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「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」

2014-08-24 21:42:01 | レビュー


〇「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」を観ました。

 2013年カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」を観る。ちなみに同年のカンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞したのが、以前にもブログに書いた「アデル、ブルーは熱い色」。「グランプリ」はフランス語で「大賞」を意味し、日本競馬の年末に行われる祭典、有馬記念もグランプリと呼ばれていることもあり、一番すごいものに与えられるという印象を持っていた。しかし、ことカンヌ国際映画祭においてはパルムドール(最高賞)が存在するので、グランプリは最も栄誉のある賞というわけではない。多分、グランプリはカンヌ国際映画祭において、パルムドールの次に栄誉のある賞だ。賞についてはいろいろ思う所はあるが、映画の話をしようと思う。
 
 「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」の舞台は1961年のアメリカ。主人公は、あのボブディランが憧れたとされるデイヴ・ヴァン・ロンクをモデルにしたフォークシンガー、ルーウィン・デイヴィス(オスカー・アイザック)。1961年のアメリカではまだ、フォークソングというものが流行しておらず、ルーウィンも苦しい生活をしていた。場末感ただようバーで日々フォークソングを歌うが、チャンスはやってこない。お金はほとんど持っていなくて、決まった家もなく友人の家を泊まり歩く日々が続いている。ある日、そんなルーウィンのミュージシャン仲間であり、居候先の一人であるジーン・パーキー(キャリー・マリガン)からルーウィンの子を妊娠してしまったという事実を告げられる。ジーンにはパートナーがいるにも関わらず、ルーウィンと誤った関係を持ってしまったのだ。ルーウィンは堕胎の費用を払うが、ジーンの家を追い出されてしまう。彼のうまくいかない一週間がはじまる。別の居候先である、彼の音楽に理解を示す大学教授夫妻の家に行くが、そこで彼は歌うことを強要され、「俺は歌を歌って生きているんだ、遊びじゃない」という気持ちから、口論になってしまう。ルーウィンはかつてデュエットコンビを組んでいた唯一無二の友人マイクを永遠に失った悲しい過去を持つ。マイクと一緒に歌った曲を演奏した時に、教授夫人がマイクのパートを歌い出し、彼の感情は爆発してしまったのだ。次第に居場所がなくなっていく。まさに人生のドン底という状態だ。
 そんなルーウィンは、ひょんな成り行きから、ビートジェネレーションを体現したようなドラッグ中毒のジャズミュージシャンと、その付き人の若者とシカゴに向かうことになる。しかし、二人とは全く価値観は合わず、しまいには、道中で老人はドラッグ中毒で倒れ、若者は駐車違反で警察に連行されてしまう。それでも彼はシカゴに辿りつき、一縷の希望を抱き、有名プロデューサー、グロスマンの元を訪れる。グロスマンは彼の歌を聴き、髭を剃って身ぎれいな格好をすることを条件に彼のプロデュースする男女ユニットに入らないかと提案をする。しかし、ルーウィンはそうすることで、成功をするかもしれないが、フォークシンガーである自分の信念を曲げることはどうしてもできなかった。
 再びニューヨークに戻る。彼がいつも歌っているガスライト・カフェで演奏を終えると、オーナーのパッピが外で友人が待っていると告げる。外へ向かうと、待っていたのは、友人ではなくて、前日にルーウィンが散々罵ったガスライト・カフェで歌っていた出演者の関係者だった。ルーウィンはしこたまぶん殴られて、地に倒れてしまう。彼と入れ替わりでステージに立った男の歌が響いてくる。ルーウィンと同じように無造作な身なりで、洗練されていないが、どこか共感を覚える哀愁を誘う歌。新しい時代の到来の予感と共に、映画は終わる…

