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火のだるま

2015-03-01 17:07:19 | 日記
昨日、僕は渋谷に向かうために横浜駅から東急東横線の特急電車に乗っていた。
その家族が乗り合わせてきたのは菊名駅からだった。4人家族だった。10歳前後の娘と息子と、母親と父親の4人家族だった。車内には座れずに立っている人がまばらにいたが、僕はたまたま座ることができた。そして、電車で座れたときに大抵そうしているように、本を読んでいた。先輩に薦めてもらった、ユン・チアンのワイルド・スワンの中巻だ。第二次世界大戦後、中国の共産党が覇権を握り、中華人民共和国の成立後に誕生した著者が体験した激動の時代をかいた本だ。その時は、ちょうど文化大革命が始まる前の頃で、ユン・チアンの幼少期の頃のエピソードを読んでいた。けっこうシリアスな話だ。本を読んでいるときは、大抵の耳にはいる会話が意味のない雑音として処理されるのだけど、ときおり、会話の内容が頭に入ってきて、集中できなくなることがある。その時もそうだった。家族4人の会話の内容がどうしても耳に入ってきてしまう。

菊名でまた人が何人か降りたので、僕の隣の席があき、娘がそこに座っていた。父親と母親と息子は僕を取り囲むような形で立っていた。夕方の時刻だったし、父親と息子はキャスター付きの小型スーツケースを持っていたので、何かの行楽帰りだったのかもしれない。母親がハーゲンダッツの話をし始めた。

母 ハーゲンダッツはね、アメリカが発祥なんだけど、私は、絶対に日本のハーゲンダッツの方がおいしいと思うわ

父 そういえば俺の父親もそんなこと、言ってたよ。ハーゲンダッツは日本製の方が乳脂肪分が多くてさ、味が濃くてうまいんだよ。ハーゲンダッツは日本の方がうまいよ

中国の共産党は1958年頃に鉄鋼の生産を一年で2倍にするというスローガンを掲げていた。ユン・チアン含む児童も学校の行き帰りに鉄くず拾いをするようになり、学校の調理室にこしらえたかまどに鉄くずを放り、鉄を生産する業務に従事させられることになった。1億人近い、食糧生産を支える農民までも、次々と鉄の生産に駆り出され、やがて中国は大飢饉を迎えることになった。ハーゲンダッツはしばらく食べてなかったな、たぶん大飢饉のときには食べられないんだろうな。仮にあったとしても、ハーゲンダッツなんか食べてたら「ブルジョワ的」だと批判されるだろうな。菊名から乗り合わせた少女はハーゲンダッツの話をする。

娘 あたしさぁ、いちどだけでいいからやってみたいって思ってることあんの、温泉あるでしょ、温泉につかりながらね、ハーゲンダッツ一緒に食べんの。でさ、それでさ、温泉の窓からは、富士山がみえて、それで一緒に星もみるの。流れ星だったら最高だなぁ、一回やってみたいなぁ。

母 あんたねぇ、温泉はいってハーゲンダッツ食べるのは百歩譲っていいとして、富士山と星を一緒にみるのは絶対に無理。富士山は昼はみえるけど、夜はみえない、だって富士山はライトアップされないからね、逆に星は夜にしか見えな
いでしょ。だから一緒にみるっていうのはできないのよ。

父 温泉に入るだけでも結構な贅沢なのに、その上ハーゲンダッツまで食べるなんて、「ブルジョワ的」過ぎるよ、僕は反対だな。

電車は武蔵小杉に止まった。武蔵小杉には高層マンションがここ数年で乱立するようになった。

息子 すげー、高層マンション、多すぎじゃない?

母 高層マンションって私、怖いわ。だって、地震が起きたときのことを考えてみて、エレベーター止まっちゃうのよ。30階に住んでるとして、30階から1階に降りるときに、階段を使わないといけないのよ。考えただけでぞっとするわ。

息子 ねぇ、僕いいこと考えたよ。階段じゃなくて、滑り台にすればいいんだよ。エレベーターが止まっちゃった時は、滑り台で一気に下まで降りんの。それだったら楽ちんじゃない?

母 でもそれだと登るのが大変じゃない!階段を滑り台にしたらどうやって30階まで登るのよ、エレベーターも止まってるのよ。

父 それにさ、30階から一気に滑り台で下まで降りたら、おしりが熱くなって、火がついて、みんな火だるまになっちゃうかもしれないだろ?

