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母親は僕にロックは死んだと囁いた

2017-01-02 00:41:30 | レビュー
12月30日から埼玉県にある実家に帰ってきている。
いまは、というか普段は横浜市に居住していて、距離的に帰ってこようと思えばいつでも帰ってこれるのだけど、そのいつでも帰ってこれる、という意識があるからこそ、なかなか帰ってくることができない、というのが人間というものである。職場は川崎にあるから必然的に横浜市と川崎市を往復する生活をしているが、ひどいときは川崎から埼玉方面にちょっと向かった、例えば品川などにいる時に、

「俺はいま実家に近づいている、これはもう帰ったといってしまっても差し支えがないのではないだろうか」

と、意味不明なことを思ってしまうのである。自分でもわけがわからないが、横浜市と埼玉県というのはそういう距離関係にあるということだ、つまり帰っていないにも関わらず常に帰っているような気になるのである。
そういうわけで、去年の年末年始から一年振りに実家に帰ってきているのである。
まぁ実家に帰ってきて思うことは「長く住んできた場所なのになぜか違和感を覚える」ということに尽きると思う。これはうまく言えないのだけど、自分の生活の基盤、生活の匂い、というべきものは横浜のワンルームマンションにあるのであって、実家には自分の匂い、というものが失われているのである。それは居心地の悪さを意味するのではない。自分が20数年間育ってきた家である。だが、そこからは明らかに自分の生活の基盤、自分の匂い、というものを感じ取ることができないのである。例えばこんなことがあったのである。

「学生のころ弾いていたギターが部屋の隅に押しやられ埃をかぶっている一方で、ギタースタンドには代わりに掃除機が立てかけられてあった」

正直に言って、ろくすっぽギターをまじめにやっていなかったので、何も言うことができなかった。母ちゃん、俺はまじめにギターをやってたんだよ、あの頃は確かに迷惑をかけたかもしれないけどさ、その大事なギターを押しやって、掃除機ってのは流石にあんまりだよ、流石にさ、なんてセリフは吐けないし、ロックは死んだんだ、なんて悲観に暮れる資格もない。ただ感じることは自分の生活というものがここでは既に失われている、ということだ。そのことに怒りを感じる資格は自分にはない。なぜならこの家で生活しているのは間違いなく、父と母の二人であり、そこでは二人の必要であり、都合なりが最優先されるべきであると思うからである。

しばらく、僕はギタースタンドを呆然と見つめていて、そして僕の目は次第に奇妙な円盤へと移ってゆく。大きさはちょうどレコード盤とか体重計と同じくらいでヒト一人が乗れるくらいだ。それは僕の知らなかったもので、ふんばばのように、健康サンダルのように、足つぼを刺激する突起がついている。どうやら健康グッズらしい、母親がそれに乗り、右に左に身体を捻りながら、ギタースタンドに立てかけられた、掃除機について説明をするのだった。

「あぁそのギタースタンドね、それは掃除機を立てかけるのにちょうどよかったのよ、そんなことよりこの健康グッズを見てよ、こうやって乗っかって身体を捻って、こうやって、こうやってね、アハハ…」

そして僕は部屋の隅に押しやられたギターのことはいったん頭の隅に追いやって、右に左に身体を捻り続ける母親を見ていた。身体を捻る母親も自分には記憶がなく、そこに違和感を覚えながら、でも楽しそうに右に左に身体を捻っていたとしても母親は大事にしないとな、なんて思いながら。学生のころ、真剣にギターをやっていたのなら、あの埃をかぶったギターは俺だ、俺なんだよ!なんて怒りにも似た熱い気持ちが沸いてきたのかもしれない。でも、自分はそんな学生ではなかったし、ただ違和感を覚えることしかできない。つまるところ、世の中は熱い気持ちがあろうとなかろうと、「ちょうどよさ」というものが優先されて動いてゆくんである。それがたまたま「掃除機に立てかけるのにちょうどいいギタースタンド」という形で僕の前に顕現しただけのことだ。僕が普段の生活をしているあいだ、きっと母親はわけのわからない健康器具の上で、身体を右に左に捻り続けるのだろう。そしてギタースタンドに立てかけられた掃除機を手にこの家を掃除し続けるのだろう。僕は何が言いたかったのだろうか、とりあえず、品川にいるだけで帰ったような気になるのはやめよう、いや、品川だけじゃなく、上野でも赤羽でも、どこでもである。


