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俺は俺という字を書くことができない

2014-03-02 21:14:21 | 日記
 いま使っている日記帳はあと二日ほどでそのページを終える。この日記帳は2009年の1月22日から使っている。面倒なので、この日記帳のページ数は正確には数えたことはないが、たぶん、毎日書いて1年分に届くか届かないくらいだと思う。5年以上も使っていることを考えると、かなりペースは遅い方だと思う。日記を書く趣味は全くもってなかったのだけど、2009年の文房具店の初売りで福袋を買ったら、たまたま日記帳が入っていたので、手書きで日記をつけることにしたのである。
 大学で授業を受けていた時に、誰だったかはもう忘れてしまったが、ある教授が言ったことを思い出した。「…今はパソコンで文章を書く時代ですからね、みなさん中には恐らく手書きだと文章がうまく書けない人が、いると思いますよ」前後関係は覚えていないが、こんな言葉だった。そんな馬鹿な、とその時は思ったが、5年間手書きで日記をつけていて、確かに、手書きで文章を書くことに書きづらさを感じつづけていたと思う。
 恐らく、この現象が起きてしまうのは、手書きで文字を書く時に発生する障害にもたついている間に、頭でまとめていた考えが、ばらばらになってしまうことが理由であるような気がする。例えばキーボードだったら、スペースキーを押せばすぐに平仮名は漢字に変換がされるが、手書きだと自分が書こうと思っている字を正確に思い出せなくて、その度に調べたりをする。この前、日記を書いていて驚いてしまったのが、頻繁に目にする「俺」という漢字を自分は書けないことだった。「俺」という字をどう書くのか調べた後に、流石に「俺」が書けないのはちょっとなぁ、もう「俺」っていう一人称を使うのはやめた方がいいかなぁ、と考えているうちに、何を書こうとしていたのか忘れてしまった。こういうことは手書きで文字を書いていて往々にして起こる。
 逆にキーボードを打って文章を書くことに意識を集中させてみると、この書いている文章は本当に自分が考えていることなのだろうかという考えも浮かんでくる。考えるよりも先に指が動き、というよりも、指自身が単語のつながりを記憶していて、自分が考えてもいないことを勝手に文章にしているような気がするときがある。もし自分の指が誰かの指と入れ替わったら、全く違う文章になってしまうかもしれない。想像するとちょっとだけこわくなる。
 漢字をちゃんと書けるようになりたいし、文章も手書きでも書けた方がいいと思う。日記を読み返すと恥ずかしい気持ちでいっぱいになるが、けっこう字が巧くなってることに気付いたりもして、じ~んとした感動が沸いてくる。もうしばらく、続けようと思う。



