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裸のオヤジは熱にあてられて

2017-04-15 23:13:58 | 日記
今の家に住もうと思った理由は、いろいろあるのだけど、その中の一つにラーメン二郎関内店から近いということがある。そんなわけで、二郎から歩いて10分圏内に住んでおり、特に予定はしていなかったが、帰り道に気が向いたから二郎を食べて帰る、というようなことができるのだった。今日もふらっと関内二郎によって、小の汁なしを食べた。二郎の近くに住んでいることは素晴らしいことであると思うし、このあたりの不動産屋は賃貸情報にラーメン二郎関内店から徒歩何分とかそういう情報を入れればいいとも思うが、今回、何が言いたいかというと、やはりドヤ街だったりピンク街だったりが密集している関係なのか、予期せぬ場面や人に出くわすことが多いということだ。

そんなわけで、ラーメン二郎から帰途についている際に、違和感のある光景が目に入ってきたのだった。どんな違和感かというと、どうも街中に裸のオヤジがいるように思える。通りをはさんだ向かい側には警察署もあるし、もう暗い時間であったので、見間違いかとも思ったのだが、近づくにつれ、見間違いではなく、60歳前後の白髪のオヤジがパンツ一丁で煙草を吸っているのが明らかになったのだった。道行く人に、何かを見せつけたりとかそういう行動もしていないので、いわゆる露出狂の類ではないと思われた。挙動不審なところもなく、不動だにせず、堂々と煙草を吸っていた。堂々と、という言葉は使ったものの、腹は贅肉がたっぷりとついているせいかたるんでいて、どちらかというとだらしない類の腹だな、これは、とは思ったのだが。

いろいろなことを考えてしまう。男はなぜパンツ一丁で街中にいるのだろうかと、そして周りにいる人が誰も男のことを話題にしていないのが、とても気になった。
思考を続けている間、大学生らしき二人組の会話が耳に入ってくる。…やっぱりさ、お前はもっと”熱”を持たないとだめだよ、おれ、思うんだけど、”熱”持ってないやつの言葉ってさ、もう全然伝わってこないのよ、軽いっていうかさ。夏に向けてさ、モチベーションあげてけよ、スキルアップして次のステップだよ、次のステップに行くべきなんだよお前は…

まぁ正直言って何について話をしているのかがさっぱりだったのだが、なんとなく状況は読めてきた。銭湯が近くにあったので、これは、たぶん風呂に入ったあとの火照った身体を冷ますために夜風にあたっているだけなんだな、と思った。そうすると、男は必然的に銭湯に戻るはずであり、自分の予想があたっていることを確かめるためにもう少し、男の裸を見続けようと、そして大学生二人組の会話も集中して聞いてみようと思った。どうも先輩らしき方が後輩に対して説教をしているという内容らしい。
…だいたいさ、お前は”キャンセル”が多すぎるのがいけないよ、斎藤を参考にした方がいいぞ、あいつはちゃんと周りとコミュニケートして、コンセンサスを得てるから、お前ももっとこう、ぐわっと、”熱”をもってだな、俺、お前のことセンスは良いと思ってるよ、ただ足りないのは”熱”だよ。…

熱。隣の大学生についてはどうやら熱の話をしていることしか分からないのではあるが、まぁ一つ言えることは熱にもいろいろあってそれは人を動かす大きな力になるんだろう。例えば俺も、男が裸で道端に突っ立っている理由について、まさに熱のせいなんじゃないかと思っている。ただ、どうも妙なのはいくらなんでも裸でいる時間が長すぎることだ。そろそろ諦めて帰ろうかと思っていた頃に、男は動き出し、銭湯に戻るというわけではなく、その隣のコインランドリーに入っていったのだった。そして、乾燥機から洋服を取り出し、何事もなかったかのように、着衣をはじめた。

俺は大きな思い違いをしていた。そしてすべてを理解した。男はおそらく必要最小限の服しか持っていなくて、コインランドリーで洗濯をしている間に着る洋服がなかっただけなんだろう。それが必要に駆られてのことなのか、あえてそういうライフスタイルを選んでいるのかはわからないが。大学生二人組は相変わらず”熱”について浮かれたように話をしていて、男のことは気に留めようともしない。俺はよくわからない話のよくわからない"熱"のことよりも、男のことばかり考え続けていた。つまり少なくとも男はパンツは履いていたので、パンツだけは2着持っているのだろうか、とか。男がパンツを洗うとき、ついに丸裸になるのかもしれないが、それでもこの街の人たちは日常風景として気にも留めないのだろうか、とか。

