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あの楽しそうなディズニーランド

2014-12-23 23:24:16 | レビュー
先日に知り合いの一人から、ディズニーランドでデートをしたという話をきいた。ディズニーランドとデート、どちらもぜんぜん詳しくないが、よくある組み合わせであると思う。しかし、ディズニーランドはともかく、デートに詳しい、というのはどういうことだろう。「デートコースにとにかく詳しい人」。そういう人間はときどきいる。デートの数だけデートコースがあるわけだが、デートコースに詳しい人は、まんねりとしたデートコースだけを選ぶことはしない。いくつもネタを持っているからだ。こういう人はデートに詳しいと言える。または、「知り合いのしたデートのことはほとんど把握している人」。こう書いてみると、そういう人は確かにいそうで、とてもデートに詳しい人間であるような気がするが、ゴシップネタ好きであり、そのうえ粘着質であるという、どちらかというと嫌われるタイプの人間像が浮かび上がってくる。
とにもかくも、自分はデートコースに詳しくもなければ、知り合いがデートしたことに関しても、ほとんど知らないので、デートには詳しくないタイプの人間だ。そもそも恋人がいないので、デートのことを考えることはほとんどない。それでもふとした時にデートをしたという情報が耳に入ってきて、デートについて考えてしまうことがある。それにもまして、今回ではディズニーランドでのデートについてだ。そして、考えてしまったのはいいものの、自分にはディズニーランドでデートをした経験がいちどもなかった。

以前に更新した記事「ミニシアターには退屈そうな人が集まる。」」で、映画館でのデートについて触れたことがあった。映画館でデートをすると、映画のことを話さないといけないことがプレッシャーになってしまった、というような話を書いた。恐らくだが、ディズニーランドにおけるデートでは、映画館でのデートのそれ以上に、会話に縛りが生まれてしまうような気がする。ディズニーランドでデートをしながら、観た映画の話をしても、「あんたの観た映画のクソ話なんか今は聞きたくないのよ」と思われてしまいそうだ。
では、映画館でデートをした話ならどうだろう。「あるとき女の子と映画館でデートをしてさ、終わった後に映画の話をするんだけどさ、でも俺は、映画を観たのはいいんだけど、映画について語ることなんて何もなくてさ、険悪な感じになっちゃって…」。それは、まさにディズニーランドで会話に困っているという、その場を比喩的な意味において言い表している話ではあるが、ディズニーランドで映画の話をするよりも最悪な男だと思われてしまう。
ディズニーランドのデートでは、やはりディズニーランドの話をしなくてはいけないのである。しかし、自分はディズニーランドについてほとんどなにも知らない。

過ぎ去ってしまった10年間のことを考える。あのとき、あの場面で、ああしていれば、ディズニーランドでデートができたかもしれないと思うこともある。しかし、自分はディズニーランドでデートをするための努力というものを根本的に怠っていた。そして、世の中にはディズニーランドでデートをしている人間が、俺にその話をした知り合いのように、確実にいることも事実なのだ。彼らはきっと、ディズニーランドのデートをするにあたって、少なからず努力をしている。つまり、どんなイベントが行われていて、どんなキャラクターがディズニーランドにはいて、ということはもちろん把握しているはずだ。失われてしまった10年間を取り戻そうとして、ディズニーランドのことを調べて、ディズニーランドが東京ドーム10個分の広さであることを知った。東京ドーム10個分という言葉をみて、セ・リーグとパ・リーグの全チームが一斉に野球の試合をしている状況が脳裏に浮かんでくる。そのディズニーランドでは、子供たちやカップルは一人もいなくて、生ビールを片手に持った酔っ払いの親父たちが集まり、ミッキーやミニーもいなくて野球チームのドアラだとかジャビットだとかのマスコットがパレードを行っていた。言うまでもなく夏場には生ビールの放水ショーが行われた。
なんでこんなことを考えなければいけないのだろう。ディズニーランドでのデートをしたことがないのに、ディズニーランドのデートについて考えてしまったことの不幸が、ここにはある。

SF映画をみる

2014-12-07 22:00:43 | レビュー


〇 映画「インターステラ―」を観ました。

ここのところはあまりSF小説を読んでいない。すこし前に神奈川近代文学館でもよおされていた「須賀敦子の世界展」に行ったことの影響で須賀敦子関連の本ばかり読んでいた。須賀敦子について詳しくは書けないが、とにかくSF的なるものからは、正反対に位置する作家であることだけは確かだ。SFは未来を描いた話が多いが、須賀敦子の語る話の多くは彼女が過去に生活をしていたヨーロッパにまつわる話だ。SFが想像力で物語を創造してゆくとすれば、須賀敦子は追憶で物語を紡いでいく。須賀敦子のことはいつか触れたいと思う。とにかくSF的なるものに触れる機会から、かなり遠ざかった生活をしていたのだけど、今日、SF映画「インターステラ―」を観たので、そのことを書きたい。

