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ホパラタは行うか

2015-06-07 20:54:55 | 日記
ブログを書き始めて、1週間に1本の頻度で更新をしていこう、などと考えていたのだけど、自分の中で立てる誓いというものほど脆いものは世の中にそうはないわけで、当然のように1週間に1本の頻度で更新をしていない。自分はあまり思考をしない人間であり、そのため「私が〇〇について考えていること」というような内容のブログは書くことができない。何か自分に特別なことが起こった時に、そのことを書く、というのがせいぜいのことで、毎週毎週、何か特別なことが起こるほど、幸運な人間ではない。それでも起こったことに対して、何がいちばん特別だったか、という順位をつけることはできるわけで、今週で一番特別だった出来事はカツラを会社の女性の先輩に貰ったことである。土曜日に先輩がやっているバンドのライブを観に行き、ライブ用のコスチュームとして先輩が被っていたカツラを頂くことができたのである。せっかく頂けたのだからなるべく被るようにしようと思い、実は今もカツラを被りながらブログを書いている。しかし、カツラを被りながらカツラについて書くということは恥ずかしい。どうしてかはうまく言えないが、それは恐らくカツラについて客観視することができないからである。なので、今回は今日、古本屋で見つけた本について書こうと思う。はじめに断っておくが、まだ読んでいない。それは「クマにあったらどうするか」というタイトルのもので、アイヌ民族最後の狩人である姉崎等さんがクマについて語る本だ。冒頭の一文を読んで、この本を購入しようと決めた。

私は、クマを自分の師匠だと本気で思っています。なぜクマが師匠かというとクマの足跡を見つけたときにクマを一生懸命追って歩く、そうやって追っていくうちに、山の歩き方やクマの行動などをすべて学んだからなのです。


もの凄い冒頭文だと思った。

私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、そのほうが私にとって自然だからである。

これは夏目漱石の「こころ」の冒頭文である。ちょっと内容が似ているが、やはり気になるのは「先生」と「師匠」のことである。俺の人生で「先生」や「コーチ」「監督」など人にものを教える立場の人にものを教わったことは何回もあるが、「師匠」と呼ばれる人に教わった事は一回もなかった。「師匠」は恐らく「先生」や「コーチ」よりも厳しい類の人なんだと思う。師匠と対になる関係は「弟子」であり、そこには複数人を教える「先生」「コーチ」よりも濃密な関係があることが想像される。そこにはぶん殴ったり、蹴っ飛ばしたりといった何らかの暴力的な「しごき」があるに違いない。恐ろしいヤツだよ、「師匠」ってものは。そんな「師匠」が人間ですらなく、「クマ」なのだからこれは物凄い本に違いがない、長くなったが、このような経緯があって、この本を購入しようと思ったのだった。

この本は語り手である姉崎さんに対して片山さんという方がインタビューする形式で文章が綴られていた。目次を読んで第五章「クマにあったらどうするか」にある節「ホパラタは行うか」が気になったので飛ばして読んでみた。「行う」という言葉から、何らかの行為であることは分かるが、「ホパラタ」という語感からとてつもなくバカそうな行為であることが想像された。


片山 ところで、アイヌ民族の伝統的なクマと出会ったときの対し方ということで、たとえば知里真志保がホパラタ(魔を祓う所作)というのを紹介しているんですが、ホというのは「陰部」、パラというのは「広げる」、タというのは「打つ」という意味で、着ているものを広げてそれで陰部の部分をあおるようにして打つ、つまり陰部を露出させてクマを追い払うというようなことが出ているんですが、こういう所作はしたのでしょうか

姉崎 それは聞いたことがないですね


とんでもない行為だった、バカどころか変態的な行為だよ「ホパラタ」ってのは。その後の話の内容をざっくりとまとめると、片山さんは3回程度、「姉崎さんも実はやったことがあるんでしょう?『ホパラタ』を」ということを姉崎さんにしつこく問い詰めていたが、姉崎さんは「ホパラタ」に対して存在自体を否定していた。「ホパラタ」が実際に存在するかどうかは謎だが、姉崎さんにとってクマは「師匠」であり、「師匠」に向かって「ホパラタ」を行う、つまり陰部を露出させるのは、流石にちょっとありえないんじゃないか、というようなことを思う。