貧乏揺すりが止まらない。

2016-08-07 22:41:45 | 日記
さいきん、職場で座ることに使っている椅子が新しくなったのだけど、その時に俺が一番最初に試したことは貧乏揺すりをすることだった。世の中に貧乏揺すりをしやすい椅子とそうでない椅子があるのかどうかは分からない。ただ、貧乏揺すりを試してみることは大事なことだと思ったから、貧乏揺すりをしてみた。貧乏揺すりとは意識して行われることではなく、自然発生的に行われてしまうものだと俺は思っていて、だからこそ、無意識的に行われる動作が阻害されないかどうか、ということは自分の中で椅子を使う上で重要なテーマの一つなんである。

そう、最近、仕事中に貧乏揺すりが止まらなくて困っている。客と電話をしているときとか、たいてい貧乏ゆすりをしながら、話しているし、考えことをしているときとか、何もやることがないときとかもおおよそ貧乏揺すりをしている。正確に言うと自分は困っていないのかもしれない。「貧乏揺すりのしすぎで太ももの筋肉のみが異常に発達して、おかしなバランスの身体になってしまって困った」ということには今のところなっていないからだ。貧乏揺すりをしていても特に疲れないし、困るということはないのだ。
しかしながら、周りの人には不快な印象を与えていることは確かである。よく隣に座っている上司に注意されるんである。そのたびにもごもごと口ごもりながら、「いや、したくてしているわけじゃないっていうかなんか動いちゃうんですよね、膝が」とか「転石苔を生ぜずってことわざは海外では良い意味ととらえられることもあって―…」とか馬鹿みたいな言い訳をしている。しかし言い訳を考えるのも段々と苦しくなってきて、ネットで何か良い言い訳がないかしらと調べてみたものの、もうなんていうか全世界的に「悪いマナー」とされていることがわかる。
自分も貧乏揺すりが「悪い」ものだということは分かっていた。ある人のしぐさが悪いものかどうか、ということを判断する際に、自分はよく「その仕草を周りの人間がすべて行っていたらどうなるか」ということを想像するようにしている。
例えば、自分は電車を待っている際に止まっていることができずに、ホームを行ったり来たり歩いたりすることが多い。その行為が良いか悪いか判断するために、そこで想像をする、もし電車を待っている客すべてがホームを歩いていたら、と。その光景は最悪だと思う。安全面は別にして、何が悪いのかはうまく指摘できないのだけど、それは悪いことなんだと自分は思う。
それでは例えば、くしゃみだったり、鼻くそをほじったりする行為は?くしゃみは周りの人がしていたら、びっくりするだろうとは思うが悪いことだとは思わない。鼻くそをほじるのは馬鹿らしい光景だとは思うが、馬鹿、ということは悪いということではないと自分は思う。
こう考えると貧乏揺すりというのは最悪の部類に入る。もし職場の人がすべて貧乏ゆすりをしていたら、隣の人同士で貧乏揺すりをしていると膝がぶつかっちゃったりとかそういう問題が出てくるから、うまく当たらないように貧乏揺すりをしないととか、お互い考えちゃう。そして左右の揺れがそろってきたりして、最終的には事務所の人間の膝の揺すり方が示し合わせたようにぴったりそろうようになる。それで、一回そのリズムに組み込まれてしまうと、なかなか抜けることができなくなって、疲れ果てるまで貧乏揺すりをし続けるんだろう、きっと。それは想像するだけで、おぞましい。
俺は新しい椅子で一番最初に貧乏ゆすりを試してみた。普段無意識で行っていることを意識的に行う、ということに対する違和感はあったけれど、それを除けば、貧乏揺すりをするために作られた椅子なんじゃないかと思うほど、いともたやすく貧乏揺すりを行うことができた。そうして、今も仕事中に貧乏揺すりをし続けている。直したいと思う、絶対に。だってこれはおぞましいことなんだから。とりあえずは、隣に座っている上司が、俺と同じリズムで貧乏揺すりを始めるその日までに必ず。

