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SF小説を読む その2

2014-03-16 22:32:41 | レビュー
以前にSF小説に触れたブログ「SF小説を読む」を書いてから、約2ヶ月が経過した。その間、途中でSF小説じゃないものを挟みつつも、SF小説を中心に読み続けてきた。
その間に読んだタイトルは以下の通り。

「すばらしい新世界」ハックスリー
「流れよ我が涙と警官は言った」フィリップ・K・ディック
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」フィリップ・K・ディック
「ユービック」フィリップ・K・ディック
「変数人間-ディック短編傑作選」フィリップ・K・ディック
「消滅の光輪 上」眉村卓
「消滅の光輪 下」眉村卓
「ロードマークス」ロジャー・ゼラズニイ

段々とSF小説に慣れてきているような気もする。相変わらず読んでいるディックの小説では唐突に現実と虚構のバランスが曖昧になることが多く、当初は「どこまでが現実なのか?」と考えながら読むことにストレスを感じていたが、最近はその混沌とした世界をそのままに受け止めて、楽しむことができるようになってきた。

そんなわけで徐々に他の作家にも触手を広げ始める。うえで書いたように、ディックの小説には慣れてきたが、今日、読み終えた「ロードマークス」で完全に落とし穴にはまってしまった。読んでいる途中どころか読み終えた直後でさえ、頭の中に「?」マークが残ったままなのである。ちなみに「ロードマークス」はSFファンが好きなSF作品を投票するサイト(http://sf.lovelove.jp/ATB/trial.cgi)でベスト100に入る作品である。SF作品が一体いくつあるのか分からないが、恐らくSFファンの間では定番に位置する作品なのではないかと思う。
「ロードマークス」は永遠に続く過去と未来を結ぶ<道>を舞台にした物語である。主人公のレッド・ドラキーンはその<道>を通り、未来にも過去にも自在に行くことができる特殊能力を持った男の一人だ。そんな彼をかつての商売仲間であるチャド・ウィックはティラノサウルスに乗った修行僧や、生身は脳だけのサイボーグを、レッドが現れそうな過去や未来に送り出し、殺人を企てている。
あらすじだけを読んだときは、これはスリル満点のバトルが繰り広げられる追跡ものなんじゃないかとタカを括っていたが、完全にナメていた。レッドと追っ手との戦いはあっさりと終わってしまい、興奮はあまりないのである。なにより時系列もごちゃごちゃになっていて、話の前後関係が良く分からなかった。というか読んでいる最中は時系列がごちゃごちゃになっていることにすら気付かず、内容も理解せず、ただ文字だけを追っているような感覚がついて離れなかった。
解説で、この小説の時系列の組立方について説明をしていて、おぼろげながら、どういう風に楽しむべきだったのか分かった気がした。恐らく、ストーリーそのものもさることながら、そのストーリーを頭の中で整理して、パズルを解くように読むべきものだったのだ。ごちゃごちゃになっている話が読むにつれて、一本につながったときは興奮するとは思う。しかし自分は一切気が付かなかったのが残念である。こういうパターンのSF小説もあることを、知った。まだまだ読まないといけない。

映画「ウォールフラワー」で思い出す無限大の感覚

2014-02-16 21:30:35 | レビュー


〇 映画「ウォールフラワー」を観ました。

 近所の映画館、ジャック&ベティに行き、映画「ウォールフラワー」を観た。「ライ麦畑でつかまえて」の再来と評される、青春小説を著者みずからが監督となり映像化した映画だ。
 舞台は1990年代のアメリカのハイスクール。主人公である小説家志望のチャーリー(ローガン・ラーマンは、スクールカースト最下位。友達もいない。周りと距離を置くように身を潜める生活を送るが、陽気で奔放的な義兄弟、パトリック(エズラ・ミラー)とサム(エマ・ワトソン)との出会いにより、彼の高校生活は次第に変わったものとなっていく。自分たちを「はみ出し者の島」と称する仲間との出会い、彼らと一緒に行う、すこし大人びたパーティ、はじめて経験する恋、無限大に世界が広がっていくかのような感覚がチャーリーを包む。
 
 ここ最近でみた映画の中でも、手放しで絶賛できる、良い映画だった。なんだか、自分の高校時代のことをちょっと思い出してしまった。今回の舞台となったアメリカのハイスクールと僕の高校生活はかなり異なるものだけど、いま振り返ると、あの頃は自分の中の価値観などが徐々に固まり始めた時期で、それが時には周囲と合わないこともあったりして、言い表せない居心地の悪さを感じたこともあった。チャーリーが属するコミュニティ「はみ出し者の島」の仲間たちもいつも一緒にいながらも時には考えが違ったり、10代ならではの不器用さが起因して、葛藤を引き起こすこともある。甘酸っぱいストーリーが展開する一方で、主人公が抱えるパラノイア的な幻覚障害であったり、友人の自殺だったり意外と重いテーマが潜んでいたりもして、それが青春という明るいイメージの映像の中に暗い影を投げかけている。残念ながら、僕の高校は男子校だったので、高校生活の中での甘酸っぱい恋はなかったし、幸いにも幻覚を見たりもしなかったが、あの時は気分が今よりは浮き沈みが激しく、当時の自分とチャーリー達を少なからず重ねてしまうところがあった。
 