インスタントコーヒーがやめられない

2015-05-23 23:56:53 | 日記
あれは先週の日曜日の夜九時頃のことだった。
最寄駅から自宅に帰る道にあるスーパー、「まいばすけっと」で買い物を終えた後のことだ。俺は、早く家に帰ってコーヒーを飲みたいと考えていた。よく、夜にコーヒーを飲むと眠れなくなるというが、自分は例外かというと、そういうわけでもなく、やはり眠れなくなってしまう。一日を終えた後の、ぐったりとした疲れは身体中に感じているのだが、目だけがどうしても冴えてしまって眠れない。そのうちに、次の日も仕事が朝から始まるから、早く寝ないとヤバいとか考え始めてしまって、焦ってきて、極度の緊張状態に陥る。汗はだらだらと流れ、心臓も激しく鼓動を始める。だから、なるべく夜にコーヒーは飲まないようにしているが、それでもその日は家に帰ってコーヒーを飲もうと考えていた。「まいばすけっと」で買い物をしていた親子の会話が原因である。

「ママ、コーヒーは買わなくていいの?」

5歳くらいの女の子だった。娘はインスタントコーヒーの瓶を手に持ちながら話していた。

「ママはね、インスタントコーヒーは飲まないのよ」

俺はその会話を聞いたとき、悲しい気持ちになっていた。なぜなら、俺は、まぁコーヒーに関しては、缶コーヒーも飲むし、ちょっとうまいと評判になっているようなコーヒー屋にもたまには行くし、チェーン店で一番好きなのはやっぱりルノワールだし、家でもコーヒーは飲むし、そして、家でコーヒーを飲む時はインスタントコーヒーしか飲まないからだ。インスタントコーヒーは確かに、うまい、とは言えない。しかし、インスタントコーヒーだっていろいろとある。

「洗ってすぐのコップにコーヒー豆を入れて、熱湯を注いだところ、コーヒー豆が完全に溶けなかった」

コップの中に、冷水が残っていて、熱湯の温度が下がってしまったのである。じゃあタオルで拭いてからコーヒー豆を注げばいいじゃないかとも思うが、飲むためにタオルでコップを拭くことすら面倒だと思ってしまうのがインスタントコーヒーである。そもそも豆が完全に溶けていても、うまいとは言えないのがインスタントコーヒーだ。

「熱湯を最初にちょっとだけ注いで、ドロドロにして、ちょっと待ってから、熱湯を注いで作ると、なんだかうまい気がする」

こうすると豆は完全に溶けるのだった。しかし、あくまでも「なんだかうまい気がする」だけなのであって、実際にうまいのかどうかというと、自信がない。インスタントコーヒーは確かにうまくはない。しかし、思うところは少なくともあるのだ。だからインスタントコーヒーは飲まないときっぱり言われると、ちょっと悲しくなってしまう。いや、それは個人の自由なので、批判する気持ちは一切ない。しかし、あの娘は恐らくインスタントコーヒーを飲まない家庭で育ってゆくので、たぶん、そのままインスタントコーヒーを飲まない大人になるのだろう。そして、時がたって、娘にも子供が出来る。その時に子供にきっと同じようにインスタントコーヒーは飲まない、という会話をしてしまうのだ。そういうことを思うとわけもわからず悲しい気持ちになって、よっぽど「熱湯を最初にちょっとだけ注いでドロドロにするのがインスタントコーヒーをうまくするコツなんですよ、実際にうまいかどうかは分からないのですが」ということを話しかけたいと思ったが、そんなことを知らない人に話しかけられても困ってしまうだろうし、家に帰ってインスタントコーヒーを飲もうと考えていた。

そう知らない人に話しかけられると困ってしまう。そして、俺は十字路で知らない男に話しかけられてしまったのだった。無地の白シャツを着ていて手ぶらだった。髪の長い男だった。

「すみません、いま急ぎですか?」

「え、急ぎってわけではないんですけど、なんていうか明日も仕事で朝が早いし、家はすぐそこなんですけど、インスタントコーヒーを帰って早く飲みたいというか、そんな感じです、いまは。」

本心を話した。正直に言って、あまり関わり合いになりたくなかった。しかし、男はそんなことは構わずに矢継ぎ早に話しかけてくる。

「いや、さっき財布を落としちゃって、ヴィトンの財布だったんですけど、そこの角を曲がった警察署にはもちろん届出をしました、さっきから二時間くらい探し回ってるんですけど、見つからなくて、ほとほと困ってるんですよ。それでね、お兄さん、警察ってのは冷たくてね、俺がこんなに困ってるのに、お金を貸してくれないみたいでね、ちょっとお金を貸してくれませんかね?」