SF小説もあまり読んでこなかったので、SF映画というものもほとんど観たことがなかった。覚えている限りでは「猿の惑星」くらいだろうか。SF映画を観ようと思ったきっかけは、このあいだ、友人たちと恒例イベント「デイウォーク」をしていて、その時は、鎌倉から横須賀まで歩いたのだけど、確か経由地の葉山から横須賀の間で映画の話がのぼり、「インターステラ―」の話題が出たからだった。クリストファー・ノーランの最新作「インターステラ―」がいま観るべき映画ですよ、一緒に歩いていた後輩はそう言った。監督の名前がパッと出てくるのは凄いと思った。映画のタイトルは聞けば分かるものは多いが、監督の名前はあまり多くを知らないからだ。監督を基準にして映画を観る、というのも、映画を楽しむ上で必要なのだと思った。もちろん、クリストファーノーランの映画は他には観たことがない。

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砂嵐が恒常的に吹きすさぶという、劇的な環境変化のせいで、人類は深刻な食糧不足に見舞われ、絶滅の危機を迎えていた。元、パイロット兼エンジニアのクーパーは、農場で作物をつくる仕事をしていた。
一方でNASAは10年前から水面下で、この地球規模の危機から人類を救う計画に着手していた。それは「ラザロ計画」と呼ばれる、人類が新たに居住できる惑星を探査するプロジェクトだった。プロジェクトの中心人物であるブランド教授は土星周辺のワームホールを利用して、超光速で航行する技術を元に、既に12人の探査員を人類未踏の地へと送り出していた。
そんなある日、クーパーの家では、不思議な現象が起こっていた。最愛の娘のマーフの寝室に吹き込んだ砂が、座標を示す模様を作っていた。座標を示す場所へと、車を走らせると、そこには「ラザロ計画」を推進する、NASAの秘密基地があった。クーパーは元パイロットであることを買われて、惑星探査プロジェクトの一員にならないかと打診をされる。家にはまだ幼い子供たちもいる。しかし、クーパーは宇宙への夢を捨てきれず、引き留める家族を振り払い、人類を救う壮大な宇宙への旅に出ることを決意する。クーパーは地球は救えるのか、また家族の元へと帰ってくることができるのだろうか…

とにかく金がかかっていそうな映画だと感じた。製作費を調べてみると1億6500万USDだった。映画の一般的な製作費の相場というものは良くわからないが、この前に観た「インサイドルーウィンデイビス 名もなき男の歌」は1100万ドルだった。「ニンフォマニアック」は前篇と後編を合わせて470万ドルだ。並べてみると、とてつもなく金のかかった映画であるということが分かる。
かかった金が多い事と、関係があるのだと思うのだけど、とてつもなく壮大な話だった。なにせ地球の人類の運命を背負って、宇宙への旅に出るのだ。100億円以上かけた映画の主人公が、売れないフォークシンガーだったら、なんていうか、あまり共感はできなさそうだし、登場人物が道端で助けた色情狂の女に長々と性体験を語られていても、これまたちぐはぐな感じがする。金がかかってるだけに主人公の背負うものも大きいのである。
しかし、「インターステラ―」はただ、壮大なだけの宇宙冒険譚ではなくて、きちんと人の心の琴線に触れるエピソードを盛り込んでいるところが素晴らしいと思う。人類の運命を背負い、宇宙の旅に出るクーパーは、スーパーマンではなくて、一介の農家の父親に過ぎない面も持ち合わせている。事実、彼は、人類の運命がどうということよりも、むしろ、残してきた娘のことを案じ続けている。

超光速航行をして、たどり着いた居住可能候補である惑星は、重力が異なる関係で、地球とは時間の流れ方が大きく違うのであった。未開惑星での1時間が、地球では7年に相当するのだという。不慮の事故により、クーパーの探査隊は、未開惑星に予定よりも長い時間、滞在する事になってしまい、地球では23年間の年月が流れてしまう。クーパーがまず案じたのは、残してきた家族のことだった。彼が惑星にいた時間は数時間だったが、宇宙船にはクーパーに向けたビデオ映像が、23年分、溜まっていた。次々と流れる息子の生活の報告。高校を卒業したこと、父親になったこと、そして、父さんのことはもう諦めるよ、という告白で映像は締められている。クーパーの乗る宇宙船はメッセージの受信はできても、送信をすることはできないのだった。クーパーは自然とむせび泣いていた。かわいがっていた娘は、クーパーと同じ年齢になったことを告げていた。

