べたところによるとこの本は「一万一千本の鞭」というタイトルで初めに出版され、後に僕が今回よんだ「愛欲から愛欲へ」というタイトルで出版され直されている。出版社や訳者は違うが、文章内容はほぼ同じであるらしい。謎の多い一冊である。

映画「チョコレートドーナツ」

2014-05-03 23:33:18 | レビュー


〇映画「チョコレートドーナツ」を観ました。

ジャック&ベティへ行き、映画「チョコレートドーナツ」を観る。この映画、どこからか、どうもすごく良い映画らしいという評判は耳に入っていた。今週の昭和の日にジャック&ベティで映画を観た際に、その時の前の回が「チョコレートドーナツ」の上映であり、入れ替わりで出てくる人の数がとても多かったことを覚えている。実際に僕が今回観たのは14時からの回で、観客の数に対して、劇場の席数が足りなくなり、上映間際に支配人が慌ただしく補助席を用意していた。後で聞いた話によると、ついに補助席の数も足りなくなり、入れなかった人もいるらしい。満員御礼というやつだった。

舞台は1979年のカリフォルニア。シンガーを夢見ながらも、ゲイバーのショーダンサーとしてその日暮らしをするルディ。ルディの隣の部屋に住む、薬物依存の母と二人で暮らす愛情を知らないダウン症の少年マルコ。ゲイであることを隠して働く弁護士のポール。物語は弁護士のポールがルディが働くゲイバーに行き、二人が恋に落ちるところから始まる。一目惚れだった。ある日、マルコの母親が薬物所持の容疑でつかまってしまう。施設に送られるマルコを不憫に思い、なんとか自分が育てることができないかとルディは弁護士であるポールに相談を持ちかけ、三人で共同生活をはじめることとなった。たった一年あまりの幸せな家庭生活だった。だが、ひょんなことから、ルディとポールがゲイカップルであることが周囲に発覚してしまい、世間の好奇の目にさらされ、司法によって共同生活は引き離されてしまう…実話を元に生まれた魂を揺さぶる感動作。

入っている人の数と前評判からある程度予想はしていたのだけれども、その期待を上回るとても良い映画だった。
ゲイカップルとダウン症の子供というマイノリティを象徴するような人物たちが登場するので、権利問題にスポットライトを当てた、政治的な話に終始していくのかと思いきや、映し出される三人の愛情による結びつきが、本当に見ていて微笑ましい。マルコを取り戻すためにゲイダンサーの仕事を辞めたルディ、またゲイであることがばれて、弁護士という仕事をクビになってしまったのに恥を恐れず裁判に立ち向かうポール、人生をかなぐり捨てて一人の人間を守ろうとする姿には、胸を打たれる。
結局は裁判に負けて、三人は引き離されてしまうのだけれど、ゲイだから、とか、ダウン症だから、というマイノリティであることを前提とした同情の気持ちは沸いてこない。魂を揺さぶる感動作という宣伝文句はバズワードではなかった。性別や境遇とは関係のないところに生まれる人間愛。ただ、とても幸福でもあり悲しくもある、きれいな三人の結びつきの姿が心に残ったのだった。

劇中でルディ演じるアラン・カミングが何度か、ゲイショーでの"口パク"ではなくて、生で歌う場面がすばらしく、特にラストで悲しみを振り払い自由を求めるかのようにbob dylanの"I shall be released"を歌う場面は涙なしには観ることが出来ない。パンフレットで、インタビュアーはアラン・カミングにラストの場面が素晴らしいことを告げ、「この曲はあなたから提案したのですか?」という問いを出しているが、アラン・カミングはしれっと「僕はこの曲は全然知らなかった」と答えている。映画の面白さはこういうところにもあるのかもしれない。

かなまら祭

2014-04-06 22:50:46 | レビュー
毎年、4月第一週の日曜日に川崎大師にある金山神社にて開催される、かなまら祭に行ってきた。かなまら祭は、商売繁盛・子孫繁栄(子授け)・安産・縁結びを願い、男根を模した大神輿が街を練り歩く、いわゆる"奇祭"に類される祭りで、昭和60年頃からエイズ除けを祭りに結びつけたことが話題になり、徐々に訪れる人が多くなっていったそう。以下写真を交えて様子を。



10:30頃に京急川崎大師駅に到着。駅前では人がまばらだが…



境内に入ると、まさにスシ詰め状態だった。



境内では、卑猥な形をしたキャンディーが売られている。
その他にも色々とグッズが売られていたみたいだが、なにしろ人が多くて回りきれなかったもので、網羅できなかったのが心残り。
この後、神輿が練り歩く、商店街に移動をする。



11:00頃から神輿の練り歩きがスタート。
旗を振るお兄さん。



歩きタバコが映える親父たち。



かなまら舟神輿。金山神社に鎮座してある3つの神輿のうちの一つ。日立造船から寄贈されたものらしい。



エリザベス神輿。浅草の女装クラブ、「エリザベス会館」から寄贈されたもの。



神輿の担ぎ手もエリザベス会館で働く女装者たちだ。「か・な・ま・ら!でっかい・まら!」という掛け声と共に高らかに運ばれていく。見物客も合わせてコールをしていてかなり盛り上がる。



どこから沸いてきたのか、商店街がとにかく人で埋め尽くされる。見えづらいが、一番手前の神輿が、最後の神輿、かなまら大神輿だ。3つの神輿の中で一番歴史が古い。



卑猥な鼻眼鏡をした人。普通の街中で見かけたら恐らくあまり近づきたくない感じだと思うが、ことかなまら祭り中に至ってはこういった光景がしばしばみられるので、違和感というものはあまり覚えない。

神輿の見学が終わると、雨が降ってきたこともあり、一時的に飲食店へ避難。
ちなみに、かなまら祭りでは、神輿を男性、大地を女性に例えており、雨が降るということは、女性に受け入れられたことを示すらしく、大変喜ばしいことであるそうな。



三時頃に境内に戻ると、人は少なくなってはいたが、ところどころで酒を飲んで酔っ払っている人もいて、宴会状態が続いていた。
三浦市のバンド、tsuji zooによるアコースティックライブ(フルバンドで出演が予定されていたらしいが、雨の影響によりアコースティックに変更になったらしい)。stand by meの大合唱で祭りの幕が降りる。

全体的な感想としては…

・ポジション取りが難しい

とにかく人が多いので、予め神輿が通るルートを調べ、場所取りをしておかないと、見学がかなり慌ただしいものになってしまうことが必至だと思った。今回は初めてのかなまら祭だったのだけど、三年連続で来ているという大学時代の友人と一緒だったので、かなりサポートをしてもらえたので、余裕を持って楽しめた。

・外国人が多い

雑感としては4:6くらいで、日本人より外国人が多いという印象。小神社という土着的な場所なのに、境内でのアナウンスに、英語を織り交ぜているところに非日常感がある。

以上。来年も行こうと思う。