 あらすじが例によってとても長くなってしまう。同じカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した「アデル、ブルーは熱い色」はセンセーショナルな印象を与えたが、グランプリの今作はそれとは対照的だ。描かれるのは終始一貫して、売れないフォークシンガーの端からみると惨めに映る冴えない日常だ。しかし、どんなドン底の状態に陥ろうとも、ルーウィンは時代に迎合したポップソングは歌わないし、家に住む金はなくても、自分の責任を果たそうとし、ジーンの堕胎費用は何とか工面をする。逆境的な状況に陥っても泣き喚いたり、取り乱したりはしない。不器用なのだ。不器用だけど彼にはダンディズムが感じられてかっこいい。散々、周囲に否定されながらも、ラストステージで放つ「新しくなくても、古くならなければフォークソングだ」という渋い台詞には彼の確かな歌に対する自信が感じられる。これがフォーク・ムーブメントの沸き起こった時代の物語であったらそうは感じなかっただろう。ある種のパイオニアは、みんな彼のような認められない惨めな時代があったのかもしれない。衝撃的なシーンはない、淡々と彼のうまくいかない日々と、それを象徴したかのような、哀しい響きのフォークソングが流れる。観終わった後も、波に揺られているような心地の良い余韻を残すタイプの映画だ。

 今作では何回もルーウィンが素晴らしい曲を歌う場面が挿入されるが、その全てを俳優であるオスカー・アイザックがライブで演奏をしている。ルーウィンに共感を覚えるために、彼の歌は決して切り離すことができない。だから、もし映像は口パクで、歌が挿入されていたら、この映画の魅力は半減どころではなく損なわれてしまっていただろう。俳優にはあまり詳しくないが、演技も出来て、レベルの高い生演奏も出来る役者はあまりいないのではないだろうか?オスカーアイザックの髭面は野暮ったい印象があって、とてもフォークソングと合っている。そう考えると、奇跡的なバランスの上に成り立った映画であるのかもしれない。オスカーアイザック自体も、ルーウィンのように行き詰まった感覚を持ってきた俳優であったが、演奏力が助けとなり、今回の大役に抜擢、日の目を見ることになる。音楽プロデューサーであるT・ボーン・バネットは「ルーウィン・デイヴィスには特別な瞬間は来なかったけれど、オスカーには来たんだ。そしてこれこそがハッピーエンドだよ…。」と語る、なんだか良い話だ。

ちなみに、ニューヨークからシカゴに爆走するシーンで、運転手を務めていたビートジェネレーションの若者は映画「オンザロード」でディーン・モリアーティ役を演じたギャレット・ヘドランドだ。今回は運転をしながらアホみたいに「ヒィィィーーー!」とか「ハァァァァーーーー!」と叫んだりはせずに寡黙な男を演じるが、ちょっと小ネタ感があって面白い。その他にもボブディラン世代に詳しければちょっとわくわくするような小ネタが随所に散りばめられているらしいが、自分はその当時のことを良く知らないのが残念な所だった。

脚が痺れるのは嫌だ

2014-08-03 22:24:27 | レビュー
トリプルファイヤーというバンドを最近よく聴いている。トリプルファイヤーは2006年に結成され、現在までに「エキサイティングフラッシュ」と「スキルアップ」のアルバム2作を発表している。公式HPのプロフィールによると、“「高田馬場のJOY DIVISION」「だらしない54-71」などと呼ぶ人もいる。ソリッドなビートに等身大の歌詞をのせていてかっこいい。人気がある。メンバーはみな性格が良く、友達が多い。”。
プロフィールをみてだらしないということについて考える。「だらしない54-71」という文句には「だらしない」の文字が含まれているが、「高田馬場のJOY DIVISION」はどうだろうか。JOY DIVISIONはだらしないのかどうか分からないが、「高田馬場」はだらしなさそうだ。高校の時のクラスメイトに高田馬場に住んでいる人がいた。彼に何回か、酔っぱらった早稲田大学の学生が自宅の前を吐き散らかしていくので、掃除がとても大変だ、という話を聴いたことがある。その話を聴いて以来、高田馬場は夜になると酔い狂ってゲロを吐き散らかすゾンビ学生で溢れかえっている印象が強い。それはだらしないことであると思う。こういうことを書くと、高田馬場について否定的な考えを持っていると思われるかもしれないが、自分はどちらかというと、きちんとしていることよりも、だらしないことの方が好きだ。きちんとしている状態に対峙したときに落ち着かない気持ちになってしまうからだ。
例えばきちんとしている友人の家に遊びに行ったときのことを想像してみる。部屋の中は片付いていて、すべての物が、あるべき場所に収まっている。その部屋の中に入り込んだ自分は、まさに異物でしかないと感じるようになる。どこに収まれば、秩序を乱さないのか、座る場所にすら迷ってしまう。いざ座ったものの、勿論、脚を伸ばしてくつろぐことはできない。できるだけ身体を折りたたんで、異物感を抑えなければならない。そんなときは正座だ。しかし、正座をしていると脚が痺れる。脚が痺れるのは嫌だ、だけど、きちんとしているということは、脚の痺れを我慢して、体面を取り繕うことなのだ。
さて、トリプルファイヤーは実際に聴いてみると、確かにだらしないという感じがした。ソリッドなビートに等身大の歌詞をのせているとあるが、肝心の歌はあまりビートにのっているという感じがしない。リズムが取りづらいのか。音楽において、きちんとしていることがリズムが取りやすい分かりやすい曲だとすると、トリプルファイヤーは確かにだらしない。大体トリプルファイヤーというバンド名自体が意味が分からない。三人組だったらまだしも四人組なのにトリプルファイヤーだ。しかし、だらしないけど、かっこよくてくせになる。