知らない人に話しかけられるのも困るが、知らない人に話しかけられて、さらに金を貸してくれと言われるとさらに困ってしまうのだった。考えていたのはヴィトンのことであり財布のことだった。俺は父親にゆずってもらった、もうかなりぼろぼろになりかけている財布を使っている。たぶん、ヴィトンの財布の方が、俺の財布よりも高いんだろうな、とかそんなことを考えていた。

「確かに財布を落としてしまったのは不幸なことだと思って、同情はしますよ、でもね、俺はね、親父にもらったぼろぼろの財布を使っています。確実にヴィトンの財布より安物ですよ。」

よく分からない曖昧な言葉だった。俺は助けを求めるように、さっきのインスタントコーヒーを飲まないと会話をしていた親子が近くにいないか、周りを見回していた。きっとあの母親だったら、俺みたいに曖昧な言葉を使わずにはっきりと断るんだろう。「私はね、知らない人にお金は貸さないようにしているの」なんていう風にきっぱりと言うだろう。あの母親はヴィトンよりも高い財布を使っているのかな、スーパーで使っていた財布はどんなものだったっけ。色んな思いが交錯した。しかし、あの親子はどこにもいなかった。自分は、はっきりと物を言うことができないタイプの人間だと思い知らされた。とにかく、早く帰ってインスタントコーヒーを飲まないといけない。曖昧な言葉が宙に漂ったまま、自分は歩き出す。途中、何度も後ろを振り返りながら。

凱旋門に思いを馳せて

2015-04-26 20:06:56 | 日記
酒を飲むのは嫌いではないが、好きな酒はと聞かれると、うまく答えることができない。おそらくいちばん飲んでいるのはビールだが、好きな酒かどうかは自分でも分からない。レモンサワーとかも良く飲む。しかしレモンサワーを好きな酒と言っていいのかも分からない。どちらかというとレモンサワーよりも、レモンソーダが好きなだけなんじゃないのか、それは、ということがいつも頭にもたげる。そんな自分だが、先日の金曜日に飲みたい酒があって、飲みたい酒が置いてある店をネットで検索して訪れる事にした。カルヴァドスである。



カルヴァドス (Calvados) とは、フランスのノルマンディー地方で造られる、リンゴを原料とする蒸留酒である。なお、この地域以外で作られる同様の蒸留酒がカルヴァドスを名乗ることはできず、アップル・ブランデーと呼ばれ、区別される。

原料としてリンゴの他に、10 - 30% 程度のセイヨウナシを使用する事が多い。

(wikipediaより)

なぜ、カルヴァドスを飲もうと思ったのか。特に深い理由はない。深い理由はないと書いてみて、今まで自分は深い理由に基づいて行動をしたことがあったのだろうか、「それには深い理由があって」なんて台詞を吐いたことがあっただろうか、そういう疑問が浮かんでくる。そもそも理由に深いとか浅いとかあるのか。俺は深い理由という言葉がなんだか偉そうに聞こえるという理由で嫌いだ。それは置いておいて、カルヴァドスを飲もうと思ったのは、先日に読んだドイツの亡命作家レマルクの凱旋門という小説で、登場人物たちがたびたびカルヴァドスを飲んでいて、自分も飲みたくなったからである。



凱旋門はかいつまんで説明をすると、第二次大戦前の頃、ナチスに追われてパリに亡命した凄腕の外科医が、素性不明の女優と絶望的な恋に落ちる話だ。ロシア小説の登場人物が「ウォトカ」を飲みまくるように、凱旋門の登場人物もカルヴァドスを飲みまくっていた。主人公はもぐりの外科医で、代行の外科手術を行うことで生計を立てているのだが、外科手術の前にもカルヴァドスを飲んでいる。とにかく飲む。喉が乾いたらカルヴァドスを飲む、というような頻度だ。カルヴァドスという単語が何回出てきたか数えていたが、100回を超えたあたりで数えるのを諦めた。物語に没頭しつつも、これだけ単語が出てくると飲みたいと思わずにはいられない。ポップコーンとコカ・コーラの映像を知覚できない一瞬の間、映画の中に組み込むことで、売り上げが激増したというサブリミナル効果は、本当だったのかもしれないとちょっとだけ思う。