ジャニスと呼ばれた男

2016-12-25 22:43:19 | レビュー
久しぶりの日記の更新です。映画「ジャニス リトル・ガール・ブルー」を見ました。




言わずもがな、1960年代を代表する伝説的な女性ロック・シンガー、ジャニス・ジョップリンを題材にした映画である。僕はというと、まぁ1960年代にはまだ生まれてすらいなかったし、思春期のあるころに、ジャニス・ジョップリンばかりを聴いて過ごしていた、という体験も持ち合わせておらず、正直に言ってしまえば、めちゃくちゃに思い入れがあるというわけではない。しかし、どちらかといえばアルバムも何枚か聴いたことがあるし、思春期のあるころにそればかり聴いていたとは言わないまでも、大学の長い通学時間にそればかり聴いていた、ということもあったりして、気になる映画の一つであったのである。
ジャニス・ジョップリン自体に僕が初めて出会ったのは、確か高校生くらいの頃、地元である埼玉県の町にある市立図書館のCDコーナーであった。図書館のCDコーナーには流行りのヒットチャートにはまずのってこない昔の名盤みたいなものがたくさんおいてあって、ジャニスの名盤"Pearl"もそこにあったのである。しかし、ジャニスという言葉自体に出会ったのはさらに昔、小学生4年か5年の頃までに遡るのだった。小学校4年生とか5年生くらいの思春期に入りかけの時期というものは、ちょっと下系の言葉というかそっち系の言葉が伝聞によって、草の根的に広がってゆくものである。ジャニス、という言葉が生まれたのはそういう状況下においてのことだった。今となっては恥ずかしい話なので、詳しい説明とか言葉の由来とかは説明を避けるが、要するに男性器が大きいやつのことをジャニスと呼んで囃し立てていたのである。ジャニス・ジョップリンのことはつゆ知らずに。まぁそのことは正直に言ってどうでもよくて、ただどうしてもジャニスという言葉を聞くと、当時のことを思い出して恥ずかしい気持ちになるということが書きたかっただけである。

さて、ジャニス・ジョップリンの方に話を戻すと、今回の「ジャニス リトル・ガール・ブルー」を観て、彼女の印象というものが大きく変わったのである。ジャニスといえば、"piece of my heart"にみられるように女性とは思えないようなシャウトボイスが印象的で、かなり攻撃的というか強くてたくましい姿をずっと想像に抱いていたのである。

piece of my heart

しかし、今作はタイトルに「リトル・ガール・ブルー」とあるように伝説的なシンガーの悲しみとか心の傷に焦点を当てたドキュメンタリーになっていた。映画を観る限りでは彼女の人生とは絶え間のない心の傷との闘いであったように思える。グラビアアイドルのようになりたいと願っていたのに、自分の容姿がそれとかけ離れていることを思い知る、幼少時代。中学・高校・大学と環境が変わってゆくにもかかわらず、周囲から彼女へのいじめはなくならなかった。バンド仲間との出会いと関係の崩壊、最終的に自身を死へと追いやるドラッグへの傾倒。ジャニスは波乱の中トップスターに昇りつめるが、そこにはルサンチマンを克服した際のカタルシスというものは存在せず、そこに描かれるのはトップスターになったにも関わらず孤独を抱え続けるジャニスの姿だ。だから、劇中のライブシーンでジャニスのシャウトが映されるたびに、攻撃的な印象はまったく感じなくて、悲鳴に似たような、痛みを伴った叫びに聞こえる。最後まで孤独を感じ続けて、慰みを求めるようにもうやめたはずのドラッグに手を出して死んでしまう。27歳の時のことだった。自分も、ジャニスと囃し立てられた男も同じ27歳だ。ジャニスと囃し立ててられていたが、勉強もできて、スポーツもできたあいつは中心的な存在で、女にもモテていて、自分は尊敬と畏怖の気持ちを抱いていた。あいつもジャニスのように孤独を感じた時があったのだろうか?やはり最後はあいつのことを思い出してしまう。