https://www.youtube.com/watch?v=511Z5quwkHo#t=186

「スキルアップ」ライブ映像。アドリブで歌詞を適当に変えてるところがだらしなくてかっこいい。
きちんとしているか、だらしないか、と言うことは本質的ではないのかもしれないと考えるようになる。正座をしてきちんとしているか、それともだらしなく脚を伸ばして座っているかということは、その人の考えだったり発せられる言葉とはあまり関係がない。自分は、未だに引っ越しの時に使った段ボールの上で自分のつくった料理を食べる。それは確かにだらしがない。そこには引っ越しの段ボールをいつまでも取っているだらしなさと、段ボールを食卓にあてがってしまう投げやりなだらしなさの両方が存在している。しかし段ボールの上で食べようが、デザインの良いテーブルの上で食べようが、料理の味は決して変わらない。だらしがなくても毎日、メシを食べなくてはならないし、そうやってだらしがないまま多くの日常は過ぎていくのが自分のリアルだ。トリプルファイヤーの音楽を聴いていると、そういう日常の中における悪しとされるだらしなさが、それはそれで危ない気がするが、肯定されているような、そんな気持ちになるのだった。

映画「ホドロフスキーのDUNE」と「リアリティのダンス」

2014-07-12 22:06:19 | レビュー




〇 映画「リアリティのダンス」を観ました。

ホドロフスキー監督の23年振りの新作となる、「リアリティのダンス」を観る。
この映画が撮影されるきっかけとなったのは、「ホドロフスキーのDUNE」というドキュメンタリー映画だった。
ホドロフスキーは1970年代、「エル・トポ」「ホーリーマウンテン」などの映画を発表し、当時、アンダーグラウンドカルチャーの中で、カルト的な人気を博していた。そんなホドロフスキーが映画プロデューサーであるミシェル・セドゥとコンビを組み、撮影を試みたのがSFの大作小説である「DUNE」である。「魂の戦士としか仕事が出来ない」と語る彼は、SF映画を撮るに当たって、特殊効果を担当する人物や構造物のデザインをする人物を探し、世界を飛び回る。カメラワークや台詞が書き込まれた詳細な絵コンテ集が出来上がる。音響担当はピンクフロイドやマグマなどのプログレッシブロックバンド、配役はミックジャガー、オーソンウェルズ、画家のダリなどの大物を起用。映画を撮影する段取りは整っていた。しかし、映画会社に話を持っていくも、お金を出資してもらうことはできなかった。見積もりを立てた製作費が膨大すぎる為と、12時間という上映時間が長すぎるため、映画を放映することに難色を示され、計画は志半ばにして頓挫してしまう。「ホドロフスキーのDUNE」はそんな製作過程を追ったドキュメンタリーであり、この映画がきっかけとなって、ホドロフスキーとミシェルセドゥは35年振りに再会。「DUNE」の計画が頓挫してしまったことで、お互いが相手が自分のことを怒っていると思っていたのだが、35年間という時間の隔たりが嘘だったかのように自然に打ち解ける二人、ホドロフスキーはまた一緒に映画を撮りたいと話し、それがどんな映画かも聞かされないまま、合意を示すセドゥ、こうして生まれたのが「リアリティのダンス」だ。
前置きが長くなってしまった。「リアリティのダンス」はホドロフスキーの少年期を題材にした、自伝的な映画だ。ホドロフスキーの映画は初めて観たのだけど、とても不思議な世界観が広がる映画だった。幻想的であり怪奇的であり魔術的な映像美…よくある台詞だがあえて言うと、こんな映画は観たことがなかった。
舞台は1920年代の軍事政権下チリのトコピージャという小さな海辺の町。ホドロフスキー少年は父権的権威を示す父親ハイメと、母性愛の象徴であるかのような母親サラと共に暮らしている。少年の家族は、ロシア系ユダヤ人の一族であり、そのことで、ホドロフスキー少年は周りの子供たちにいつもからかわれている。おどおどしている息子を本当の男にしようと、父親は息子を耐えられなくなるまでぶん殴ったり、ぶん殴って歯が折れたかと思えば、麻酔なしで歯の治療をさせたりする。息子は父親に恐れを抱きながらも、愛されたいと思う気持ちから、彼の言葉に従う。ある日に父親が所属する消防団に息子を加盟させ、消防の最中に仲間が死亡してしまう。目を背ける息子に「よく見ろ」と死体を凝視させる。しかし、葬列の最中にホドロフスキー少年に恐怖が襲い、気を失って倒れてしまう。ハイメは息子が臆病者だと同僚たちに馬鹿にされた上に、自身も臆病者のレッテルを張られてしまう。勇敢な姿を見せつけようと、街にやってきたペスト患者の群れの中に分け入り、水を与えるハイメ。しかし、詰めかけるペスト患者の人々は餓えていて、ハイメの乗っているロバを殺された挙句にペスト患者の食糧にされてしまう。ハイメは打ちのめされた上に、ペストにかかってしまうが、母親サラの放尿を浴びることによって、復活を遂げる。今度は軍事政権を敷く大統領を暗殺する旅に出るが、これもあと少しのところで失敗してしまう。失意の滲み出る表情で帰宅するハイメ。そんなハイメをサラは神のような母性愛で受け入れる。