娘 でもそれってちょっと流れ星みたいじゃない?大地震が起こってさ、武蔵小杉の高層マンションに住んでる人たちは、エレベーターが止まっちゃって、滑り台で一気に下まで降りてんの、それでみんなおしりに火がついて、スピードもどんどんあがって、ビルの壁を突き抜けて、そのまま、火だるまになりがら、空に向かって飛んでっちゃう。あたしはその光景を温泉の中から見ているの、もちろんハーゲンダッツを食べながらね、あぁ流れ星はみれたけど、富士山はやっぱり見えないんだなぁ、あとちょっとで夢が叶ったのに、なんて思いながらね。

この家族はいつもこんな話を続けているのだろうか。家族は自由が丘で降りていったが、どうしても本を読む気になれなかったので、ページを閉じたまま渋谷までいくことにした。

DVDプレイヤーを買った。映画を観た。

2015-02-15 22:13:49 | 日記


土曜日の朝に起きて、DVDプレイヤーを買おうと思った。映画を観はじめて、過去の映画もたくさん観たいと思うようになったからだ。理由を書いてみて、DVDプレイヤーをDVDを再生する目的以外で買う人がいるのかどうかという疑問も浮かぶ。DVDプレイヤーマニア。そいつはDVDプレイヤーを何台も持っていてこんなことを言う。「俺さ、休日はDVDプレイヤーのディスクトレイの開け閉めするのに忙しいんだよ、5台くらいDVDプレイヤー並べてさ、途切れないように開け閉めしなきゃいけないから、もう集中しちゃってそれだけで一日が終わっちゃうの」。あるいは、ジブリアニメの話をしている時に急に、「宮崎駿のアニメは初期の頃の作品はTOSHIBAのDVDプレイヤーで観るといいけど、後期はソニーのやつで観た方が良いっていうか、そういう感じあるよね、え、あの感じ、分からないかなぁ」とか分けの分からないことを言ったりする。自分はDVDプレイヤ-マニアではないし、映画を観ることができればそれでいい。結局はLG製のDVDプレイヤーを買って、ツタヤに行った。

DVDプレイヤーを買えば、好きな時に観たいと思う映画を観ることができると思っていた。しかし、実際にツタヤに行ってみると、観たいと思う映画が他の誰かに借りられていた。でも、せっかくDVDプレイヤーを買ったのだから、何も借りないわけにはいかない。店の中をうろうろとしていて、借りる作品を決めた。
アラン・コルノ―監督「インド夜想曲」。アントニオ・タブッキの同名小説が原作だ。読んだのは確か、大学生の頃だったと思う。映画化されているのは知っていたけれど、ほとんど映像で観ることは諦めていた。
「インド夜想曲」はタブッキの代表作の一つで、1984年に上梓され、1989年に映画化された。不思議な話だった。主人公が失踪した友人を探すため、インドを旅する話。友人と恋仲だった娼婦、友人と文通をしていた協会の職員、友人と縁のある人物を、辿ってボンベイをマドラスをゴアを旅をする話。不思議なのはその友人というものの実態がまったく見えてこない、ということ。筋だけ追えばミステリーなのだけど、話が全く進まない。でも、退屈を感じることはなくて、旅の途中で出会う人たちとの会話が象徴的で美しい。ストーリーを追うだけで面白い作品もある一方で、ストーリーとは関係なしに面白い作品もある。インド夜想曲もそういう話だ。物語は納得のいく回収はされない。失踪した友人はついに登場しない。それでもインドの美しい風景であったり、名も知らぬ登場人物との会話が余韻として残る。観たい映画が借りられていなかったら恐らく観なかった。DVDプレイヤーを買ってよかったと思う。

銭湯通いで見える景色

2015-02-07 20:34:23 | 日記
ここ2週間くらい、銭湯通いの生活をしている。別に銭湯が好きなわけではない。自宅の浴室から、お湯が全くでなくなってしまったので、季節のことを考えると、現実的に、自室で風呂に入る、ということが不可能になってしまったのである。

