goo blog サービス終了のお知らせ 

ブログ

ブログ

酒と、居酒屋と、どちらを好むのか

2014-10-13 21:05:19 | 日記
 先日に友人と渋谷にある立ち飲み居酒屋「富士屋本店」で飲んでいて、自分たちは、いったい酒が好きなのか、それとも居酒屋が好きなのか、という話が持ち上がった。この質問は答えるのが難しい。なぜなら、居酒屋とコーヒーショップのどちらが好きなのかと聞かれているわけではないし、ビールとワインのどちらが好きなのかと聞かれているわけでもないからだ。前者の質問なら、コーヒーよりも酒が好きならば、居酒屋と答えるだろうし、後者の質問なら単に好きな方を答えるだけで事が足りる。この居酒屋と酒のどっちが好きなのか、という話題を出したのは自分ではないので、すこし自分がどっちの方が好きなのか、考え込んでしまった。
 直感的には自分は居酒屋の方が好きだと思った。自分は居酒屋に一人で入ることはあるが、それは酒を飲みたいから、というよりも、居酒屋という場所に行きたいから、という想いの方が強いからだ。酒を飲みたいだけなら、自宅で一人で酒を買ってきて飲めばいい。しかし、自分は家で酒を飲むことはあまりしない。酒を飲みたい時は一人だろうと居酒屋に行く方を選ぶ。ただ、この居酒屋の方が好きな理由には酒を飲むという行為が入ってしまっているので、正当な理由になるとはいえない。なぜなら、自分は本当は酒を飲みたいから居酒屋に行っているかもしれないからだ。
 自分が本当に居酒屋と酒のどちらが好きなのかを比較するには、条件を揃える必要がある。つまり、酒を飲まないけれど、居酒屋でボン尻やら冷奴を食べる方と、家で酒だけ飲むのか、どっちを自分は取るのだろうか、という問題になってくるような気がする。友人がいてもいい。友人と酒を飲まずに居酒屋に行くのか、それとも酒だけをどこかで飲むのか。
 わけのわからない話になってきている。そもそも、居酒屋で酒を飲まないときに、そこを居酒屋と呼ぶことができるのだろうか。確かにその店の中には居座ってはいるが、酒を飲んでいないので、彼あるいは彼女にとってそこは居酒屋であるということができないのかもしれない。しかし、もしかしたら、人生のどこかで酒を飲まずに居酒屋に行く方と、どこかで酒だけを飲む方のどちらかを選ばなければいけない場面が来るかもしれない。その時、論理的に自分はどちらを選べばいいか、いくら考えても答えが出てこないが、やはり居酒屋に行く方を選ぶはずだと思う。なぜなら自分は酒よりも居酒屋の方が好きだからである。