こうして書いてみると、かなり荒唐無稽なストーリーだったような気もするが、テーマは分かりやすかったように思う。父権的権威の失墜と母性愛による家族の再生。
象徴的だったシーンは、ラストに近い場面。サラが独裁者然とした格好をしているハイメと、チリの独裁者カルロスイバニエスとハイメが敬愛しているスターリンの肖像を三枚並べ、拳銃をハイメに渡す。過去と決別するように、拳銃を打ち放ち、三人の独裁者の肖像画は炎上をし、家族は三人寄り添って、新たな地へと歩み出す。独裁者だった父親はいなくなった。父権的権威は失墜し、家庭に平和が訪れたのである。また、家族の再生の為に、大きな機能を果たしているのが、サラの宗教的な母性愛だ。サラは神の存在を信じている。ペストにかかったハイメを見捨てることなく、神からの啓示を受け、放尿によって治療をする。また、夜の闇に恐怖する少年ホドロフスキーの全身を靴墨で黒く塗りたくり、「あなたは闇と一体となった」という象徴的であり、魔術的な言葉を投げかけ、彼の臆病さを取り除く。サラは、映画の中において、普通の人々のように会話をしないで、常にオペラ調で歌うように話す。それが最初はとても違和感があったのだけど、後から思い返すと、彼女の神性を際立たせる為に必要な装置であったのかもしれない。劇中において、彼女の言葉は神の言葉でもあるので、詩のように象徴的でなくてはいけなかった、詩はメロディに乗せると人の心に響く力を一層強くさせるからだ。
インタビューによるとホドロフスキーの父親は実際に抑圧的な存在だったし、母親もオペラ歌手を目指していたが、結局オペラ歌手になることを反対され、店の売り子としての人生を送る。映画の中でホドロフスキーは自身の少年時代を再構成する。父親は人間らしさを徐々に取り戻していき、母親はオペラを常に歌っている。
ホドロフスキーは「ホドロフスキーのDUNE」の中で「人の意識を変革させる映画を撮りたい」と話していた。今回の「リアリティのダンス」は過去を映画という形で再構築することで、ホドロフスキー自らの意識を変革させる働きをしたのかもしれないと思う。