お湯が出なくなって風呂に入ることができなくなったいま、だいたい三日に二回くらいのペースで、銭湯に通っている。銭湯に行ったことはもちろんあるが、日常的に通うようになったことは、はじめてだ。通い始めのころはどの番号のロッカーを使おうとか、悩んでうろうろしてしまったりもしていたけど、最近は大分慣れてきた。自分の銭湯内における行動の手順が固まってきて、入浴を終えるまでの時間が短縮されてきているのを実感している。人前で裸を晒すことも恥ずかしくなくなってきた。とはいえ自分はまだまだ銭湯に一時的に通っているにしかすぎなくて、何年も通っている人からするとひよっこであることには間違いはない。星野博美というエッセイストが書いた「銭湯の女神」という本を持っている。いま読み返してみると、自分がひよっこであることがよくわかる。星野博美は、自分のように給湯器が壊れてお湯がでなくなったわけではなく、そもそも浴室のついていない部屋で暮らしていた。そのため、銭湯通いをしていて、その時の体験が「銭湯の女神」では綴られている。読んでいて感動してしまったのは、「銭湯通いをしている人が温泉に行くと居心地が悪い思いをする」というようなエピソードだ。温泉と銭湯というものは似ているようで異なるものだ。温泉は観光などでおとずれる、非日常的な場所であるのに対して、銭湯は星野にとって日常的に通う場所だ。銭湯に日常的に通う星野は、非日常的空間であるはずの温泉に、日常的な感覚を持って、知り合いと一緒に足を運んでしまう。そこで味わったのは居心地の悪さだった。公衆浴場に慣れていない人たちはもたもたしているのに対して、星野だけやけに手際が良い。風呂用具の一式を知り合いは何も持ってきていなかったが、星野は完璧に取り揃えている。人前で裸を晒すのにも慣れているから局部も隠さない。そこで、温泉内での自分は、一挙手一投足のすべてが、銭湯通いをしていることをいいふらしているようなものだ、と居心地の悪い思いをしてしまう。

自分は、銭湯通いをしていることはしているが、今の段階では温泉に入ってキマリが悪い思いをすることは決してないだろう。逆に銭湯に通いはじめている段階だからこそ、否応なしに見えてくる景色、周りとの違いというものがある。自分は銭湯へはコンビニのビニール袋にシャンプーとボディシャンプーを入れていく中途半端な存在だ。慣れている人は専用の籠を持っている。他の人が持っている籠だって別にかっこいいわけではない。シャンプーとボディソープを入れるとめちゃくちゃかっこいい容れ物、なんてものは、世の中に存在しないと思う。ただ、籠に入れるのが主流なのに対して、自分は籠を持っていないから、コンビニのビニール袋に入れている。その点において、周りの中で浮いている気がして、キマリの悪い思いをすることがある。キマリが悪いといえば、つい最近のことだが銭湯で使う座椅子に座ろうと思ったらずっこけてしまったことがある。人前で裸を晒すことは恥ずかしくないが、裸でずっこけるのはさすがにちょっと恥ずかしい。あまりにも恥ずかしくて、誰かに、大丈夫ですか、よく滑るからねぇ!とか声をかけてもらいたかったのだけど、誰にも声をかけてもらえなくて、なんていうのか、けっこう自分にとっては一大事件だったのに、なかったことにされているようで、あのときはキマリの悪い思いをした。しかし、全裸の男が近くに詰め寄ってきて、大丈夫ですか、なんて声をかけてきたら、それはそれで嫌だし、その場面を想像すると笑っちゃうよなぁ、とも思う。

ブイヨンキューブはなかなか溶けない

2015-01-12 00:02:54 | 日記
いつだったか、一人暮らしをはじめるという知り合いがいて、インターネットで一人暮らしのノウハウに関してやりとりをしていた。その中に料理の話題も出た。一人暮らしをしていると、食材を買って使っても余ってしまうから毎日おなじものを食べることになってしまうんじゃないか、という不安をぶつけてきた。俺は、毎日おなじものを食べればいいんじゃない?という返事をした。

料理が得意な人だったら、同じ食材をいろいろと使いまわして、毎日ちがうものを食べることも可能だろう。とっさに思いつくところだと、玉ねぎと鶏肉を買ってきて親子丼を作る。次の日には余った玉ねぎと鶏肉に、ニンジンを買ってきてチキンカレーにする、という具合に。でも、自分にはそうやって余った食材をやりくりして毎日ちがうものを作るということが、どうしても、まだできない。理由は同じ物を作り続けた方が楽だからだ。
先週の話をすると、先週はパスタばかり作って食べていた。近所のスーパーでウインナーが1kg460円という破格の値段で売られていて、それを1週間かけて食べ続けた。毎日、具材はウインナーとほうれん草だ。
でも、もし俺が、俺の子供で、例えば年齢は中学生で、毎日毎日、ウインナーとほうれん草のパスタばっかり食べさせられていたら、きっと切れちゃう。部活の大会で良い成績を残した日も、学校のテストで良い成績を取った日も、毎日毎日、夕飯はウインナーとほうれん草のパスタなの。俺は流石に申し訳ないと思ったのか、今日は良い成績を取ったから、ブイヨンキューブをいつもは1個のところを2個いれたんだ、なんて馬鹿な台詞を吐き出しながらパスタを出すの。でも、ブイヨンキューブを2個入れたのはいいんだけど、トマトソースを充分煮込んでなかったから、ブイヨンキューブはちゃんと溶けていなくて、砂をかんだときのような不快な音を立てて、中学生の俺は塊を噛んじゃう。たぶんそこだ。そこで、中学生の俺は何かが切れてしまう。口の中に残った、溶けかけのブイヨンキューブの塊をペッと、床に吐きつけながら、なんでいつもいつも同じ物なんだよ、俺、もうパスタは飽きちゃったよ、カレーライスが食べたいんだよお、なんて叫ぶ。もしかしたら怒るだけじゃなくて、泣いちゃうかもしれない。俺は、床に吐き捨てられたブイヨンキューブだった塊を拾いながら、だって、近所のスーパーでウインナーが1kg460円で売られているからだ、それに同じものを作り続けた方が楽なんだ、って情けなさそうに言ってしまう。中学生に1kg460円なんて言ってもたぶんピンとこないと思うのだけど。