しばしば泥酔をして終電に乗ってしまうことについて

2014-09-21 23:01:53 | 日記
久しぶりに呆然としてしまう瞬間に立ち会ってしまった。それは、昨日、東急東横線の横浜方面への終電に乗っていた時のことである。その日は2件居酒屋をはしごして、夜も遅くなってしまった為、一緒に飲んでいた大学時代の友人の三人は、僕の家に泊まることになっていた。
大体において土曜日の終電なんていうものは、酔っぱらいが多い。東急東横線は酔っ払いの人の数が少なそうな路線だと勝手に思っているが、それでも酔っ払いは嫌でも目に付く。僕らも泥酔はしていないまでも、けっこう飲んでいていたので、でかい声で話しまくる酔っ払いだったが、周りにも同じようにでかい声で話す集団がいくらかいたので、あまり浮いているということはなかった。
でかい声で話すのはいい。確かに迷惑だとは思うが、土曜の夜くらい酔っ払って、でかい声で話したっていいじゃないか、とも思う。問題なのは泥酔している人だ。泥酔している人は電車の中でぶっ倒れてしまったり、ゲロを吐いてしまったりする。恥ずかしながら僕も何度か経験がある。途中下車をして、トイレで一回すっきりしてから、次の電車に乗ることができたらいいと思う。だけど、終電となるとそうもいかないのが実情だ。泥酔してしまった人はぶっ倒れ、時にはゲロを吐きながらも、家に帰るためには電車に乗り続けないとならない。それは辛いことだ。泥酔をしても終電の何個か前の電車に乗って帰ればいいし、終電で帰るなら泥酔はしないべきだ。そうは思うが、しばしば泥酔した状態で終電に乗ってしまう。
僕の隣に立っていた男性も、そんな泥酔をしながら終電に乗っている男だった。完全に、目がイッていた。目は開いているが、焦点が合わず恐らく何も見えていない、そういう感じだ。気付いた時にその男性は既に吐いていた。といっても、うまく耐えたのか、それはごく僅かな量で、乗客の中で隣に立っていた僕しかその事実に気が付いていないようだった。しかし、あと数分の後に、新しい波がやってきて、胃の中のものを洗いざらいぶちまけるような激しい嘔吐が始まることは、彼の状態を見ると明らかだった。
電車の中で、吐いてしまった人を見た事は何度かあるが、普通、それは電車の隅の方で、あまり迷惑がかからないように、下向きに行われる。近くにいる人は確かに靴やズボンに飛び散ったりして、被害をこうむることもあるが、まぁ運が悪かったと諦めるか、そんな気持ちを抱くことで納得できることが多いのではないか。
とはいっても汚れるのは嫌なので、そろそろ避難をした方がいいかな、なんてことを考えていた。ちょうど元住吉と日吉の間くらいだった。僕はその時は友人と喋っていたのだけど、その時にもの凄い音が隣から聞こえた。ブブッ…ブーーー。泥酔者は列車のドア付近の手すりにもたれるように立っていたのだが、列車中央の上空に向かって、吹きかけるように吐いてしまったのだ。吐いたというより、噴射した、そういう表現の方が当てはまると思うほどに。そんな吐き方をする奴をそれまでに見た事はなかった。少なく見積もって4,5人は被害を被っていた。中央に立っていた、身長180cmくらいはあるかと思われる長身の男が頭から被ってしまっていた。それくらい高いところから吹き付けられたのだ。幸いにして真横にいた僕は被害を受けなかった。
普通だったら誰かが、電車の中で吐いてしまったら周りにいる人は、さっと遠いところへ離れてしまう。しかし、この時は乗客全員が呆然としてしまっていた。泥酔者は相変わらず、泥酔をして意識を失っていた。「すみません、ちょっと飲みすぎちゃって」とか、そういう弁解の言葉もなにもない。それがよかったのかもしれない。あまりにも見事に泥酔をしているので、彼に怒鳴りつけたりするものは誰もいなく、乗客はただただ彼の泥酔ぶりに呆然としていた。
しかし、ゲロを人に噴射しておいて、「ちょっと飲みすぎちゃって」なんて弁解をしても、確かに人はちょっと飲みすぎちゃうことが往々にしてあるが、怒りを逆なでしてしまうことになると思う。弁解を全くしないことが有利に働くことがあるのかもしれない。ノーコメントだ。それでは、先に弁解をしていたらどうだっただろうか。「すみません、ちょっと飲みすぎちゃって、みなさん離れてください、ブブッ…ブ――…」確かに先に言っておけば、周りの人は予め逃げられる。だが、これはこれでとても情けないような気もする。しかも「すみません、ちょっと」の辺りで出てきてしまっていたら最高にカッコ悪い。カッコ良いとかカッコ悪いとかそういう問題ではない気もするが、何も弁解しないのが、少なくともこの中ではベターであると思う。

学校が教えてくれなかったこと

2014-07-29 21:51:32 | 日記
〇 海に行ってきました。

先週末の土曜日から1泊2日の旅程で、大学時代の友人たちと千葉の海に行ってきた。
単純に海へ行ったと書いてしまったが、それは海水浴をしたのか、それとも船に乗って海にいたのか、スキューバダイビングをしていたのか、いろいろなことが想定されてしまい、いったい何をしたのかが曖昧だ。実際には海には入らなかった。

もともと海の方に向けて適当に車を走らせよう、ということで集まったのだけど、メンバーの一人が、漠然と海に行くといってもどこに行けばいいのか分からないと思ったのか、海か浜か湾か岬のどこかに行こうという話を持ち出した。結局は集まってからの話し合いの結果、新しく提案されたリアス式海岸のある勝浦に行くことになった。だから、海に行ったということを正確に書くと、リアス式海岸を見に行ったということになる。
車を運転しながら、気付いたことは、自分が海にまつわる地形について、ほとんどなにも知らないということだった。海のない埼玉県で育ったから、というと少しは言い訳になるかもしれないが、自分にとって、浜も湾も岬も渚も入り江も浦も、海という大きな括りでしか捉えたことがなかったのだ。そして、次第に、恥ずかしい気持ちでいっぱいになってしまっていた。それはちょうど音楽において、様々なジャンルがあるにも関わらず、音楽という括りでしか音楽を捉えていない事と同じことではないのだろうか。クラシック、ヒップホップ、ロック、パンク、メタル、プログレ、ソウル、ファンク、すべてが音楽でしかない。車の中で誰かとラジオで音楽を聴いていて、これは誰の曲だろうという話になった時に、アーティスト名は分からなくても、ジャンルくらいは言い当てられたりもして、そこから話が広がることもある。しかし、ジャンルを広い括りである音楽でしか捉えていない人は、「分からないけど、とりあえずこれは音楽なんじゃないか」という発言しか生まれてこない。それは確かにその通りで決して間違ってはいないが、こんな発言をする奴はかなりのバカ者だ。しかし、海の地形を海でしか捉えてなかった自分は、ちょうどそれに近いバカ者なんじゃないかと思って、恥ずかしくなってしまったのだ。