 劇中ではよく音楽の話題が出ていた。エマ・ワトソン演じるサムはthe smithのファンであると言うし、チャーリーはそのサムにクリスマスパーティでthe beatlesのアナログ盤をプレゼントしていた。sonic youthやpavementなどのインディ系の音楽も流れ、ちょっと背伸びして文化に触れようとしていた高校の頃を思い出してしまい、心がくすぐられる。あのころは新しいことを知るたびに、自分がちょっと大人になったようで、嬉しかった。それにしても、ちょくちょく登場人物が仲間の音楽趣味を批判しているシーンが挿入されたりして、10代の肥大した感覚を巧く捉えていると思った。もっとも自分は大学に入ってもそんなことばかりやっていたような気もする。
 なんだか恥ずかしい気持ちでいっぱいになってくるが、チャーリーが覚えた自己の世界が無限大に広がっていくかのよう感覚、そんな時が自分にも確かにあったと思うし、昔のことを思い出させてくれる良い映画だった。

SF小説を読む

2014-01-12 23:55:43 | レビュー
 本を読むのはそれなりに好きなのだけど、どうも苦手意識があって、SF小説は全くと言っていいほど読んでこなかった。自分の中に漠然と持っているイメージだとSF小説というのはとにかく宇宙だ。宇宙を舞台に想像上の怪物が大暴れをして、人間が武装した宇宙船だとか光線銃だとかテクノロジーを駆使して闘うというようなイメージだ。テクノロジーというのが苦手意識の元である。自分は文系だからだ。SF小説ではテクノロジーに対して、詳細な説明をしていて、恐らく自分はその説明の半分も理解できないだろうな、そう思っていたので、全く読んでこなかった。
 そんな自分だが最近フィリップ・K・ディックの小説を読んでいる。作品がいくつも映画化されているSF小説界の大御所である。CDの"ジャケ買い"と同じように本の"タイトル買い"もたまにする。本屋で「タイタンのゲーム・プレーヤー」というディックの小説のタイトルが、とてもかっこいいと思ったので、購入したのだ。この本にはテクノロジーの話はあまり出てこなかったし、舞台も地球の域を出なかった。テレパシーとか念動力などの超常現象が出てきたが、けっこう理解することが出来た。SF小説を一冊読み終えてしまったことで、完全に調子に乗ってしまい、そんなわけでディックの本を読むのが一つのマイ・ブームになっている。
 ディックの小説は読みやすい。その理由は何だろうと考える。多分、前述した、自分が恐れているテクノロジーの話があまり出てこないというのがあるように思う。あまり出てこない、というより、ここでいうテクノロジーの象徴である宇宙船などは出てきたのだが、テクノロジーそのものではなく、SF的な設定の中で生きる人間の関係が話の中心になっているからだろうか。大暴れする怪獣を光線銃でやっつける話なら映像で見た方が楽しめそうだが、人間の考えることだったり、葛藤を読み取ることができるのは小説ならではの強みである。この辺りにディックの小説を読むことの楽しさがある気がする。
 つい最近読み終えた「高い城の男」にも、宇宙船や時空間ワープ装置の類は出てこなかった。設定も「第二次世界大戦で枢軸側が勝っていたら…」という世界を書いたもので、あまり突飛な印象は受けない。というよりも自分が既にサラリーマンになってしまったからかもしれないが、これは単にサラリーマンを描いた小説なんじゃないかと思ってしまったほどだ。設定では戦勝国側の日本人のお偉方に対して、平身低頭ぺこぺこして物を売るアメリカ人の古美術商がいるのだけど、自分に商品を売りに来る立場の低い美術品の作り手に対しては尊大な態度を露わにしており、あぁそりゃそうなるよなぁ、と共感をしてしまう。「火星のタイムスリップ」も読んだのだけど、この小説の主人公も働く男だった。火星で機械の修理サービスをする仕事を営んでいるのだが、物語の設定うんぬんよりも、上司や取引先の無茶苦茶な命令に不満を垂らしながらも、任務を遂行する主人公のサラリーマン的な行動の方が印象に残っていたりする。
 ディックの本を今までに三冊読み終えて完全に自信がつき、とうとう別のSF作家の本に手を出すようになった。いま読んでいるのはスタニスワフ・レムの「砂漠の惑星」だ。70ページ程、読んだのだけど、既に冷凍睡眠室や、目に見えないバリヤー、金属を一瞬で溶かしてしまう破壊光線が登場していたりと、かなり騒々しい。これはディックの小説とは全く違うタイプだ。SF小説というジャンルの中にも色々なタイプがあることを、さいきんになってようやく、学んだ。SFはきっと奥が深い。