大トロは地面に捨てられていなかった。

2015-11-22 23:33:17 | レビュー
毎年のこの時期、11月の第三週の休日を使って、大学時代の友人たちとデイウォークというイベントを行っている。もともとは夜通しで歩き続けるナイトウォークというイベントがあり、それに対をなすようにして誕生したのが昼間に歩くデイウォークだ。デイウォークもナイトウォークもルールは同じであり、出発点と目的地を決めて歩く、それだけである。ナイトウォークであれば20km前後、デイウォークであれば15km前後のコース設定をしている。特別なことは何もなかった。途中でコンビニに寄って飲み食いをしてもいいし、もちろんトイレにも行ってもいい。それだけなのに楽しいの、という疑問は当然ながら生まれてくると思う。確かに、思い返してみると辛いこともあったけれど、けっこう楽しい。滅茶苦茶に楽しいというわけではないけれど、一年に一回か二回くらい、こういうことがあってもいいかな、という類の楽しさだ。大人になるにつれて、ただ歩く、という機会は減ってきている。移動は電車や車に頼ることが増えていて、それは点から点へ移ることに他ならない。良いとか悪いとかではなく、電車や車に乗っていると、スピードが早すぎるため、その途中にある物事に気付くことはほとんどないのだ。ナイトウォークやデイウォークは出発点と到着点の間に存在している物事を認識するための行いだ。歩くこと、観ること、それ自体が目的の一つなのである。少なくとも自分の中では。

前置きが長くなったが、今回のデイウォークに話を戻したい。出発点は横浜駅で、ゴールは鶴見線浅野駅である。浅野駅から鶴見線に乗って、東芝社員以外は外に出られないという秘境駅、海芝浦駅に行くのが今回の大まかなコースだ。電車で行けば20分前後で着いてしまう距離を、4時間程かけて歩くのが今回のデイウォークだった。大体、毎回のウォークイベントでは歩いている途中に何かが起こる。公園で休んでいくか、休んでいかないかで揉めて、終いには殴り合いの喧嘩になってしまったこともあれば、ゴールまでたどり着く前に電車に乗って帰ってしまう人がいたりもする。今回は何事も起きずに、穏便に終わったのだけれど、ただ一つ、途中にコンビニに寄る際にガムを踏んでしまったことを書きたい。

ガムはしばらく踏んでいなかった。ガムはもちろん、踏むためのものではなくて、噛むためのものではあるが、それでも昔はガムを良く踏んでいた。昔は今より歩いていたからそれだけガムを踏む確率が高かったのかもしれない。それとも、人はガムをあまり地面に吐き捨てなくなったのかもしれないし、そもそもガムがあまり売れていないのかもしれない。こう考えていくと、ガムを踏むためには3つのステップが必要になる。つまり、①ガムを噛む人がいて、②その中にガムを吐き捨てる人がいて、③そのガムを踏んでしまう人がいる、の3つのステップだ。それがどのくらいの確率かは分からないが、とりあえず運が悪かったと思う。ガムを踏んでもいいことはなにもなかった。歩く度に、粘着力が残っているガムが地面にこびりつくので、歩行運動が抑制されてしまう。そうすると、折角の景色を楽しもうと思っても、最早、ガムのことしか考えられなくなるのが、自然な感情の流れである。
歩くごとにガムに対する文句を言い続けている自分を見ていた友人が言った。
「この前、テレビでやってたんだけどさ、大トロとガムを一緒に食べると、ガムって溶けるらしいよ」
大トロに含まれる脂がガムを溶かしてしまうらしい。いや、そんなことは全然知りたくなかった。そもそも大トロとガムを一緒に食べるという状況が意味不明だ。しかし、世の中にはガムを吐き捨てる人がいて、それを踏んでしまう人がいるくらいだから、大トロとガムを一緒に食べる人もいるのかもしれない。
「でもさ、俺はガムを噛んでいるわけじゃなくて、ガムをふんじゃったんだよね。そりゃ、大トロは食べたいけどさ。いま大トロ食べても靴底のガムは溶けないでしょ」
大トロの話をした友人はこう返した。
「じゃあさ、大トロを買ってさ、それで大トロ踏めばガムが溶けるじゃん」