〇 特典でブックカバーをもらいました。

かっこいい。


ワールドカップ、美を追求するPK合戦

2014-07-06 22:55:22 | レビュー
〇 週末はワールドカップを観ていました。

先週にブラジル対チリ戦をみてから、ワールドカップの試合をLIVEで観たいという気持ちが高まっている。今週も迷惑を承知で、金曜の深夜にまた友達の家に転がり込み、ワールドカップの試合を観ていた。家主の友達は翌日に予定があることもあり、ほとんど寝ていた。トーナメント戦の負けたらそこで終了という緊張感がそうさせるのか、一度試合を観ても、観終わった瞬間にまた次の試合を観たくなってしまうから恐ろしい。ブラジル対コロンビアを観終わった徹夜明けの眠たい頭で、どうすれば次の2試合を観る事ができるのか、そればかり考えていた。迷惑を承知で再び友達の家に転がり込むか、別のテレビを持っている人の家に転がり込み試合を観るか。そういう風に人の家を転々として、ワールドカップの中継だけを観てさっと帰るスタイルは、ジプシーみたいでちょっと憧れるが、結局はテレビを購入して次の試合に備えることにした。ワールドカップを観る為にテレビを買う、なんだか順番がおかしいような気もするが、目的が先にあってそのあとに手段があるという教訓を頼りに、まとまったお金を払うことをためらいもせずにテレビを買ってしまった。

土曜の深夜と日曜の早朝に行われた、アルゼンチン対ベルギーとオランダ対コスタリカ、注目をしていたのは、どちらかというとオランダ対コスタリカの方だった。注目をしているというと、おこがましいが、単にサッカーゲームのウイニングイレブンでオランダ代表をよく使っていたので、残ったチームの中でオランダを個人的に応援をしているだけだ。
オランダ対コスタリカはスコアは0-0という、得点こそなかったものの、エキサイティングなゲームだった。オランダが攻める展開が続くが、得点が中々とれない。コスタリカのDF陣のラインコントロールが素晴らしく、オランダは1試合で10回以上、オフサイドの笛を鳴らされる。オランダの決定的な場面も何回かあったが、ゴールキーパーのファインセーブに阻まれ、またはゴールバーに嫌われ、当てるだけでゴールになるようなセンタリングに微妙にタイミングがずれて合わせられなくて、ゴール・シーンは延長戦を含めた120分の中で生まれない。試合はPK戦までもつれ込む。オランダ、ファン・ハール監督は試合終了間近で、最後の交代選手枠をゴールキーパーにあてがった。投入されたティム・クルルは期待に応えるように二度のシュートをセーブし、オランダを勝利に導いた。

さて、ブラジル対チリでの「人が湧いてくるのがチリです」と同様、またPK戦で解説者の気になる言葉があった。それはPK戦において、オランダ4人目のキッカーであるカイトがきっちりとゴール向かって左下辺りのエリアにシュートを決めた後での、感嘆したかのように発せられた「あぁ…渋いコースだ…」という言葉だった。
サッカーはどんな形であろうと、ボールがゴールに入ってしまえば、1点だ。サッカーに満塁シュートは存在しない。たとえどんなに美しいゴールであろうと、ボード上のスコアに1以上の数字が追加されることはない。サッカーのゴールは、入ったもん勝ち、そういう性質がある。ただ、だからといって、ゴールの決め方に優劣がないかと言えば、そうではなく、やはり脳裏に焼き付いて離れないシーンとそうでないシーンというものは、確かにある。問題になるのは、「渋い」という形容詞だ。シュートに対して、「渋いコース」という感想を持ったことは今までなかったのだ。前述の通りサッカーのゴールは入ったもん勝ち的な性質があるため、深く考えてこなかったのか、「ヤバい」とか「凄い」とか、そういう大雑把な感想しか持ったことがなかった。「渋いコース」という感想には、シュートに、優劣ではなくて美を求めるかのような深くて細かい洞察が感じられるのである。
「渋い」という言葉を辞書で調べると、「派手ではなく落ち着いた趣がある。地味であるが味わい深い」という意味が出てくる。「渋い」という形容詞は「ヤバい」「凄い」という一義的な言葉とは違う。派手さがあるからこそ渋さがある。言うならば、表があれば裏があり、陽があるから陰がある、ある意味、価値観がたゆたっている状態に対して用いられる言葉であると思う。
サッカーのゲームの中におけるPK合戦は、凝縮された濃密な時間だ。このたとえもどうかと思うが、森に対する盆栽のような関係なのである。だから、単に「ヤバい」「凄い」ではなく、シュートコースという細部に対して、美を求めるのかもしれない。「渋いコース」という感想が自然と漏れ出てしまう場面だ。