「遊牧のチャラパルタ」

2014-01-05 23:07:05 | レビュー
〇映画を観ました。

久しぶりに渋谷のuplinkへ行き、映画を観てきた。渋谷に行くたびに、グーグルマップを使わずに目的地へ行こうと試みるのだけど、今回も気づいたらあさっての方向に行ってしまい、自力では辿りつけることができなかった。以前もどこかで、書いた気がするのだけど、渋谷はちょうど谷のような場所に位置していて、悪いエネルギーが溜まりやすいと聞いたことがあり、僕はいつも目的地にたどり着けないのを渋谷という場所に溜まる悪いエネルギーのせいにしている。
今回みた映画のタイトルは「遊牧のチャラパルタ」というもの。スペインとフランスの国境付近にあるバスク地方に古くから伝わる伝統楽器、チャラパルタの奏者二人組<オレカtx>が世界各国の旅をし、それぞれの地方のミュージシャンとセッションをし、レコーディングを重ねていく様子を収めた、ドキュメンタリームービーだ。
チャラパルタは不思議な楽器だった。「一見それはただの木の板だった…」という映画のキャッチ・コピーの文字通り、板状にした木を数枚並べて、同じくただの木の棒で板を叩いて音を出していく、というもの。それなのに木琴のように音色があって、ドラムのように情熱的だ。
<オレカtx>の二人組はそのチャラパルタを携え、新しい音を求めて放浪の旅に出る。インド・ムンバイ、北極地方のサミー、モンゴル、サハラ砂漠の不帰順地域、それぞれの地方の伝統楽器に出会い、新しい音楽を作ってゆく。この映画の素晴らしいところは、会ったこともないような楽器を加えてセッションをするという、ある種の偶然性を前提に物語が成り立つ中、記録をして、何度も聴くことに耐えうるような音楽を作り上げている点にあると思った。<オレカtx>と現地人の間をうまく結ぶような優秀なプロデューサーがいたのかしら。映像も美しく、それぞれの地方の映像を観ているだけで、旅をしているように胸が躍るのも楽しい。少数民族の独立とか、ありがちな政治的な問題をあまり持ち出さず、音と映像に集中できる。良い映画だった。
ちなみに今回の映画のサウンドトラックが「nomadak tx/oreka tx」として発売されていて、購入をした。CD音源としてもおススメ。映画を観ていた時は気付かなかったけど、古い楽器を使っているのに、アレンジがかなり現代的で面白い。この映画は「ブエナビスタソシアルクラブと並ぶ映像美と音楽体験」と宣伝されているけど、確かにそうだと思います。

〇明日から仕事です。

頑張ります。

逆さまゲーム アントニオ・タブッキ

2012-02-01 02:21:44 | レビュー
アントニオ・タブッキ(著)須賀敦子(訳)(1995)「逆さまゲーム」白水社.p234.

アントニオタブッキの三作目となる短編集。ひとつひとつの話がみじかいので読みやすい。

タイトルや、冒頭で引用される"ものごとの、なんのことはない裏側。"という誌に象徴されるように、逆さまなものごとが、この本で書かれるはなしのテーマになっている。最初は、ミステリー小説にあるような、終盤でのどんでん返しをあつかっている、興奮のおおい短編集だと思っていたが、実際はそうではなかった。この本のテーマについて、訳者である須賀敦子は、あとがきでつぎのように言いあらわしている。

-タブッキは私たちが日常、こうにちがいないと思い決めていることを、ぐるりと裏返してみせ、そのことによって、読者はそれまで考えてもみなかった日常の裏側に気付かせられ、あたらしい視点の自由を獲得することになる-

この「獲得する」はとても的確な表現であると思う。収められた話にある共通の特徴は、回想録のような体裁をとってあり、主人公ひとりの視点で、ものごとが進行していく点だろうか。物事の裏側をみせるということであれば、たとえば、語り手を変えて話を進行させていくという手法も考えられるが、この小説ではそのような話はない。物事の反対側(うまくいっているように思えた男女恋愛に隠された事情、国と国の立場の違い、など)に触れてしまう瞬間を、片方の側から描きだすことがテーマになっていて、主人公の目線に立ったまま読み進めても、パラダイムシフトを体験にいくらかは近いかたちで得ることができる。このような形式をとっている点から、須賀敦子は「獲得する」という能動性の強い表現を用いたのではないだろうか。

描かれる話の舞台はさまざまであり、ありきたりな日常をあつかったものが多い。そのため、すこし退屈に思う箇所も多かった。話の内容そのものよりは、上記のテーマであったり、タブッキの、詩のようにすくない数の言葉で、日常のなかにある美しいものを言い表した文章を楽しむ小説であると思う。