カルヴァドスっていうのは、フランスのノルマンディ発祥の酒でね、なんで、ノルマンディで作られるようになったかというと、ノルマンディではぶどうがとれないからワインを作れなかったんでね。それでりんごを蒸留したカルヴァドスを生産するようになったんですよ。ノルマンディには行ったことがあるのですが、オンフルールでは港を囲むようにレストランやカフェーが並んでいて、沢山の種類のカルヴァドスを楽しむことができます。いいところでね。

マスターはカルヴァドスを提供しながら、その背景を語っていた。カルヴァドスは中々うまい酒だった。飲み下すと、胃の中から、鼻の辺りまでりんごの強い香りが、立ちのぼってくるのが感じられる。しかし、強い酒だった。アルコール度数は40%だった。俺はロックで2杯飲んだ後、ソーダ割りにして1杯飲んだだけなのだけど、かなりへべれけになってしまっていた。朦朧とした意識の中でいろいろなことを考えた。凱旋門のことを思い出して、あの登場人物たちはきっと酒に強いに違いない、だって喉が渇いたときに水を飲むようにこんな酒を飲んでるのだから。そして酒に詳しいマスターについて考えた。
バーのマスターという人種はとにかく酒に詳しい。そして話上手である。俺はあの時、いろいろな話を聞かされた。フランスの3大ブランデーのコニャックとアルマニャック。グラッパはイタリアで作られたものを限ってそう呼ぶこと。ウイスキーの瓶に貼られた英国王室御用達のマーク…。知りたいことをいろいろ聞かせてくれる。バーのマスターという人種は話をするのがうまいんだ。では、ラーメン屋のマスターはどうなのだろうか。俺は、ラーメン屋には何回も行ったことがあるが、ラーメン屋のマスターはきっとラーメンについて詳しいが、ラーメンについてあまり多くは語らない。どこどこの牧場で育てられた豚の骨が良いスープのダシになるとか、ラーメンの発祥の地はどこであるとか、家系ラーメンとは一体どういう経緯で生まれたのかとか、そういう話は一切きいたことがない。ラーメンは酒と違って、その生産から流通に至るまでの流れが謎に包まれている。俺はラーメンについて詳しい話をラーメン屋の店主から聞きたいと思う。でも、ラーメン屋のマスターはラーメンについてあまり多くを語らない。バーのマスターとラーメン屋のマスターも、同じマスターであるのにここまで違う。しかし、世の中にはきっとラーメンにめちゃくちゃ詳しいバーのマスターが存在するはずである。カルヴァドスを注文すると、ラーメンに詳しいマスターは話はじめる。

カルヴァドスっていうのは、フランスのノルマンディ発祥の酒でね、なんで、ノルマンディで作られるようになったかというと、ノルマンディではぶどうがとれないからワインを作れなかったんでね。まあ他にもコニャックとかアルマニャックとかが、フランスでは有名なブランデーですね、話は変わるんですけど、ラーメンは好きですか?あたしは酒の話よりもラーメンの話がしたくてね、いいですか、ラーメンの話をしても?もちろんいいですよね。

なぜかマスターに問い詰められてしまう。ラーメン好きのバーのマスターは酒の話よりもラーメンの話がしたくてたまらなかった。奇妙な空間が生まれてしまう。フランスのノルマンディに思いを馳せて、凱旋門に思いを馳せて、カルヴァドスを飲もうと思っていたのに、聞かされるのは良いスープのダシになる豚ガラの話であり、近所のうまいラーメン屋の話である。近所のうまいラーメン屋の情報は是非とも仕入れたいところだが、これではロマンもへったくれもなかった。やはりラーメンの話はラーメン屋で聞かなければいけないと思う。

雨上がりの高速道路で

2015-04-05 00:43:14 | 日記
今から1週間前の日曜日の19:00頃だっただろうか、海老名サービスエリアの手前、東名高速道路上りの線はひどい渋滞をしていた。僕たちの乗った車は、1時間近くも止まっては動き、動いては止まっての行進を続けていた。渋滞に巻き込まれている時に人は色々なことを考える。目的地に着くのは何時頃になってしまうのだろうか、いつまでこのストレスのたまる行進を続けなくてはならないのだろうか、渋滞の発生している原因はいったい何なのだろう、そもそも渋滞は何で発生するのだろう、この怒りはいったい誰にぶつければいいのだろう、いろいろなことを考える。でも、いろいろなことを考えることができるのは、余裕があるときに限っていて、その時の僕には色々なことを考えている余裕なんか、これっぽっちもなかったのだった。海老名サービスエリアへと続く道に並んでいる間、トイレに行きたい、ということしか考えていなかったのだった。