それは確かにその通りだった。もし大トロでガムが溶けるのであれば、大トロを踏めばガムは溶けるはずだ。しかし、自分は大トロを食べたいと思ったことはあったが、踏みたいと思ったことは一度もなかった。だから俺は、誰かが大トロを地面に吐き捨ててくれてればいいと思ったのだった。つまり、①大トロを食べる人がいて、②その中に大トロを吐き捨てる人がいて、③その大トロを踏む、の3つのステップで、靴底のガムは綺麗に溶けるのである。もしくは①大トロを買って、②大トロを食べながら、③靴底にこびりついたガムを噛む、の3つのステップでも溶かすことができる。しかし、この方法だと大トロを食べることはできるが、同時に靴底についたガムも噛まなくてはいけないのだった。自分は、この2択だったら、大トロが道に吐き捨てられている方にかけたいと思った。しかし、横浜駅から海芝浦までの間、大トロは地面に落ちていなかった。ガムは靴底にこびりついたままだ。いつか歩き続けていれば、地面に吐き捨てられた大トロを見つけることができるのだろうか。しかし、それまでにいくつのガムを踏まなくてはならないのだろうか。

SF小説を読む その5

2015-09-20 22:32:29 | レビュー
SF小説のことはしばらくブログに書いていなかった。前回に更新したSF小説を読む その4を書いたのは2014/9/6のことであり、1年以上も更新をしていなかったことに驚く。鼻息を荒くして、SF小説を読みまくるとか、そんなことを豪語していた時期もあったが、最近はSF小説をあまり読んでいないことに気付く。前回の更新から読んだ本は以下の通り。

異星の客/ロバート・A・ハインライン
宇宙の戦士/ロバート・A・ハインライン
たったひとつの冴えたやり方/ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
あなたの人生の物語/テッド・チャン
猿とエッセンス/オルダス・ハックスリイ
華氏451度/レイ・ブラッドベリ
愛はさだめ、さだめは死/ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
暗闇のスキャナー/フィリップ・K・ディック

ちなみにこのSF小説を読むシリーズは、自分の中では、書くべきネタがなくなった時に、ブログに書かれることが多い。最近では、ギリシャに旅行をしてきたが、そのことで何を書いたらいいのか、ということが自分の中で見つけ出せないでいる。とても素晴らしい旅行だったとは思うのだけれども。素晴らしいと思った事を、そのまま文章にするのは中々難しい。ちょうど旅行が素晴らしかったことをそのまま書いてしまったとしたら、人の自慢話だったりのろけ話を聞いている時のような、うんざりとした気分に、読んでいる人が陥ってしまうことは、分かっている。それでも、旅行の話とは別で、素晴らしかった小説だったり映画だったりを、素晴らしいと書く事は、まだ救いの余地があるとは思う。なぜなら自慢話とか、のろけ話が、聞いている人が追体験するのが困難であることに対して、小説とか映画であれば、その可能性が高く残されているからだ。話が徐々にそれてきてしまっているのを感じているが、上にあげた小説の中で、特にすばらしいと思ったのはディックの「暗闇のスキャナー」であり、そのことを今日は書きたいと思う。
ディックの小説は何冊か、名作とされる作品を読んできたが、俺は断然に、この「暗闇のスキャナー」を、全作を読んだわけではないのにおこがましいこと甚だしいとは分かっていても、最高傑作に挙げたい。異質な作品だと思う。



