
〇「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」を観ました。
2013年カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」を観る。ちなみに同年のカンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞したのが、以前にもブログに書いた「アデル、ブルーは熱い色」。「グランプリ」はフランス語で「大賞」を意味し、日本競馬の年末に行われる祭典、有馬記念もグランプリと呼ばれていることもあり、一番すごいものに与えられるという印象を持っていた。しかし、ことカンヌ国際映画祭においてはパルムドール(最高賞)が存在するので、グランプリは最も栄誉のある賞というわけではない。多分、グランプリはカンヌ国際映画祭において、パルムドールの次に栄誉のある賞だ。賞についてはいろいろ思う所はあるが、映画の話をしようと思う。
「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」の舞台は1961年のアメリカ。主人公は、あのボブディランが憧れたとされるデイヴ・ヴァン・ロンクをモデルにしたフォークシンガー、ルーウィン・デイヴィス(オスカー・アイザック)。1961年のアメリカではまだ、フォークソングというものが流行しておらず、ルーウィンも苦しい生活をしていた。場末感ただようバーで日々フォークソングを歌うが、チャンスはやってこない。お金はほとんど持っていなくて、決まった家もなく友人の家を泊まり歩く日々が続いている。ある日、そんなルーウィンのミュージシャン仲間であり、居候先の一人であるジーン・パーキー(キャリー・マリガン)からルーウィンの子を妊娠してしまったという事実を告げられる。ジーンにはパートナーがいるにも関わらず、ルーウィンと誤った関係を持ってしまったのだ。ルーウィンは堕胎の費用を払うが、ジーンの家を追い出されてしまう。彼のうまくいかない一週間がはじまる。別の居候先である、彼の音楽に理解を示す大学教授夫妻の家に行くが、そこで彼は歌うことを強要され、「俺は歌を歌って生きているんだ、遊びじゃない」という気持ちから、口論になってしまう。ルーウィンはかつてデュエットコンビを組んでいた唯一無二の友人マイクを永遠に失った悲しい過去を持つ。マイクと一緒に歌った曲を演奏した時に、教授夫人がマイクのパートを歌い出し、彼の感情は爆発してしまったのだ。次第に居場所がなくなっていく。まさに人生のドン底という状態だ。
そんなルーウィンは、ひょんな成り行きから、ビートジェネレーションを体現したようなドラッグ中毒のジャズミュージシャンと、その付き人の若者とシカゴに向かうことになる。しかし、二人とは全く価値観は合わず、しまいには、道中で老人はドラッグ中毒で倒れ、若者は駐車違反で警察に連行されてしまう。それでも彼はシカゴに辿りつき、一縷の希望を抱き、有名プロデューサー、グロスマンの元を訪れる。グロスマンは彼の歌を聴き、髭を剃って身ぎれいな格好をすることを条件に彼のプロデュースする男女ユニットに入らないかと提案をする。しかし、ルーウィンはそうすることで、成功をするかもしれないが、フォークシンガーである自分の信念を曲げることはどうしてもできなかった。
再びニューヨークに戻る。彼がいつも歌っているガスライト・カフェで演奏を終えると、オーナーのパッピが外で友人が待っていると告げる。外へ向かうと、待っていたのは、友人ではなくて、前日にルーウィンが散々罵ったガスライト・カフェで歌っていた出演者の関係者だった。ルーウィンはしこたまぶん殴られて、地に倒れてしまう。彼と入れ替わりでステージに立った男の歌が響いてくる。ルーウィンと同じように無造作な身なりで、洗練されていないが、どこか共感を覚える哀愁を誘う歌。新しい時代の到来の予感と共に、映画は終わる…
あらすじが例によってとても長くなってしまう。同じカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した「アデル、ブルーは熱い色」はセンセーショナルな印象を与えたが、グランプリの今作はそれとは対照的だ。描かれるのは終始一貫して、売れないフォークシンガーの端からみると惨めに映る冴えない日常だ。しかし、どんなドン底の状態に陥ろうとも、ルーウィンは時代に迎合したポップソングは歌わないし、家に住む金はなくても、自分の責任を果たそうとし、ジーンの堕胎費用は何とか工面をする。逆境的な状況に陥っても泣き喚いたり、取り乱したりはしない。不器用なのだ。不器用だけど彼にはダンディズムが感じられてかっこいい。散々、周囲に否定されながらも、ラストステージで放つ「新しくなくても、古くならなければフォークソングだ」という渋い台詞には彼の確かな歌に対する自信が感じられる。これがフォーク・ムーブメントの沸き起こった時代の物語であったらそうは感じなかっただろう。ある種のパイオニアは、みんな彼のような認められない惨めな時代があったのかもしれない。衝撃的なシーンはない、淡々と彼のうまくいかない日々と、それを象徴したかのような、哀しい響きのフォークソングが流れる。観終わった後も、波に揺られているような心地の良い余韻を残すタイプの映画だ。
今作では何回もルーウィンが素晴らしい曲を歌う場面が挿入されるが、その全てを俳優であるオスカー・アイザックがライブで演奏をしている。ルーウィンに共感を覚えるために、彼の歌は決して切り離すことができない。だから、もし映像は口パクで、歌が挿入されていたら、この映画の魅力は半減どころではなく損なわれてしまっていただろう。俳優にはあまり詳しくないが、演技も出来て、レベルの高い生演奏も出来る役者はあまりいないのではないだろうか?オスカーアイザックの髭面は野暮ったい印象があって、とてもフォークソングと合っている。そう考えると、奇跡的なバランスの上に成り立った映画であるのかもしれない。オスカーアイザック自体も、ルーウィンのように行き詰まった感覚を持ってきた俳優であったが、演奏力が助けとなり、今回の大役に抜擢、日の目を見ることになる。音楽プロデューサーであるT・ボーン・バネットは「ルーウィン・デイヴィスには特別な瞬間は来なかったけれど、オスカーには来たんだ。そしてこれこそがハッピーエンドだよ…。」と語る、なんだか良い話だ。
ちなみに、ニューヨークからシカゴに爆走するシーンで、運転手を務めていたビートジェネレーションの若者は映画「オンザロード」でディーン・モリアーティ役を演じたギャレット・ヘドランドだ。今回は運転をしながらアホみたいに「ヒィィィーーー!」とか「ハァァァァーーーー!」と叫んだりはせずに寡黙な男を演じるが、ちょっと小ネタ感があって面白い。その他にもボブディラン世代に詳しければちょっとわくわくするような小ネタが随所に散りばめられているらしいが、自分はその当時のことを良く知らないのが残念な所だった。