2009/1/23の手書き文字



2014/3/2の手書き文字

ただもう一杯のあたたかいお茶が飲みたかった

2014-02-23 21:24:37 | 日記
 一生懸命になってなにかをやることは大事だと思う。仕事でも去年から始めた料理でも何でもいい。もちろん多くの物事は最初からはうまくはいかない。今でも仕事では毎日ミスをしているし、料理もいつまで経っても、野菜を大きく切りすぎてしまい、味がうまく染み込まない。けど失敗ばかりしていても一生懸命に続けていれば、前進をしているわけだから、どこかに向かっていっているという手ごたえが確かにある。手を抜くことは、それが楽だと知りつつもしたくはない。
 同じように一生懸命になにかをやっている人を見るのも好きである。人が何かに集中して頑張っている姿には煌めきが感じられる。私たちがスポーツに感動するのは選手たちが一生懸命になって、持てる力を振り絞っている姿に心が動かされるからだ。野球について語るほど詳しくないが、プロよりも技術に劣る高校生の甲子園野球に熱狂するのは、彼らが一生懸命にやっているからだと思う。例え負けたとしても感動を呼び起こす。一生懸命ということは時として結果よりも大切なのかもしれない。
 しかし、家の近所、伊勢佐木モールにある「北京楼」で夕飯を食べたあとは、その大切である一生懸命であるということが一体どういうことなのかと考えるようになった。伊勢佐木のモールの端でひっそりと営業している「北京楼」は大きくて目立つ「一生懸命営業中」という看板を掲げていた。おなかも空いていたことだし、ここで食べようと思い、中を覗くと、客は誰もいなくて、店員と思われるおばさんが客席に座っている。なんていうか、一生懸命さはあまり感じられない。私は一生懸命にやりたいんだ、だけど客が来ないのが悪いんだ、客が来ないから一生懸命やりたくてもやれないんじゃないか、というような開き直ったような超然とした表情で客席にただ座っている。店員のおばさんの一生懸命な姿を見たいと思って、中に入る事にした。
 お客さん、ご注文の前に、「一生懸命」と「一所懸命」の違いを知っていますか、「一生懸命」は元々は「一所懸命」が本来の言葉で、中世の武士が先祖から受け継いだ土地を命懸けで守ったことに由来していて、切羽詰まった状態にも使われていたんですね、それが近世以降は命懸けで何かをするという意味だけが残り、「一所」が「一生」に間違われ、今の「一生懸命」という言葉に変わっていったわけです、などという薀蓄を一生懸命に説明されることは決してなく、無言でメニューだけ渡され、若鶏のかき油炒め定食(800円)を頼む。料理は10分程度で運ばれてきたが、やはり何も説明はされない。
 店員のおばさんは、料理を作り終えると、再び客席に座り、こんどは一仕事おえて落ち着きたいのか、茶を飲み始める。別に自分は自分が飯を食っている時に、店員が茶を飲もうが何をしようと気にはならない。しかし、客である自分のお茶がとっくになくなっており、自分もそのことを口には出さずに、何度も湯呑を不必要に持ち上げたりして、お代わりアピールをしているのに、店員のおばさんは一向に動く気配はない。それどころか、店員の方が2杯目、3杯目のお茶を独りで飲んでいる。客が自分の他には誰もいない店内で、おばさんの「ぷはぁ~」という大きな溜息が響き渡った時に、一生懸命ということが一体どういうことなのか分からなくなってしまった。同時に一生懸命ということは人によってその程度が異なり、あまり一生懸命やっていることを公言しない方がいいのかもしれないとも思う。料理は結構うまかったので、変な期待はせずにまた機会があれば足を運びたい。

写真を撮る練習をする。

2014-02-09 21:02:35 | 日記
 三脚を購入したのは、去年の9月であった。当時、ミャンマーへの海外旅行を控えていて、夜にライトアップされる寺院の写真をきれいに撮りたいと思って、購入したのだった。結局、寺院の中では三脚を使う事が許されておらず、旅行中、三脚は重い荷物以外の何物でもなかった。ミャンマーのことはどうでもいい、とにかく今日はその三脚を4ヶ月くらいに引っ張り出して、写真を撮りに出かけたのである。
 記録的な大雪に見舞われ、晴れ間がさした今日の桜木町・赤レンガ倉庫周辺はいつにも増して、カップルで溢れかえっていたように思う。普段だったらあまり独りでは近づきたくないエリアであるが、やはり多くのカップルがデートコースにチョイスするだけあり、風景はロマンティックで美しく、この辺りで写真を撮りたかった。
 三脚を使うことにはあまり慣れておらず、セッティングしたり、またはしまったりするのにとても時間が、かかってしまう。三脚の脚を伸ばし、地面においても、脚にロックがかかっていなくて、うまく地面に固定できないことが多い。雪玉をお互いにぶつけ合ってはしゃぐ男と女、日が暮れゆく赤レンガ倉庫のオープンテラスでコーヒーを頼み、顔を見つめ合いながら深まる夜に期待を徐々に高めていくかのような男と女、または夜の海に淡いオレンジ色の光を照らす、今まさに出港せんとする大型客船の幻想的な光景を身を寄せ合い見守る男と女、そんなロマンティックな風景の中で、三脚の脚を伸ばしたり、しまったりすることがうまくいかず四苦八苦している自分に結構なみじめさを感じたりした時もあった。
 しかし、落ち着いて周りを見回してみると、自分のように独りで写真を撮りに来ている人もけっこういることに気付く。大抵がおっさんである。一眼レフカメラが装着された三脚を携え、せわしなく動き回り、写真を撮っている。カップルのように一つの風景を長いあいだ見つめたりはしない、そんなことをしている時間があるなら一枚でも多くの写真を撮りたい、という感じだ。三脚も、僕のようにもたついたりすることをせずに使う。
 僕は、気付いた時には三脚を持って動き回るおっさんを後ろからつけるように追うことに夢中になっていた。三脚をうまく使うおっさんは、きっと写真を撮るのもうまいはずである。おっさんの目が捉えている風景を、レンズが切り取る構図を、自分の目で確かめてみたいと思うようになったのである。おっさんが写真を撮ったあとに、自分も同じ場所に三脚をセッティングして、カメラのファインダーをのぞく。すると、もちろん使用レンズの焦点距離などで、また違った構図になるはずだが、なるほど、と思うことも多い。しかし、途中で再び、三脚を扱うのにまごついている間に、後ろをつけていたおっさんはどこかに消えてしまった。三脚を使う練習の必要性を感じたのと、写真がうまそうな人の後をつけるのは、写真撮影の効果的な練習になるかもしれないと発見したのだった。