ちなみにキアヌリーブス主演で映画化もされている。

舞台はアメリカ。物質Dと呼ばれるヤクが蔓延し、社会問題となっていた。誰も物質Dがどこで製造されて、どのように流通しているのかは分からない。主人公はそんな物質Dの供給元を突き止めようとする、麻薬潜入捜査官であるボブ・アークター。彼は仕事をしている時は、フレッドと名乗り、スクランブルスーツと呼ばれる特殊スーツを着ている。このスーツを着ていると、周りから見ている人には、モザイクがかかったように映り、中の人が誰であるのかは一切、分からない。仕事柄、身分がばれると危険であるから、このスーツの着用が義務付けられているのである。ボブ・アークターは、ヤク中の仲間たちと一緒に過ごしながら、捜査を続けていたが、ある時、上司から命令を受ける。「お前の次のターゲットはボブ・アークターだ、奴を見張れ」。自分自身のことだった。監視カメラを実家に取り付けて、自分を見張っているうちに、ボブ・アークターは、潜入捜査中に服用していた物質Dのせいで、頭がおかしくなってくる。自分で自分を見張っているが、自分のことなのに別人のように思えてきて、こいつを早くなんとかしないとか思うようになって…―

他の作品がSF的なギミックが張り巡らされた世界の中で進行しているのに対して、「暗闇のスキャナー」はどちらかと言えば、まず登場人物がいて、彼らの会話があって、あくまでSF的なギミックが付随的に働いている点で異なる。自分で自分を見張っている内に、自分が崩壊していく過程の書き方も見事であるが、それよりもジャンキー達の永遠に続くかと思えるような、与太話がとても魅力的である。

アークターは言った。「車でメイラー・マイクロフィルム社のビルの横を通りがかってさ」
「またフカシかよ」
「で、連中は棚卸しをやってた。でも、社員の誰かが、どうやら在庫をかかとにくっつけて持ち出しちゃったみたいで、それだもんでみんなピンセットと小さい虫メガネ持って、メイラー・マイキロフィルム社の駐車場に出てたの。それと小さな紙袋も持って」
「礼金でも出たの?」ラックマンはあくびをしながら、手のひらで引き締まったかたい腹を叩いた。
「出るには出たけど、それもなくしたんだって。小さなコインだったから」
「運転してると、この手の事件にはよく出くわすの?」とラックマン。
「オレンジ郡でだけだよ」とアークター。
「メイラー・マイクロフィルム社のビルって、大きさどんくらい?」
「高さ約三センチ」
「重さの見積は?」
「社員込みで?」
フレッドはテープを早送りした。メータの読みで、テープ一時間分送ったところで止めてみた。
「・・約五キロ」とアークターが言っているところだった。
「じゃあ、横を通ったってわかんないじゃん、そんな高さ三センチで重さ五キロなんてんじゃ」
(中略)
「・・バレないでどっかの国にマイクロフィルムを持ちこむ方法って知ってる?」と
ラックマンが話していた。
「そんなのどうにでもなるじゃん」アークターはふんぞりかえってマリファナを吸っていた。空気に煙が充満してきた。
「いや、つまり税関の絶対に考えつかないような方法。バリスがないしょで教えてくれた方法なんだけど。本に載せるからって口止めされてるんだ」
「本って? 『一般家庭用ヤクと・・』」
「ちがう。『アメリカへのお手軽密輸出入マニュアル・・持ち出すか持ち込むかはキミしだい』。マイクロフィルムはヤクの荷と一緒に密輸するんだって。たとえばヘロインとかと。マイクロフィルムはヤクの袋の底に入れとく。すごく小さいから誰も気がつかない。誰も・・」
「でもそしたら、どっかのヤク中が、半分ヘロインで半分マイクロフィルムの注射を射っちゃうぜ」
「うーん、ま、そしたら、そいつはお目にかかったこともないほどクソ物知りなジャンキーになるだろうよ」
「マイクロフィルムの内容次第だけどね」
「あいつ、ヤクを持って国境を越える方法をもう一つ考えついた。ほら、税関で、何か申告するものはないかって聞かれるじゃん。それでヤク持ってますなんて言えないだろ」
「わかるわかる。どうやんの?」
「うん、つまり、まずでっかいハッシシのかたまりを持ってきて、それを人間の形に彫る。それから中に空洞部をつくって、そこに時計みたいなゼンマイ仕掛けと、ちっちゃいテープレコーダを入れといて、税関の列でそいつを前に立たせて、そいつが税関を抜ける直前にゼンマイを巻いてやる。するとそいつは税関の係官のとこに行って、向こうが『何か申告するものはありますか?』って言うと、そのハッシシのかたまりが『ありません』って答えて歩き続ける。それで国境の向こう側まで行くわけ」
「ゼンマイのかわりに太陽電池みたいなのにしといて、そしたら何年も歩き続けられる。永久に」
「そんなことしてどうなんの? いずれ太平洋か大西洋に行き着くだけだろ。それどころか、地の果てを踏み外して、まるで・・」
「そいつがエスキモーの村に行ったら面白いな。高さ百八十センチのハッシシのかたまり、時価・・えーと、時価でどんくらいかな」
「十億ドル」
「もっとする。二十億」
「そのエスキモーたち、革を噛んでなめしたり、骨を削って槍をつくったりしてるところへ、この二十億ドル相当のハッシシのかたまりが雪のなかをやってきて、何度も何度も『ありません』って言う」
「みんな、どういう意味だろうって不思議がる」
「永久に謎になる。伝説になるぜ」
「たとえば孫とかに話してやるわけよ。『わしはこの目で見たんじゃ、二十億ドルもする、身の丈百八十センチのハッシシのかたまりが、一寸先も見えんような霧のなかから現れて、あっちの方に歩いていきおった。「ありません」と言いながら』孫はそいつを精神病院にブチこむぜ」
「いや、ホレ、伝説ってだんだん誇張されてくじゃん。何世紀かすっと、そいつらこんな話しをしてるよ。えーと、『わしのご先祖さまの時代のある日、身の丈三十メートルで八兆ドル相当の超高級アフガニスタン産ハッシシのかたまりが、炎を滴らせ、「死ね、くそエスキモーどもめ!」と絶叫しながら我々に向かってきたんじゃ。わしらは戦い続けて、ようやくそいつをしとめたんじゃよ』」
「それだってガキは信じないぜ」
「もうガキは何一つ信じねーもん」