海の地形について、こんなにも知らないのは、教育のせいでもあると思う。記憶が正しければリアス式海岸くらいしか、地形については習わなかった気がする。しかし、教育のせいにしていろんなことを知らないままでいるのも怖いような気がするので、ネットで海にまつわる地形の意味を調べて、図を描いてみる。

湾…海や湖の一部で、陸に入り込んだ地域



岬…丘・山などの先端部が平地・海・湖などへ突き出した地形



渚…海の砂浜から波打ち際に至るまでの、広い砂地のこと



入り江…海や湖の一部が陸側にえぐるように入り込んで出来た地形



リアス式海岸…せまい湾が複雑に入り込んだ沈水海岸



図を描いてみて、すこし理解が深まった気がするが、まだまだ分からないことはある。例えば砂浜から波打ち際に至るまでの広い砂地のことを渚と言うらしいが、どうもトートロジー的な意味の分からなさが、この説明にはある。砂浜と波打ち際に至る砂地(渚)の違いは一体どこにあるのか、これは図に書いてもさっぱり分からなかった。逆に、図で表したことで、とてもよくわかったことが、リアス式海岸の中には湾も含まれていることだ。沈水海岸が一体なんのことなのかはまた勉強が必要だが、とにかく、この中で、他の地形を含んでいるのは、リアス式海岸だけだ。なぜ、学校があげた例の中でリアス式海岸の地形だけを教えたのか、その理由が分かった気がしたのだった。

山に登った話

2014-07-21 22:37:39 | 日記
〇 金時山に行ってきました。

もう先週の話になるのだけど、会社の先輩とその友人の方々と一緒に、金時山をのぼってきた。山にはほとんど登ったことがなくて、覚えているかぎりでは、高尾山にしか登ったことがなかった。調べたところによると、高尾山は標高が599mで、金時山は1212m、初心者の僕からすると、標高が山を登ることに対する厳しさの一つの基準になる。高尾山に登った時は、普段着のような恰好で臨んだのだけど、金時山は高尾山の2倍の高さがあるので、登山靴を買ったり、レインウェアを買ったりと、服装の準備をおこなった。
登山靴は、足首をすっぽりと覆うゴアテックスの防水仕様。登山靴というものを初めて履いたのだけど、履いて、歩いてみた実感として、確かに必要なものなのだと思った。登山道は岩場が露出している箇所も多く、足が変な方向に折れ曲がってしまいそうになることがある。そんなときに足首まで覆う靴を履いていると、足と足首を連結させる骨が固定され、捻挫などの負傷を防いでくれるのだろうか。また地面は舗装されていないので、泥地のようになっている場所も多いが、そんな時に、防水仕様の靴を履いていると、水が靴の内部に侵入をする、あの、不快感から守ってくれる。
道中に雨も降ったがレインウェアが濡れるのを防いでくれる。雨がレインウェアにあたって、ぱちぱちと音を立てているのが、すこし気持ちいい。そして準備を行って、その準備が思うように行っているのをひとつひとつ確認するのは、自然に対して優越感に浸っているのかのような気がして、すこしだけ自分が強くなったような錯覚を感じる。
道中のことは、あまり覚えていない。折れ曲がった樹木に群生する苔がとてもきれいだったとか、崩れかかりそうな階段が設置されていたとか、頂上付近で下界への眺望が開ける場所があって、気持ちは頂上に向かって焦っていたのに、思わず足を止めてしまって眺めていたこととか、細部のシーンは思い出せる。しかし、それらの多くの心に残っているシーンの前後関係は、はっきりとしない。きっと、1歩1歩と歩くことに集中をしていた為だろうと思う。登山道は思っていたよりも険しく、1歩を踏み出すことにとてもエネルギーを費やしてしまうし、1歩の時間が長く感じられた。永遠に感じるかのような1歩、永遠という概念には時間の前後関係は存在しない。書いていてよくわからないが、大げさなたとえだとは思う。だけど、何かに集中しているほど、時間の前後関係というものは、曖昧なものになっていくのかもしれないということを考えるようになった。
そんな一場面ごとにしか思い出せない登山の中で、頂上の風景は一際すばらしかった。金時山の頂上は、晴れた日には富士山を眺めることができるらしい。しかし、僕が頂上についたときは、雲とも霧ともつかない水蒸気が視界を遮っていて、崖に立って目を凝らしてみるが、何も見ることはできなかった。強風が下から吹き上げ、凄いスピードで水蒸気が動いている。身体も、じっとりと濡れる。もしかして雲の中はこんな感じの風景なのだろうか?しばらく呆然としていると、風は水蒸気を振り払ってしまい、眼下に、急に視界が開けてくる。なにかを開眼したかのような、昂ぶった気持ちに満たされる。富士山は結局みえなかったけど、心に残る体験をすることができてよかったと思う。