この映像を観ている時に、J・ティプトリー・ジュニアの「たったひとつの冴えたやりかた」を思い出す。「たったひとつの冴えたやりかた」は今回の場合とは逆で、娘が宇宙探査に出かける。そして、親が一方的に、娘からの通信を受け取るというエピソードがあった。一方的に、というのがポイントだ。向こうはメッセージを送ってきているのに、こちらは返す方法がない。言いたいことは山ほどあるのに、ただただ送られてくるメッセージを受け取るしかない、という状況はとても深い孤独と無力感に包まれることだろうと思う。

理屈は全く分からないが、宇宙飛行していることによって、流れる時間が異なってくる、というのもSFでたまに見かける話だ。ダン・シモンズの「ハイぺリオン」では宇宙飛行を繰り返しているため、いつまでも若いままでいる男と、会うたびに年老いていく女のロマンスが描かれた。どうも一方が若いままで、一方の人物がだんだんと年を取るという話には、よわい。今回も、クーパーの子供たちが段々と年を取っていく映像を観ていて、かなり涙腺が緩んでいた。そんな状況は今まで経験したことがないのに、なぜだろうと考える。現状のところ、人と人の進む時間が切り離されるのは死ぬことしかなくて、死別というものを連想してしまったからだろうか。確かに、いつまでも若いままでいるクーパーは半ば死んだものと諦められていた。

約、3時間ととても長い映画だった。正直、序盤の宇宙飛行に出るまでのあいだはすこしうとうとしてしまった。しかし宇宙探査に出かけてからは、一気に目が覚めた。スペクタクルなストーリーであることだけではなく、SFならではの装置を使ったヒューマンドラマも盛り込んだ、完璧に面白い映画だった。SF的なるものに触れたいという欲が、また、高まってくる。

映画「ニンフォマニアック」

2014-11-16 22:08:55 | レビュー


〇 映画「ニンフォマニアック」を観る。

久しぶりに映画について書こうと思う。
もともと映画を観る方の人間ではなかったので、暇をつぶす為に映画を観はじめたのだけど、気付いたら積極的に映画館に通うようになっていた。映画のことをブログに書き始めて、観た映画のことは全部かいておこうと、思ったこともあったが、今となっては無理な話である。大体が、近所のジャック&ベティで映画を観るのだけど、先週は観たい映画があったので、わざわざ東京に出て映画を観てきた。以前の自分だったらあまり考えられないことだ。とはいっても今回書こうとおもうのは、わざわざ東京に出てまで観た映画のことではなくて、近所のジャック&ベティで観た映画「ニンフォマニアック」のことだ。

この映画のことは週末に観る映画を選ぶうえで非常に参考になるサイト「今週末見るべき映画」」で触れられていらい、気になっていた。気になっていたとは言っても、ネタを知ってしまうのが怖いので、このサイトでは、タイトルだけを観て、肝心な記事はあまり読まない。「今週末見るべき映画」に取り上げられている映画が、ジャック&ベティで上映されている場合、とりあえず見にいってみるのである。そういう経緯でニンフォマニアックを観ることにした。

長かった。長い映画だった。チケットを買う時に、「ニンフォマニアック vol.1」というタイトルに気付いた。vol.1があるということはvol.2もあるということだ。ニンフォマニアックは前篇と後編に分かれた二部構成だったのだ。vol.1を観ながら、「vol.2は来週にしようかな」なんて考えが何度も浮かんだが、分けてみるのは邪道であるような気がしたし、なにより前篇が観終わった時に後編がとても気になったので、結局は一気に観ることにした。

ニンフォマニアックの物語は、雪が舞う路地で女性が倒れているのを、老紳士セリグマンが発見するところから始まる。女性の名はジョーといい、顔は痣だらけで、身体は血まみれだった。「救急車を呼ぼうか?」とセリグマンは問いかけるが、ジョーは救急車も警察も呼ばないで欲しいと答える。セリグマンは女性を自宅で介抱することにする。セリグマンに事情を説明するように促されたジョーは「理解する気があるのなら、なにもかも話してあげるわ」と言い、その数奇な人生について、静かに語り始める。