炊飯器と世界とブラック企業、それぞれを一周すること

2016-06-19 21:42:11 | 日記
○世界一周系ブログ

毎年この時期になると考えていることは夏休みのことであり、夏休みは海外旅行にあてるようにしているので、つまり海外旅行のことを考えていることになる。海外旅行は何回かしているのだけど、共通して言えることは「どこに旅行するか考えるところから始まる」ということである。もちろん人によっては行きたい場所があり、そこからどこに旅行するかが必然的に決定される、ということもあるだろう。例えばマチュピチュに行きたいので、ペルーに旅行することになった、というように。しかし、自分の場合は、行きたい場所はどこにもなかったのだった。行きたい国もこれといってないのだった。しかしながら、毎年の夏休みは海外旅行をしたいと思う。理由はよくわからないが、楽しいと思えることが世の中にはいくつかあって、自分の中での海外旅行がそれにあたるのだった。そして、行きたい場所がない状態でどこに旅行をするか決めるためには、情報を集める、ということがプロセスとして浮かんでくるのだった。そして、往々にして次のような状態に陥ってしまうのである。それは「気付いたら世界一周系のブログを読み漁っていた」という状態である。そして、海外旅行のことを考えようとしていたのに、気付いたら世界一周系のブログのことを考えてしまう、というよくわからない状態に入り込んでしまうことになる。

世界一周系のブログを読んでいると色々と思うところがあるのだった。それは資金源は一体どこなんだ、という経済的な疑問にはじまり、女子一人旅のブログでは決まってボブとかマイケルとかミハエル、たかしとか、まぁ名前はこの際どうでもいいのだけれど、旅に同行する男が出現し、この人たちは付き合っているのだろうか、とか俗っぽいことを考えずにはいられなくなってしまう。そして続きが気になり読み耽ってしまうのだけれど、大体の展開が旅の途中でボブやマイケルやたかしとは別れるのであり、真相は語られないまま疑問が残るのである。いや、そんなことはどうでもよくて、そもそも世界一周とはどういうことなのか、ということを考えてみたい。世界一周系のブログに共通していることは、あるまとまった期間に世界中を旅行していることである。例えば、「ブラック企業に勤めて15年間、毎年4日しかとることのできない夏休みを活用して世界を一周したブログ」というブログがあるとして、それはそれでかなり読んでみたい気がするのだけど、それは決して世界一周系ブログではありえない。なぜなら、それはあくまでブラック企業を拠点として旅行をしているだけであり、周っている、とは言えないからである。しかし、周る、とはどういうことなのだろうか。僕の部屋にある、周ることのできるものといえば第一に思い浮かぶのは炊飯器である。試しに炊飯器の周りを周ってみて、思ったことは、おそらくこの先何百年の時が経とうとも「炊飯器を一周する系のブログ」なるジャンルは生まれないだろう、ということだった。なぜなら、炊飯器は周るためのものではなく、コメを炊くためのものだからだ。まぁ書こうと思えば色々と書けるのかもしれない。コメを炊いている間、炊飯器を周り続ける話とか。しかし人は気付くのである、コメを炊いている間に炊飯器の周りを何百周しようが、コメはあくまでコメであり、味が変わるなんていうことは決してないということに。そして炊飯器について考えることをいずれやめてしまうのだった。
そして、当然のことながら、世界と炊飯器は大きく異なっている。世界はコメを炊くことができないし、炊飯器を周るのにパスポートは必要がないという点で。世界を一周する、とは一体どういうことなのだろう。
そこで思い出すのが、合コンである。僕は世界一周系のブログを読むのと同じくらい合コンの話を聞くのが好きなのであり、その中でも特に好きなのは「合コンを繰り返していると、依然合コンした人と別の合コンの場で再び会うことがある」という話である。つまり、一度合コンをしてそこで知り合った人に再び合コンをセッティングしてもらって…という風に合コンを続けているうちに、いつかまったく違う場所、違うメンツで依然合コンした人と再会してしまう、という話である。合コンをやったことがないので、そんな偶然があるのか、ということは当然のごとく思うのだが、やはりここで思うのは、「その二人は合コンを一周したんだな」ということである。話を世界一周系のブログに戻すと、やはり読んでいると、旅先で出会ったボブとかマイケルとかテツヤとかと、まったく別の国で再会している、という記述を見かけることがある。僕はこのとき彼ら、彼女らが世界を一周していたんだな、と感じるのである。こうして、僕はどこの国を旅行するか考えていたいのに、どこかを旅しているボブとかマイケルのことを考えざるを得なくなってしまう。このように世界一周系のブログのことはいろいろと思うところが多いのだが、どちらかというと、「ブラック企業を転職し続けて15年、パワハラ上司のボブに別のブラック企業で再会」というブラック企業一周系ブログがあるならばそちらのほうが読んでみたいと思う。

○今年の候補は…

アイスランドとヨルダンとクロアチアです。
情報求。






健康診断前はメシ喰うな!