あの解説者の言葉を聴き、「渋いコース」の他にどんなコースがあるのか、考えるようになって、図を描いてみる。カイトが決めたエリアが「渋いコース」なら渋いの反対語である「派手なコース」はやはり、ポストとバーが交わる空間になるだろう。PKにおいてキーパー正面に蹴るのは「大胆なコース」と名付けてみる。よくわからないが、たぶん、優劣はないが、それぞれに美しい。図をみてみると、どのエリアにも属さない空間がまだあることに気付く。他にも美を感じるコースはあるのだろうか、PK合戦にはミクロコスモスの世界が広がっていて、謎はまだまだ残っている。

「アデル、ブルーは熱い色」 エリートと中産階級の格差が恋を引き離す

2014-06-22 21:29:17 | レビュー


〇映画「アデル、ブルーは熱い色」を観ました。

カンヌ国際映画祭パルムドール受賞の映画「アデル、ブルーは熱い色」を観る。レズビアンの役を演じる女優二人の7分間にも及ぶセンセーショナルなラブ・シーンが話題となり、史上初の監督と主演女優二人の三人そろってのパルムドール受賞だ。
いきなり映画の賞の単語を出してしまったが、映画の賞のことはあまり詳しくはない。ブログを書いていると、自分が知らないことばかりで嫌になってくるときがある。カンヌ国際映画祭も良く目にするので、名前は知っているが、その映画祭の中で一体なにが行われているかは全く知らない。ネットで調べてみると、カンヌ国際映画祭には様々な賞がある。監督賞、男優賞、女優賞から名脇役賞まで。その中でも「アデル、ブルーは熱い色」が受賞したパルムドールは最高賞であるらしい。映画の予告編などを観ていると、大抵がその映画が受賞した賞を載せている。正直いって種類が多すぎて、その賞の名称だけみてもピンとこないことが多い。カンヌ国際映画祭ひとつとってもこれだけ賞があるのだから、世界には自分の知らない映画に与えられる賞が沢山あり、ピンとこないのも無理はないのではないかと思った。しかし、映画の賞の話は今はどうでもいい。

「アデル、ブルーは熱い色」はフランスのコミック「ブルーは熱い色」を原作とした映画だ。原作での主人公はクレモンティーヌというが、ケシシュ監督による主演女優アデル・エグザルコプロスが役に融合しやすいように、という狙いから、主人公の名前を「アデル」にしたらしい。
主人公のアデル(アデル・エグザルコプロス)はハイスクールに通う文学好きの女子高校生。同じハイスクールに通う男子高校生トマとのデートに向かう途中、青い髪をした不思議な魅力を放つ女性、エマ(レア・セドゥ)とすれ違い、心を奪われる。その後、トマとデートをし、映画館でキスをするが、エマと出会った時のようなときめきは感じない。男性と付き合い身体を重ねても、どこか違和感を覚えるアデル。エマのことが頭から離れない生活が続く。そんなある日、友人とゲイバーに遊びに行ったアデルは偶然にもエマに出会う。エマは画家を志し美術学校に通うレズビアンだった。「人生に偶然はない」そう台詞を放つエマに運命を感じたのか、二人の距離は急速に近づいていく。週末は美術館へ行き、公園でランチを食べ語り合う。陽光が煌めく中でのキス、エマのアパートへ行き、二人は激しく求め合う。男性と身体を重ねても決して埋まる事のなかったアデルの心の隙間が満たされていく。
数年後、アデルは幼稚園の教師につき、画家となったエマのモデルを務めながら、彼女のアトリエを兼ねた一軒家で共に暮らしていた。しかし、労働者として働くアデルと、アーティストであるエマには微妙な心のずれが生まれていった。アデルはエマの友人たちを招きパーティをするが、エマの友人たちが交わす、芸術論についていくことができない。エマも、文学好きで文才を持ちながらも、教師という仕事をしているアデルに不満がありそうだ。ある時、アデルは一緒に生活をしながらも次第に心が離れていく寂しさに耐えきれなくなったのか、同僚の男性と関係を持ってしまう。ある夜に、男性に送られ家に帰ってきたアデルをエマは詰問し、男性と関係を持ったことを告白させると、「出ていけ!売春婦!」「二度と会いたくない、消え去れ!」と罵り追い出してしまう…