この映画の大部分は、幼少期から、現在に至るまでのジョーの回想録である。「ニンフォマニアック」という言葉は映画の中ではじめて知ったのだけど、女性に対して使う「色情狂」という意味である。そのため、物語の大半はジョーの性にまつわる話に終始する。異常性欲者の物語というと以前に「発禁小説を読む」というタイトルでブログにも書いたアポリネールの「愛欲から愛欲へ」を思い出す。あれは放蕩殿下がとにかくひっちゃかめっちゃかする、滑稽とも言える話だった。しかし、女性の異常性欲者の物語というものは、今までふれたことがないようにおもう。

ニンフォマニアックは、前篇ではジョーの性に彩られた半生について語られる。しかし、後編では、ジョーは色情狂にも関わらず感じることができなくなってしまう。そのため、後編では、暗いトーンの話が続く。この映画は合わせて四時間近くあるにもかかわらず、長さを感じさせない。構成によるところが大きいと思う。前篇と後編で全く違った印象を与えることに加えて、この映画は8つの章に分かれている。女性の性というテーマを中心に置きつつ、ドタバタコメディ調の話から、ミステリーやサスペンス物のように緊張感のある話まで。あるテーマに沿って書かれた短編小説集のように、短く面白い話が集まっているのである。聞き手となるセリグマンが、豊富な知識な基づいて時折はさむ小ネタが面白い。ジョーがKと呼ばれる男に縛られ、鞭で打たれた話をした際は、登山家が考案したロープの結び方についての説明をする。テーマ上、セックスシーンがとても多いが、多すぎて、もはやセックスシーンを観ても何も感じなくなってくるのもこの映画の特徴だ。

「ニンフォマニアック」は「愛欲から愛欲へ」とは違い、全体としてみると、悲壮なムードを漂わせた作品であったように思う。それは男性と女性という語られる性の違いもあったかもしれないが、やはり物語の中盤で、ジョーが性欲があるにも関わらず、感じる力を失ってしまうからだ。これは、想像はすこし難しいが、悲劇的なものを感じさせる。なにかがしたくてたまらないのに、うまく行うことができない、というのは、生きていく上で、とても苦しいことだと思う。ジョーの語る人生からは、ただ欲しいものを欲しいという思いから行動することは罪なのだろうか、という問いを投げかけられる。

〇パンフレット

さいきん映画のパンフレットを買うようにしているのですが、パンフに寄稿している映画評論家ってけっこう謎の多い職業だと思います。

転んだ話

2014-11-09 23:49:25 | レビュー
久しぶりに、転んでしまった。転んだ、というのは仕事で失敗をしたとか、そういう比喩のことではなく、文字通りに、足を滑らしてすっころんだのである。それは、山を下っているときのことだった。山を登ったり下りたりするのは、最近になってはじめたことで、どちらかというと登る時のことばかり考えていた。辛いのは登るだけで、登ってしまえば後は降りるだけ、下山は自分の中では完全に消化試合の一つであった。しかし、その下山中に転んでしまった。のぼりで、かなり体力が奪われていたのだと思う。降りる時には、足元が覚束なくなっていた。それなのに、スピードを出して、下っていたから、途中で足を滑らして、派手に転んでしまったのである。
とても痛かった、血も出たし、足もふらふらして力が入らなかった。しかし、気になったのは自分がどういう風に転んでいたのだろう、ということだ。当たり前のことであるが、自分で転んでいる姿を、自分で見ることはできない。上で「派手に」転んだと書いたが、それはあくまで感覚であって、想像でしかない。とても痛かったから、派手に転んだと思ったのだ。願望もある。どうせ痛い思いをするのなら、派手に転んだ方がいいに決まっている。例えば転んで、尻もちをついたりしてしまうのは個人的にはあまりしたくない転び方だ。そう考えていくと、転び方にも美学があるのではないかという気がしてくる。つまり、かっこいい転び方とカッコ悪い転び方があるのだと思う。例えばスキーをしている人の板が外れてしまい、10メートルくらい雪道を猛スピードで転がるのは、どちらかというとかっこいい。
どうせ転ぶなら、誰かに見ていて欲しいと思う。誰もいないところで人知れずにずっこけるのは、何か、悲劇を感じさせる。そして、転ぶなら、かっこよく転びたいと思う。しかし、意図せずにずっこけるのが転びであり、練習をすることはできないから、難しい。

SF小説を読む その4

2014-09-06 22:00:07 | レビュー
前回にSF小説のことをブログに書いたのは、2014年の6月22日のことだったので、あれから二カ月と二週間の時間が経った。相変わらずSF小説を読んでいる。読み終わったSF小説は以下の通り。