2016-05-14 23:12:56 | 日記
だいたい働いてるときというものは、飯を食う事しか考えなくて、午前中は早く昼飯を食いたいな、と考えながら、仕事をしているし、かといって昼飯を食べた後に午後になったら早く晩御飯を食べたいな、なんて思いながら仕事をしている。それは当然のことであると思う。なぜなら仕事をすることは人間の三大欲求に含まれないが、食欲、というのはまさに人間の三大欲求のうちの一つだからである。だからこそ、健康診断の前日のことだったのだが、隣に座っている上司が、「明日は午後から健康診断だから昼ご飯は食べないようにね」ということを俺に告げた時は面喰ってしまった。



その時は「いや、俺は別に自分の体重とかあまり気にしないんで、別に」とか答えてしまったのだが、どうも体重の問題ではなくて、血糖値が計測する時にあがってしまうとか、そういう話であるらしい。そしてインターネットをみていると健康診断の直前にメシを食わない、ということは常識であるらしいことが分かってくる。俺は常識、という言葉があまり好きではない。なぜなら常識、ということは得てして、ある行為を禁止したりする際に使われることが多いからである。案の定というか、サイトを見ていると、「健康診断前にはご飯を食べるのは禁止です!」とか「健康診断前の10時間はご飯を食べてはいけません」という言葉が目につくのだった。いや、この「10時間」という記述には正直、まいってしまう。上司に言われたのは「健康診断直前の昼メシ」を抜かすことだけだったのだが、どうも「健康診断前の10時間」メシを食うのはまずいらしい。10時間の間、メシを食わないというのは自分の中ではかなり特殊な状況だ。なぜなら仕事をしている間も考えているのはメシを食うことばかりなのだから。結局は診断をするのは俺の健康であり、それはあくまでも俺の問題だった。だけど、俺の問題なのに、誰かに何かを禁止されてしまう。サイトの文章を書いている人物に対して、お前は俺か、という思いが込み上げてきたが、結局のところ俺は10時間前からメシを食わなかった。中学生の時に、身体測定の前に早く眠ったことを思いだした…長い時間、寝ておけば、身長を計測する時に良い結果が出るんじゃないかと思って…背の順で背の低い奴から順番に並ばされた時に、前に並んでいる奴が明らかに自分より大きいことに気付いた。そしてその以前は自分より背の低かった男は振り向いてこういうのだった。「お前、俺より背が低いんじゃないか?順番代われよ」。そして自分はこう返したのだった。「いやいや、4月にした身体測定の結果を覚えているか?何センチだったんだ?え?163cmだって?それなら俺の方がプロフィール上は背が高いことになってるな、つまり順番は代われないな」。その時と同じことなのかもしれない。きっと何かの拍子でぶっ倒れた時に、自分は健康診断の結果を持ち出すんだろう、そしてプロフィール上は健康だと医者に言い張るんだろう。いや、そのことに何の意味があるのかよく分からない。大事なのは現在の身長であり、現在の健康であるからだ。でも、自分は診断とか測定が存在する限りそれにすがって生きるしかないのだとも思う。少しでも自分を良く見せたいと思って。つまり、試験前は徹夜で知識を詰め込んだりするし、身体測定前は早く寝るし、健康診断前はメシを食わない、そうやってこれから生きてゆくのだろう。

出歯亀は3回転がる部屋に住む

2016-03-06 22:33:00 | 日記
このことは書いておこうと思っていたのだった。
少し前の話にはなるのだけれど、俺は代休を取って会社を休んでいた。平日の普段なら会社であくせくしながら働いている時間に家の中にいるということは不思議な気持ちになるのだった。それは次のような気持ちである。