どうもこの小説を読んでいると、話をフカシたい衝動に駆られる。ある時、職場に電話のコール音が鳴り響いて、俺は一番に電話を取って、「お世話になります」と声を発したものの、相手からの返事はなくて、ピーッっていう音が鳴っているだけだった。どこかの間抜けがうちの会社に電話をしようとしたのだけど、FAX番号を間違えて打ってしまったのだろう。受話器を置くと同僚が言った。
「なに、今の電話、どうしたの?」
「死んだじいちゃんから電話がかかってきた。じいちゃんが死んだのは10年前なんだけど、天国はすごくいいところだって話してたのを聞いてた」
「またフカシかよ。で、どんなところだって言ってたの」
「なんかギリシャのミコノス島にパラダイスビーチってヌーディストビーチがあるんだけど、そこに似てるって言ってた。透き通るような海があって、空には雲一つなくて、日差しも気持ちよくて、みんな素っ裸で寝椅子に転がって身体を焼いてるんだって」
「ゲゲ、でも大体の人って、年とってよぼよぼになってから死ぬわけじゃん、ジジイとかババアの裸が並んでるビーチなんて俺はちょっとごめんだね」
「それがどうも天国では自分の身体がいちばん充実してた頃の姿になるらしいよ。だから若い人しかいないんだって。じいちゃんも久しぶりにナオンの裸を見て勃起したって言ってた。じいちゃん、死ぬ間際に俺に、「孫よ、何事も恐れるでない」とかそんなことを言ったんだけど、天国がそんな場所なら、恐れることなんか何もないなって思った」
「天国にいる人って腹が減ったりするのかな」
「いや、それが減らないらしいよ。でもみんなコカコーラだけは飲むみたい。ビーチのすぐそばにコカコーラのでっかい工場があるんだって。で、飲みすぎちゃって皮膚が溶けて骨になっちゃってる人もいるらしい。骸骨になってもコカコーラだけは飲み続けて、そしたら骨がどんどん溶けていって、最後は完全に消滅しちゃうの。そうやって、天国に人が溢れないように調整してるんだって―…」