Nikon D90
Tamron AF 17-50mm F2.8

健康をあきらめる

2014-01-26 21:43:23 | 日記
 自分が健康かどうかと聞かれれば、健康診断でも引っかかったことはないし、健康だと思ってきたが、最近はその自信がなくなってきている。唇の端が切れてなかなか治らないのである。大したことないのかもしれないが、唇の端が切れている状態というのは、けっこう日常生活に影響をおよぼす。口を大きくあけると、傷口が広がり、とても痛いのだ。口を大きくあけないように心がけ、傷口が塞がるのを期待するが、僕は一日に二回か三回は食事をするし、欠伸だって何回もする。そのたびに、傷口が広がるので、なかなか治らないのである。
 たぶん、部屋に加湿器などを置いていなくて、過度に乾燥しているのが原因だと思う。かといって加湿器を買うのもなぁ。加湿器を使っていたことはあるのだが、水を入れ替えたりするのが面倒で、引っ越しをする時に捨ててしまったのだ。インターネットで調べてみると、同じ症状に悩む人が質問掲示板で、どうすれば治るのか、という質問をしていたりして、回答をみると、やはり乾燥と、そしてビタミンBの不足が原因であるらしい。さっそく薬局に行き、ビタミンBを摂取できる錠剤と、唇に塗ることで乾燥を防ぐワセリンを購入した。
 しかし、薬局に行くことで、ますます自分が健康であるかどうか、不安になってきた。ビタミンBが含まれる錠剤を買う時に気付いたのだけど、他にも色々なビタミン剤が売っている。ビタミンAやビタミンC、名前は聞いたことがあるが、一体どんな性質の物質なのかは、例によって文系の自分は、全くもって知らない。ビタミンを凝縮した錠剤を売っているということは、そのビタミンが欠乏していて困っている人がいるということだろう。ちょうど、僕がビタミンBが不足していて、唇の端が切れてしまって、ビタミンBが含まれる錠剤を購入したように。ビタミンAやビタミンCが不足していると一体どんな影響が身体に出てしまうのだろうか。ビタミンBが不足していることがわかったいま、ビタミンAやビタミンCも、あやしい。健康について、知らないことが多すぎる。
 健康だと思っていた自分に疑いを持ちはじめた。健康について調べてみると、世界保健機関は“健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない”と定義している。「完全」「霊的」という言葉をみて、ますます自分の健康について自信がなくなってくる。だいたいビタミンAとかBとかCが不足している状態なら、ビタミン剤を飲めば健康になれそうだが、霊的に良好じゃない状態は一体どう対処すればいいのだろうか。唇の端が切れているのはぜひ治したいが、別に健康でなくてもいいじゃないか、という気持ちになってきている。