あらすじがとても長くなってしまった。実は映画自体もとても長く、約3時間だ。僕は通常の2時間の映画でも、結構長いと感じてしまって、途中トイレに行ってしまったりもするのだけど、「アデル、ブルーは熱い色」は3時間のあいだ、スクリーンに釘づけにするほどの存在感を放つ映画だった。
レズビアンの恋と別れを描いた映画ではあるが、男性の僕が観ても、とてもアデルに共感をしてしまい、胸がぐしゃぐしゃになる物語だった。以前に観た「チョコレートドーナツ」もLGBTであるゲイカップルを題材にした物語だったが、共感という感情はあまり芽生えなかった。ゲイであるが故に世間の好奇の目にさらされ、共同体が引き裂かれてしまう図には、憤りが前提にある悲しみという感情が生まれる。今回の「アデル、ブルーは熱い色」も関係が引き裂かれる話ではあるが、それは決して二人がレズビアンであるからではない。二人を引き裂いてしまったものは、二人の境遇の違いだったように思う。出会いも運命なら別れも運命だったのかもしれない。そういう悲劇的な話だった。
アデルとエマはお互いに愛し合っているが、お互いの境遇はかなり違う。アデルは文才はあるが、普通の高校に通う中産階級の女子高校生。一方、エマはエリート階級に属する金持ち、いわゆるインテリ層だ。二人の境遇の違いは、お互いの実家に遊びに行くシーンに顕著に現れていた。
アデルがエマの家に行った際は、エマに両親に恋人として紹介をされる。家の中にはセンスの良い絵画が飾られ、食事には高価なワインを出される。エマはレズビアンであることを両親にもオープンにしており、夜に二人は窓を開け放ち寝室で開放的なセックスをする。
一方、エマがアデルの家を訪れた際に待っていたのは、アデルがいつも食べているような安っぽいパスタである。アデルはレズビアンであることを両親には隠しており、エマのことを美術学校に通う友達、と紹介をする。画家を志していると話すエマに、アデルの父親は怪訝そうな顔を示す。「画家で食っていくのは大変だろう。支えてくれる人がいないと」。安定が第一、そういうことを信条にしている家庭だ。夜、二人は一緒のベッドで身体を重ねるが、エマの家でしたような開放的な交わりとは異なり、両親にばれないように息を殺してことを行わなければならなかった。
数年後、アデルは教師、エマは画家として社会に出ているが、やはり二人の境遇の違いが徐々に心を引き裂いてしまっている。エマの仲間たちと巧く芸術の話ができないアデル。そんなアデルに「もっと自由に生きればいいのに」というような不満を感じているエマ。そんな二人を観ていると、とても胸が苦しくなる。アデルもエマに何度も「今の仕事が本当にしたかったことなの?文章を書く仕事をしたほうがいい」と言われ、才能(文才)を活かした仕事をしたかったのかもしれない。しかし、保守的な家庭に生まれたことが呪いのように彼女の行動を抑制しているのか、行動に踏み切ることは出来ない。
エマのように自由に生きられたら素晴らしい、という憧れに似た気持ちを持つ一方で、労働者階級に属すアデルの方には強い共感を感じざるを得ない。恋人であるエマに一方的に追い出され、泣きじゃくりながら嗚咽をし、ぐしゃぐしゃの顔が映されるアデル。場面が切り替わり、アデルの仕事場面。彼女は深い悲しみを感じているはずなのに、職場ではその様子を見せずに、子供たちの相手をしている。日常で何があっても、職務を全うしている姿にはとても心を打たれる。
時が経ち、画家として成功をしたエマの展覧会にアデルが招待をされ、エマと再会をする。インテリの集う会で、アデルは相変わらず居場所がなさそうにしている。エマのことをちらちらと見やって意識をしているが、思い立ったように、颯爽と会場を後にする。悲しみを背負いながら立ち去る彼女の背中には女性の凛とした強さを感じる。