この小説にはスクランブルスーツというSF的なギミックが登場するが、SF小説のジャンルにくくってしまうのは抵抗がある。つまりなんていうか、”純”ではないけれども文学だと思う。文学ってのは一体なんなのかよく分からないけれど、人物の心情であったり、葛藤が良く描かれている。まあよく分かんないけど、どうもディックも仲間たちとヤクをやったりしてた時期があったらしくて、そのヤク仲間の何人かは死んじゃったりしたみたい。基本的にこの小説は、そんなディックの悲惨な体験を追って描かれたものだ。それも切実に。登場人物の悲惨とはほど遠い与太話が続くが、人は永遠とラリって与太話を続けることはできない。与太話が繰り返されるたびに、ボブが自分を見失っていくたびに、悲惨さ、というものが色濃く漂ってくる。
Dは、物質DのDです。堕落と脱落と断絶のDでもあります。あなたがたが友人から断絶し、友人がたがあなたから断絶し、誰もがほかのみんなから断絶する。お互いの疎外と孤独と憎しみと不信。Dとは、最終的には死です。

開けゴマ、アブラカタブラ、あ、いいです

2015-04-11 23:02:37 | レビュー
微妙な間を生んでしまう言葉というものが世の中にはあって、それは大概においてちょっとした一言なのだけど、妙に頭にこびりついて離れないということがある。つい先日にそういうことがあった。火災報知器の点検の人がやってきた時だった。

一人暮らしをマンションでするようになってはじめて知ったことなのだが、法律かなにかの決まりごとで、年に1回かそのくらいの頻度で、火災報知器が正常に作動するかどうか点検をしなければいけないらしい。ちゃんと実施日の1ヶ月前くらいに書面でもって通知がなされていた。それは平日に行われることになっていたが、幸運にも自分は会社の休みを取ることができて、当日、火災報知器の点検員が来るのを落ち着かない気持ちで待っていた。

家の中に知らない人が入ってくる時はいつでも落ち着かない気持ちになる。エアコンの修理とか、給湯器の交換とかで、何回か経験はあるのだが、「部屋をどこまでキレイにしていればいいのか」ということでいつも悩む。徹底的にキレイにする人も世の中にはいるのかもしれないし、中には紅茶とケーキを用意しておく人なんかもいたりするかもしれない。でも、自分は紅茶もケーキも部屋の中で食べる習慣がないから置いていないし、徹底的にキレイにするのも何だか気が引ける。自分でもなんで気が引けるのかよく分からないが、それはある意味で取り繕っていて、かしこまっている状態であるからである。例えば、会社の上司が家に来るとしたら、俺は部屋を徹底的に片づけ、かしこまっている状態になろうと思う。掃除機を買ってきて塵をひとつ残らず吸い上げる。吸い上げた後はちゃんとキレイになっているか、床をなめて確認までするかもしれない。そのくらいの覚悟だ。
でも、その日、俺の家に来るのは上司でも何でもない、火災報知器の点検員だった。火災報知器の点検員はもし俺が部屋を徹底的にキレイにしていたら何を思うのだろうか。もし徹底的に部屋をキレイにしていたとして、火災報知器の点検員は、塵ひとつない部屋をみて、俺が取り繕っていることを感じる。そして、その取り繕いに対して何かコメントをしないといけないと考える。

すごいですね、あたしゃ長年、15年かそこら、火災報知器の点検の仕事をしてきたんですけどね、こんなキレイな部屋は今まで見たことがないですよ。

滅多に人がこないもんだから、特別にキレイにしたんですよ、ほら、床を舐めてもぜんぜん問題がない。

俺は床を舐めながら、火災報知器の点検員に話しかける。

あなたも舐めてみてもいいですよ、これが完璧にキレイな床の見本です、こんな経験はなかなかできるもんじゃない。

部屋を徹底的にキレイにすると、こんなやり取りがあって、俺と火災報知器の点検員は一緒に床を舐めることになってしまう。そして、俺は、火災報知器の点検員と床を舐めあう事なんかは決してやりたくないのである。だから、部屋は徹底的にキレイにはしない。それでも散らばってる服とかは収納をしたし、ごみもまとめておいた。しかし、机の上に乱雑に散らばった筆記具やノートはそのままにしていたし、ベランダに通じる窓の前に敷いてある布団を畳んだりはしなかった。話を元に戻すと、この畳んでいなかった布団が、後に微妙な間を生む一言につながってしまったんだ。

