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「アデル、ブルーは熱い色」 エリートと中産階級の格差が恋を引き離す

2014-06-22 21:29:17 | レビュー


〇映画「アデル、ブルーは熱い色」を観ました。

カンヌ国際映画祭パルムドール受賞の映画「アデル、ブルーは熱い色」を観る。レズビアンの役を演じる女優二人の7分間にも及ぶセンセーショナルなラブ・シーンが話題となり、史上初の監督と主演女優二人の三人そろってのパルムドール受賞だ。
いきなり映画の賞の単語を出してしまったが、映画の賞のことはあまり詳しくはない。ブログを書いていると、自分が知らないことばかりで嫌になってくるときがある。カンヌ国際映画祭も良く目にするので、名前は知っているが、その映画祭の中で一体なにが行われているかは全く知らない。ネットで調べてみると、カンヌ国際映画祭には様々な賞がある。監督賞、男優賞、女優賞から名脇役賞まで。その中でも「アデル、ブルーは熱い色」が受賞したパルムドールは最高賞であるらしい。映画の予告編などを観ていると、大抵がその映画が受賞した賞を載せている。正直いって種類が多すぎて、その賞の名称だけみてもピンとこないことが多い。カンヌ国際映画祭ひとつとってもこれだけ賞があるのだから、世界には自分の知らない映画に与えられる賞が沢山あり、ピンとこないのも無理はないのではないかと思った。しかし、映画の賞の話は今はどうでもいい。

「アデル、ブルーは熱い色」はフランスのコミック「ブルーは熱い色」を原作とした映画だ。原作での主人公はクレモンティーヌというが、ケシシュ監督による主演女優アデル・エグザルコプロスが役に融合しやすいように、という狙いから、主人公の名前を「アデル」にしたらしい。
主人公のアデル(アデル・エグザルコプロス)はハイスクールに通う文学好きの女子高校生。同じハイスクールに通う男子高校生トマとのデートに向かう途中、青い髪をした不思議な魅力を放つ女性、エマ(レア・セドゥ)とすれ違い、心を奪われる。その後、トマとデートをし、映画館でキスをするが、エマと出会った時のようなときめきは感じない。男性と付き合い身体を重ねても、どこか違和感を覚えるアデル。エマのことが頭から離れない生活が続く。そんなある日、友人とゲイバーに遊びに行ったアデルは偶然にもエマに出会う。エマは画家を志し美術学校に通うレズビアンだった。「人生に偶然はない」そう台詞を放つエマに運命を感じたのか、二人の距離は急速に近づいていく。週末は美術館へ行き、公園でランチを食べ語り合う。陽光が煌めく中でのキス、エマのアパートへ行き、二人は激しく求め合う。男性と身体を重ねても決して埋まる事のなかったアデルの心の隙間が満たされていく。
数年後、アデルは幼稚園の教師につき、画家となったエマのモデルを務めながら、彼女のアトリエを兼ねた一軒家で共に暮らしていた。しかし、労働者として働くアデルと、アーティストであるエマには微妙な心のずれが生まれていった。アデルはエマの友人たちを招きパーティをするが、エマの友人たちが交わす、芸術論についていくことができない。エマも、文学好きで文才を持ちながらも、教師という仕事をしているアデルに不満がありそうだ。ある時、アデルは一緒に生活をしながらも次第に心が離れていく寂しさに耐えきれなくなったのか、同僚の男性と関係を持ってしまう。ある夜に、男性に送られ家に帰ってきたアデルをエマは詰問し、男性と関係を持ったことを告白させると、「出ていけ!売春婦!」「二度と会いたくない、消え去れ!」と罵り追い出してしまう…

あらすじがとても長くなってしまった。実は映画自体もとても長く、約3時間だ。僕は通常の2時間の映画でも、結構長いと感じてしまって、途中トイレに行ってしまったりもするのだけど、「アデル、ブルーは熱い色」は3時間のあいだ、スクリーンに釘づけにするほどの存在感を放つ映画だった。
レズビアンの恋と別れを描いた映画ではあるが、男性の僕が観ても、とてもアデルに共感をしてしまい、胸がぐしゃぐしゃになる物語だった。以前に観た「チョコレートドーナツ」もLGBTであるゲイカップルを題材にした物語だったが、共感という感情はあまり芽生えなかった。ゲイであるが故に世間の好奇の目にさらされ、共同体が引き裂かれてしまう図には、憤りが前提にある悲しみという感情が生まれる。今回の「アデル、ブルーは熱い色」も関係が引き裂かれる話ではあるが、それは決して二人がレズビアンであるからではない。二人を引き裂いてしまったものは、二人の境遇の違いだったように思う。出会いも運命なら別れも運命だったのかもしれない。そういう悲劇的な話だった。
アデルとエマはお互いに愛し合っているが、お互いの境遇はかなり違う。アデルは文才はあるが、普通の高校に通う中産階級の女子高校生。一方、エマはエリート階級に属する金持ち、いわゆるインテリ層だ。二人の境遇の違いは、お互いの実家に遊びに行くシーンに顕著に現れていた。
アデルがエマの家に行った際は、エマに両親に恋人として紹介をされる。家の中にはセンスの良い絵画が飾られ、食事には高価なワインを出される。エマはレズビアンであることを両親にもオープンにしており、夜に二人は窓を開け放ち寝室で開放的なセックスをする。
一方、エマがアデルの家を訪れた際に待っていたのは、アデルがいつも食べているような安っぽいパスタである。アデルはレズビアンであることを両親には隠しており、エマのことを美術学校に通う友達、と紹介をする。画家を志していると話すエマに、アデルの父親は怪訝そうな顔を示す。「画家で食っていくのは大変だろう。支えてくれる人がいないと」。安定が第一、そういうことを信条にしている家庭だ。夜、二人は一緒のベッドで身体を重ねるが、エマの家でしたような開放的な交わりとは異なり、両親にばれないように息を殺してことを行わなければならなかった。
数年後、アデルは教師、エマは画家として社会に出ているが、やはり二人の境遇の違いが徐々に心を引き裂いてしまっている。エマの仲間たちと巧く芸術の話ができないアデル。そんなアデルに「もっと自由に生きればいいのに」というような不満を感じているエマ。そんな二人を観ていると、とても胸が苦しくなる。アデルもエマに何度も「今の仕事が本当にしたかったことなの?文章を書く仕事をしたほうがいい」と言われ、才能(文才)を活かした仕事をしたかったのかもしれない。しかし、保守的な家庭に生まれたことが呪いのように彼女の行動を抑制しているのか、行動に踏み切ることは出来ない。
エマのように自由に生きられたら素晴らしい、という憧れに似た気持ちを持つ一方で、労働者階級に属すアデルの方には強い共感を感じざるを得ない。恋人であるエマに一方的に追い出され、泣きじゃくりながら嗚咽をし、ぐしゃぐしゃの顔が映されるアデル。場面が切り替わり、アデルの仕事場面。彼女は深い悲しみを感じているはずなのに、職場ではその様子を見せずに、子供たちの相手をしている。日常で何があっても、職務を全うしている姿にはとても心を打たれる。
時が経ち、画家として成功をしたエマの展覧会にアデルが招待をされ、エマと再会をする。インテリの集う会で、アデルは相変わらず居場所がなさそうにしている。エマのことをちらちらと見やって意識をしているが、思い立ったように、颯爽と会場を後にする。悲しみを背負いながら立ち去る彼女の背中には女性の凛とした強さを感じる。

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