なにをすればいいのかが分からない。

いや、もちろん働いていても、なにをすればいいのかが分からない時間、というものは確実に存在しているのだけど、そんな時でも一応は分からないなりに、何かをしなければいけない、という意志はあるので、前述したような不思議な気持ちにはならない。つまり、何をするべきなのか分からない事に加えて、何かをしなければいけないという意志さえも働かないので、宙に浮いたような不思議な気持ちを感じていたのだった。というのも、この休みは前々から決まっていた休みではなくて、急に休めと言われて、何も予定がないのに休むことになったことが関係している。何をするわけでもなくて、ただ休んでいたのだった。もう少し、何か行動を加えるとしたら、ごろごろしていたのだった。とりあえず右にごろごろして、壁にぶち当たったら、左にごろごろして、また壁に当たったら右にごろごろして、ということを繰り返していた。そんなことをただ繰り返して、次第に暗澹たる気持ちに落ち込んでいったのだった。俺の部屋の幅は二回半しかごろごろすることができないんであった。不動産屋はそんなことを俺に教えてはくれなかった。部屋が何畳あるとか、何平米あるとか、そういったことは情報としては持っていたのだけど、もちろん何回ごろごろ転がれるのか、ということは不動産屋に教える義務はない。そして義務のないことは概して行われない、ということがこの世の常であることも理解している。だから、俺は不動産屋を恨んだりはしない。ただこの2回半しかごろごろ転がれない部屋に住んでいる事に対して気持ちが落ち込んだだけだった。

そんなはずはないと思って、何回か試してみたが、やはり何度やっても2回半だ。ただ休んでいたいだけの一日だけだったのに、ごろごろしてるだけでどんどん気持ちが沈んでくるのだった。ベランダに出てみることにした。ベランダもそんなに広くはないけれど、この壁に囲まれた部屋と違って、少なくとも外の景色を見ることはできる。ベランダに出てぼーっとしていたら、右二つ隣の角部屋に住むマンションの管理人もベランダに出ていることに気付いた。管理人は双眼鏡を掲げていた。ここがちょっとした郊外の森林地帯にあるマンションであったら、野鳥観察が趣味なんだろうな、とか思うところではあるのだが、生憎と木も林もないコンクリートジャングルであり、生息する鳥類といえば、生ごみを漁るカラスしかいないときたもんである。野鳥観察が趣味ではなく、恐らく覗き見が趣味なんだろう、管理人の双眼鏡が臨む右手の方角には、こちらにベランダを向けた同じような集合住宅地があるのだった。覗いてる方角が、俺の住んでいる部屋の方角とは正反対なので、管理人はこちらに気付いていないようだった。そして、ふつふつとではあるが、収まりのつかない、釈然としない気持ちがわいてくるのだった。どこかの集合住宅地で真昼の情事を楽しんでいる人がいようがそれを覗いて楽しんでいる人がいようが、個人的にはどうでもいいことではあるのだが、その覗きをしている人物がマンションの管理人となると話は別である。昼の14:30くらいの時間、普段なら俺は会社にいて、終わりの見えない仕事をなんとか終わらせようと、必死にもがいている時間である。もちろんもがいている時間だって、上司に鞭で引っぱたかれまくっている。単純化すると、そうして俺が上司に鞭で引っぱたかれた時間を売って得た金を、家賃として管理人に納めているのであり、その管理人が覗き行為をしているのだった。恐らく、あの覗きに使っている双眼鏡の購入に要した何割かの金は、俺の給料から出ているはずだった。世の中というものは往々にしてそういう場所なのだろう。
ついさっきまで2回半しかごろごろできなかったことを思いだし、そして管理人の部屋の間取りが自分の部屋より広いことを思いだして、泣き出したい気持ちになったのだった。あんたよお、こっちはよお、2回半しかごろごろできない部屋でさ、窮屈な思いしてんのよ、それなのにあんたは広い部屋に住んでるし、真昼間から覗きして楽しんでる、全くよ、嫌になっちゃうよ。そして管理人は言うのである。俺の部屋だってよ、確かにあんたのところより広いけどさ、いいとこ3回くらいしかごろごろ転がれないんだよ、いや、2回半と3回の間くらいなもんだよ、それに比べてさ、俺の覗いてる部屋は、まぁ見た限り4回は転がれる部屋なんだよね、そんな泣き言を俺に言われてもさ、正直困っちゃうっていうかさ。上にも書いたように世の中は往々にしてそういうところなんである。もちろん誰だってできるだけ沢山、ごろごろ転がりたいと思っているはずではあるが、現実に転がれる回数は決まっていて、それはなかなか変えることはできない。呑み込めない思い、というものが世の中には確かに存在している。しかしそういう思いを呑み込んで生きていかないと何も始まらないのである。とりあえず今まで通り家賃を振り込んでいこうと思う。それがどんな行為に使われようが自分には関係がないと思うほかはない。そして休日も今まで通り、ごろごろすることにしよう。たとえそれが2回半転がるたびに壁にぶちあたるとしても、その過程を楽しむようにしよう。そんなことを思った一日なのだった。