火災報知器の点検員は火災報知器の点検をするだけではなくて、ベランダにある避難ハシゴの点検もすることになっていた。そして、そのことは事前に知らされていなかったのである。火災報知器の点検が終わると、点検員は、「それでは次は可能だったら、避難ハシゴの点検をさせてもらいたい」、こんなことを喋りながら、ベランダに向かっていった。目に入ったのはベランダの前に敷いてある布団だった。



ベランダに出るためには布団を畳むことを俺に頼むか、布団の上を歩いて行かなければならない。俺は、もちろん布団の上を他人に歩いて欲しくないので、布団を畳まなければいけないと思った。でも、俺が布団を畳むよりも早く火災報知器の点検員はこう言ってしまった。

あ、いいです。

たったそれだけの一言なのに、微妙な間を生んでしまった。この一言の為に、微妙な考えが次々と浮かんできてしまって、微妙な間ができてしまったんである。例えばそのあとで、「あ、すみません、布団は畳んでおくべきでしたね、すみません、俺、あまりそういうことに気が回らなくて、ホント申し訳ない気持ちでいっぱいっす、ささ、どうぞお通り下さい、避難ハシゴの点検、みっちりとお願いしますよ、なんかあった時に使えないと困っちゃいますから、ハハハ」なんて言う事もできたかもしれない。しかし、あ、いいです、と先に言われてしまった後にこの台詞を吐いてしまうのは、すなわち、俺が火災報知器の点検員に布団を踏まれるのを嫌がっているのを悟らせてしまうことを意味する。もちろん誰だって、布団を他人に踏まれるのは、いやに決まってる。しかし、そうは理解していても、暗に君に布団を踏まれるのは嫌だ、と意味する言葉を吐きかけられるのだって、あまり良い気持ちはしないだろう。
あ、いいです、なんて言われて俺はなんて返せばよかったのだろうか。「本当にいいんですか、避難ハシゴの点検しなくて、本当にいいんですか?」なんて問い詰めるような真似もしたくない。
「こっちはさ、わざわざ会社を休んでまで部屋にいるんだよ、避難ハシゴの点検はあんたの仕事でしょ?確かに布団を敷いたままにしてたこっちにも落ち度はあるよ、でもさ、あ、いいです、なんて言っちゃってさ。あんたはさ、仮にいまここで火事が起こってさ、火災報知器はちゃんと鳴るよな、たったいまあんたが点検したばかりだもんな、でもさ、いまここで避難ハシゴで逃げるしかないって状況だったとするじゃん、それで布団が敷いてあったとしてさ、『あ、いいです』なんていって部屋に残ってそのまま死ぬのをただ待ってる?違うでしょ?分かった?布団を畳むから避難ハシゴの点検を早くしてくれって言ってるんだよ、俺は。」なんて気違いのようにわけのわからないことを捲し立てることも考えたりした。
しかし、俺は結局、こういうことをひとしきり考えた後で、「いいんですか、まぁ、そうですよね」と馬鹿みたいな相槌を打つことしかできなかった。あの時、あの瞬間、点検員が、あ、いいです、と言った後は、確かに微妙な時間が流れていた。あ、いいです、が頭から離れない。恐らくこれからの人生で避難ハシゴを使うことがあったら、「あ、いいです」の言葉が必ずフラッシュバックするだろう。そして、パニック状態になった自分はフラッシュバックした「あ、いいです」以外の言葉は何も思い出せなくなってしまい、呪文のように、あ、いいです、あ、いいですと呟きながら弱々しくハシゴを下ることになってしまう。