「ハイぺリオン(上)」ダン・シモンズ
「ハイぺリオン(下)」ダン・シモンズ
「ハイぺリオンの没落(上)」ダン・シモンズ
「ハイぺリオンの没落(下)」ダン・シモンズ
「虎よ、虎よ!」アルフレッド・ベスタ―
「夏への扉」ロバート・A・ハインライン
「トータル・リコール-ディック短編傑作選」フィリップ・K・ディック
「月は無慈悲な夜の女王」ロバート・A・ハインライン
「百億の昼と千億の夜」光瀬龍

本を読むのはあまり早い方ではないので、良いペースで読めていると思う。SF小説は、ハマると一気に読めてしまうタイプのストーリーが多い。本を読む主な時間帯は仕事が終わった後の眠りに入るまでの時間だ。仕事が終わった後はとても疲れ切っているのだけど、そういう状態にあっても、SF小説は読みやすいので助かる。苦手意識が、大分なくなってきたと思う。

短い間だが、SF小説を読み続けてきてよかったというか、感動をした瞬間があった。それはハイぺリオンの中に収められた「探偵の物語:ロング・グッバイ」という物語を読んだときだった。
ハイぺリオンは簡単にまとめると、7人の旅人が惑星ハイぺリオンの時間の墓標という遺跡を目指す物語だ。しかし、時間の墓標への旅の話は本書ではあまり語られることはない。7人の旅人(のうち6人)が旅中に語る、それぞれの数奇であり波乱に満ちた人生の話が本書の大部分を占める。
ハイぺリオンがとても面白かったところは、SF小説ならではの心をそそるギミックが6人の語る物語の中にそれぞれ含まれている点だった。人間を不死の存在にさせる十字架型の寄生虫、徐々に年齢が若返っていってしまう病気を抱えた女の話、バーチャル空間での戦争…。6人が語る物語は、それぞれに独立していて、別々のSF的なギミックが展開しているので、このたとえもどうかと思うが、音楽アルバムにおけるベストアルバムを聴いた時のような、“良いとこ取り”をしているような、得をした気分になるのである。あるいは、楽曲をサンプリングして一つの曲を作るヒップホップ的な要素が「ハイぺリオン」にはあると言えるかもしれない。そのギミックの組み合わせが安っぽいパクりではなくて、うまく物語を紡ぐために機能をしていて、作者のとてつもないセンスを感じるのだ。
その中で、「探偵の物語:ロング・グッバイ」を読んでいる時に感動をしたのは、ちょうどこの物語が、前回に読んだサイバーパンク小説「ニュー・ロマンサー」を下敷きにしていることに気付いたからである。「ニュー・ロマンサー」は電脳空間に没入(ジャック・イン)をして情報を掠め取る、カウボーイと称される職業の男を描いた物語だった。「探偵の物語」においても、テクノコアというA・Iの謎を探るため、電脳空間へ侵入をするBBという名の“カウボーイ”が登場するのだ。ニューロマンサーの登場人物たちは語尾に「…」がつく短いセリフを使って会話をしている場面が多い。BBも「待つ意味あるかい…」「やるの、やんないの…」という台詞を発していて、この辺りはニューロマンサーの登場人物を意識していると思う。また、BBの話の中で、その昔に「ギブスン」という伝説のカウボーイがいたという話が出てきて、思わずニヤりとしてしまう(ニューロマンサーの作者名はウィリアムギブスン)。
うまく言葉にできないのだけど、このハイぺリオンの物語とニューロマンサーとの繋がりを発見した時のように、別々の知識がふと繋がった瞬間というのは、とても興奮をする。ある人と話していて、全然関係ないと思っていたのに、共通の知人がいる事をふと知ってしまった時のように。あるいはヒップホップの曲を聴いていて、元ネタに使われている曲が分かってしまった時のように。頭の中の独立した知識が繋がる時に快楽物質が生まれるのか?こういう瞬間に巡り合ったときに、大げさじゃなくて生きていてよかったと思える。知識を積み上げるほど、知識が繋がる瞬間は増える。大人になるにつれて知識は増えるだろう。そう考えていくと、大人になることの楽しさってものは意外とこういう所にあるのかもしれないと思うのだった。

次に読もうと思っているSF小説はロバート・A・ハインラインの「異星の客」だ。これはヒッピー達の聖典として語り継がれている小説であるらしい。ヒッピーについてはあまり多くのことは知らないが、自然回帰的な思想を持った人種であるという印象を持っている。だから、なぜSF小説が彼らの聖典となるのかは今いちピンとこない。ヒッピーたちは伝統や既成概念からの脱却を望んだ結果、サイエンス&フィクションの世界に没入するのだろうか。それともSFの中でも「異星の客」だけは特別にヒッピーの心の琴線に触れたのだろうか。その辺を考えつつ、読み進めてゆきたい。