〇 写真

夕日の滝。名前の通り、夕方になると夕日が差し込むらしい。



登山道。おそらく中間くらいの地点。けっこう岩場が多く、歩くのが大変。



頂上。山小屋もあってくつろげる。


ワールドカップ、ブラジル対チリを観る。

2014-06-29 23:19:06 | 日記
〇サッカー、ブラジル対チリを観ました。

6/29の25:00より開始された、ワールドカップ決勝トーナメント第1戦目、ブラジル対チリを観る。恥ずかしいことに、今回のワールドカップの試合をライブで観るのは、今回が初めてだった。興味がないわけではない。昔にサッカーをやっていたこともあり、サッカーの試合を観ることは嫌いではない。ただ、僕はテレビを持っていないので、家でワールドカップの試合を観ることが出来なかったのである。だから、テレビを持っている友達の家に行って、試合を観戦することにした。
特別にこの試合が観たかったというわけではなくて、試合が始まる前にその友達と一緒に飲んでいて、半ば成り行きのように、試合を観る事になったのだ。そういう流れで観たワールドカップの試合、ブラジル対チリの試合は、とても興奮をする内容だった。序盤から攻勢をかけ1点をもぎ取る、ブラジル。このままブラジルが勢いづくのではないかと思っていた矢先にすぐに1点を取り返すチリ。試合展開がめまぐるしく早く、画面から目が離せない。1点を取ってからチリが主導権を握る試合展開が続いていた。ブラジルのフッキによる幻のスーパーゴール、チリ、ピニージャのポストにはじかれた終了間際のシュート、スコアは1-1のまま続いていったが、最初から最後まで、見どころ満載のゲームだったように思う。試合は結局は、PK戦の末にブラジルが制す。チリはゴールバーに泣いた、本当にすこしでも運命が変わっていれば、チリが勝っていてもおかしくなかった、実力が拮抗したゲームだった。実力が拮抗した真剣勝負は観ていて面白い。

試合内容も去ることながら、途中に妙に耳に残ってしまって頭から離れない解説者の言葉があった。記憶が正しければ前半の15分が経過するかしないかという時間帯の解説だっただろうか。中盤でブラジルのパスワークをカットしたチリが一転して攻めに出る。チリの前線を務める選手は、もの凄いスピードでブラジルサイドのゴールに向かって走る。解説が放った言葉は「さぁチリ、ボールを奪った、ここから人が湧いてくるのがチリです!」だった。
言うまでもなくサッカーは11人でやるスポーツなので、ピッチの中に11人を超える人数の人が湧いてくるということはない。もちろん一転してブラジルサイドに流れ込むチリの選手の運動量に驚嘆した解説者の素朴な感想であり比喩表現だ。分かってはいるが、「人が湧いてくる」という表現は妙に頭について離れない。
「湧く」という言葉には「温泉が湧く」「石油が湧く」という慣用表現の持つ、気付いたら幸運が降りかかってきたようなバブリーな響きがある。また「虫が湧く」という言葉に意味されるような、おぞましく、どうしていいのか分からないような状況も想起される。一言で言ってしまえば「湧く」という言葉はかなり収拾のつかない状況を表している印象があるのである。何かが湧いてきたとき、僕たちはまず思考が停止してしまい、「あー。。なんか湧いてるよ」という言葉が出てくる。「人が湧いてくるのがチリです」という解説には収拾がつかないひっちゃかめっちゃかな状況を僕たちに想像させるのだ。夜に、部屋で机に向かっていると、ドアの開いた音なんて全く聞こえないのに、後ろに誰かが立っている気配がする。振り返ると、褐色の肌をした、掘りが深く陽気な顔をした男が笑いながら立っている。彼は、どこからか知らずのうちに湧いてきたチリ人なのである。いつからそこにいたのか、なんで部屋の中にいるのか、そんな疑問をよそにどこからか湧いてきたチリ人はこう言い放つ。「人ガ湧イテクルノガ、チリデース!」。そんなことを唐突に言われても参ってしまう。呆然とするしかない。人が急に湧いて来られた時の対処の仕方を、僕はまだ知らないのだ。そんなチリに勝利をしたブラジルはやはり凄いと思ったのだった。