座って音楽を聴くのはむずかしい

2014-01-19 20:31:54 | 日記
〇座って音楽を聴くのはむずかしい

 昨日は久しぶりにライブを観た。柴田聡子と白波多カミンというシンガーソングライターの二人が出演するイベント、“みみごしのじかん”。黄金町にある試聴室というライブ会場でイベントは行われた。黄金町駅から大岡川を沿うように、日ノ出町方面へ歩いていく場所に黄金町試聴室はある。ライブ会場とは書いたが、通常のライブハウスとはすこし趣が異なる。というのも普段は喫茶店として運営をしており、無料で読める本も沢山おいてあったりする。利用したことはないが、音楽のレコードやCDなんかもたくさん置いてあって、試聴することもできるらしい。書いていて一体どんな場所なのかよく分からなくなってきたが、とにかく試聴室では喫茶店としての顔も持ちながらイベントスペースとして利用されることもあるのである。
 試聴室は喫茶店なので、ライブを専門で行うライブハウスよりも、かなり狭い。しかも、今回はアコギ一本で割とスローテンポの曲が多いアーティスト二人の出演であることを運営者が考慮をしたのか、会場には椅子が用意されていて、オールスタンディングならぬオールシッティング、座り見のライブだった。正確には数えなかったが、会場には30人ほどしかいなかったのではないだろうか。若い女性のアーティストということもあって、何も考えずに空いていた最前列の席に座ったのだが、これが後から考えると失敗だったように思う。
 今回のように少人数でオール・シッティングのライブを観るのは初めてのことだった。ライブは大体がそうだと思うが、今まで見てきたライブのほとんどが立ち見だった。立っているということは自分の体を動かせる範囲が広いということだ。観客は音楽の盛り上がりに合わせて、飛び跳ねたりも出来るし、とても激しい曲になれば、ステージ前に押し寄せることもできる。あまり動きが激しすぎるライブだと、またポジション取りをどうするか、などの問題がでてくるが、そのときはそのときで反射的に動くことが多いので、あまり悩むことはない。
 僕は今回のライブのあいだ、座ってライブを観ることの難しさに直面していた。座っていて身体の自由が少ない上に、少人数の観客しかいないので、異様に人の目が気になってしまうのである。大学の授業にちょっと似ているな、なんて考えたりもしていた。大学の講義も何百人も受講していたりするものだと、居眠りをしたり、携帯をいじったり、果てには飯を食ったりすることも出来る。しかし、少人数のクラスだと人の目が気になって、集中、もしくは集中している態度を見せなければならない。
 今回のライブも少人数のクラスの授業を受けているのと似たような状況だったのだと思う。ライブを見ているときは合間合間に携帯をいじったりもしていて、けっこう集中していないことが、自分は多い。しかし、目の前でアーティストが演奏しているので、携帯をいじったり持参したペットボトルのお茶を飲んだりすると失礼に見られるかもな、なんてことを考えてしまい、行動をすることが出来ない。これが立ち見なら飛び跳ねたりすることもできるが、座り見なのでそれもできない。周りを見回してみる。隣の人は微動だにせず音楽を聴いている。一列後方に座っている人は、スローテンポの曲なのに、パンクアーティストのライブか、と突っ込みを入れたくなるほどのモーションで首を振っている。僕は落ち着きがないので、微動だにしない、ということができないし、かといって周りの目も結構きになるタイプなので、スローテンポの曲の多いライブでヘッドバンキングをすることもできない。結局、音楽のリズムに合わせて、右手で太ももの辺りを叩くというなんとも中途半端な動作を繰り返していた。いま思い出したように部屋の中で、太もものあたりを一定のリズムで叩いてみる。ずっとこれを繰り返しているのも、けっこう馬鹿みたいに見えそうだな、と思う。座ってライブをみるのは難しい。

〇白波多カミンのこの曲がよかったです。

「ランドセルカバー」