中学生の自分が毎日おなじものを食べさせられたときのことを想像すると、げんなりとした気持ちになってくるが、不思議なことに、現実では毎日おなじものを食べていても飽きというものはやってこない。それは食そのものに対する欲が減ったのかもしれないし、もしくは、作る、という行為に満足を覚えているのかもしれない。中学生の時の自分は、母親が同じものを続けて出すことに不満を覚えていたこともあった。あのとき、不満を吐き出すだけではなくて、手伝うから違うもの作ろうよ、って言えばよかったのかもしれないと、今は思う。

酒好きは瓶ビールを飲むか

2014-11-30 01:19:32 | 日記
大分まえのことになるが、友人達と渋谷にある立ち飲み居酒屋、富士屋本店で飲んでいた時のことだった。友人の一人が周りの客が瓶ビールばかり飲んでいるのを指して、「酒好きな人は生より瓶のビール飲んでいることが多くない?」という発言をした。その時いらい、瓶ビールと生ビールの違いについて考えていた。
確かに富士屋本店は酒好きが集まりそうな場所だ。立ち飲みの店なので、正直に言って居心地が良い空間であるとはいえない。とはいえ、メニューの値段は渋谷という立地を考えるとそれなりに安く、1杯か2杯飲んで、とにかく酔っ払いたい、そういう気持ちを満たしてくれる場所であることは確かだ。団体で来ている客もいるが、一人でただ飲んでいる客も目立つ。そして、一人で飲んでいる客のテーブルには、生ビールが置かれていることがほとんどなくて、瓶ビール1本とグラスが一つ置かれているのである。

本当に酒好きは生ビールよりも瓶ビールを好むのだろうか?ちなみに僕はというと、生ビールよりも瓶ビールの方が好きである。しかし、自分が酒好きであるかどうかと聞かれると、自信はない。毎日、飲むわけではないし、そんなに酒に強いわけではない。というよりもかなり弱い方だ。それでも、生ビールと瓶ビールがどちらが好きかと聞かれれば、自信を持って、瓶ビールの方が好きだと答えることはできる。それは味の問題ではなくて、飲み方の問題なのである。生ビールを頼むと、ぬるくならないうちに早く飲まなくては、という思いと、周りの人のペースに合わせなければ、という二つの思いが重なって、どうしても飲むスピードが早くなっていってしまう。前述の通り、自分は酒にかなり弱いので、生ビールばかり飲んでいると、自分が冷静でいられる限界というものを、超えて飲んでしまうのである。しかし、瓶ビールなら、生ビールよりも、空気に触れている箇所が少ないので、そんなに急がなくても、味はあまり劣化しないような気がする。また、瓶の中の酒はみんなで共有しているものなので、飲むペース、というものがあまり気にならない。一人でちびちび飲むのに、瓶ビールは向いているのかもしれない。

調べてみると、生ビールと瓶ビールは現在では中身に違いというものは全くないらしい。なんとなく瓶ビールは熱処理のようなものがしてあって、生ビールに新鮮さで劣るというような気はしていたのだけど。そうなると、生が好きか、瓶が好きか、というのは味の問題ではなくて、上に書いたように、飲むスタイルの違いに依ってくる、ということになる。もっと言えば、TPOによってどちらを飲むか決まってくるのではないだろうか。生ビールはパーティに向いている。とりあえず生、というやつである。ジョッキはでかくて、気分は盛り上がるし、生を頼んでおけば、つぐ時間のロスがなく、会が始まるのである。瓶ビールはちびちびと、孤独に飲む時に向いている。そして自分は何度も言う通り、瓶ビールの方が好きなので、独りでちびちび飲むのが好きである、ということなのだろうか。飲み会という言葉にある、“会”というものがどうも苦手なのかもしれない。