海老名サービスエリアまであと2kmという地点、普通に車を走らせていれば、ものの2分かそこらでついてしまう距離だ。しかしあの時、海老名サービスエリアへと続く道は本道よりも渋滞していて、どう考えても15分か20分はかかりそうだった。インターネットで「高速道路 渋滞 トイレ」という単語を入れて調べてみる。同じような事態に陥っている人が多いことに気が付く。なかには「高速道路でトイレに行きたくなって、観光バスに乗り込んでトイレを貸してくれって頼んだのですが、ダメでした」なんていう報告を書いている人もいた。近くには観光バスも走っている。観光バスに乗り込む自分を想像してみる。観光バス、乗り込む、という言葉からは、バスジャックが連想されてくる。普通に頼んでも貸してくれないならバスジャックをするしかないのかもしれない。でも、自分はその時に拳銃は持っていなかったので、全員手をあげろ!1歩でも怪しい動きをしたら脳漿を、ぶちまける!なんていう映画みたいな台詞を吐くことはできない。ぶちまける、という単語を思い浮かべて、また、トイレに行きたいということに考えが戻っていった。

友人たちから「まだけっこうかかりそうだし、その辺でしちゃえば?」という提案があった。それは良いアイデアに思えた。どうせ車は渋滞していて、ぜんぜん進んでいないのだし、その辺でしちゃって、ちょっと走ってまた車に戻ればいいのかもしれない。車が止まった瞬間を見計らって、外に出た。高速道路で車が走っているのを間近で見るのは、不思議な気持ちがした。周りには車しかいない中に自分は立っていて、自分とは違う形をした、エイリアンの群れに囲まれた時ってこんな感じがするのかも、という不安な気持ちになっていた。村上春樹が書いた「1Q84」の冒頭部分に首都高速で渋滞にはまり、車を抜け出す女の話があった。とても大事な仕事をするために、高速道路の非常階段を降り、目的地へと向かう女。周りの視線を痛い程に感じて、彼女はこう思った。

あなたたちはそこに縛りつけられたっきり、どこにも行けない。ろくに前にも進めないし、かといって後ろにも下がれない。でも私はそうじゃない。私には済ませなくてはならない仕事がある。果たすべき使命がある。だから私は前に進ませてもらう。

とても共感し、勇ましい気持ちになってくる。そうだ、自分にも果たすべき使命、済ませなくてはならない仕事がある。

雨上がりの高速道路の路面はぬれていて、反射する車の光がとても美しかった。


因数分解のことは忘れていた

2015-03-15 20:30:08 | 日記
因数分解のことはしばらく忘れていた。10代の多感な時期を来る日も来る日も因数分解をして過ごしたこともあったのに。因数分解のことを思い出したのは、喫茶店に入った時に、隣に座った女性が、因数分解をしていたからだった。

20代前半くらいの女性と、50代前後の男性が、隣の席に座っている。男が女に因数分解の問題を解かせている。女は、タバコを片手に持ちながら、因数分解の問題に取り組んでいるが、うまく解くことができないようだった。

「あー、このx2乗と2xっていうのは違うものなの?全然わかんない」

「もうだめ、おしえて」

女は大声で因数分解がうまく解けないことを男に伝えていた。そのたびに男は因数分解のやり方を丁寧に説明する。
二人の関係、というものが気になった。そして、女が因数分解をしている理由についても。普通、人はタバコを吸うような年齢になると共に、因数分解をしなくなってしまう。因数分解は確かに頭の体操になりそうだ。しかし、暇つぶしでクロスワードパズルを解いたり、数独を解くことはあっても、暇つぶしで因数分解をする、という人は今まで見た事はない。問題なのは、暇つぶしで因数分解をする、ということではなかった。ここで問題になっているのは、女はタバコを吸う年齢なのに因数分解を、暇つぶしではなく、あくまで真剣に取り組んでいる、ということだ。しかも、女は50代前後の男とタメ口で話している。教師と生徒の関係ではないだろう。友人同士、恋人同士、というのも考えにくい。なぜなら、二人の関係は、あたかも因数分解によってのみつながっていると言ってもいいほど、会話は因数分解のことで占められていたのだから。

「あーもうわかんない、そもそも因数ってなんなのよ、あたしに教えてよ」


一つの整数あるいは整式を、いくつかの整数あるいは整式の積の形に変形することを、その整数あるいは整式を因数分解するという。その積の形をつくっているおのおのの整数あるいは整式を、その積の因数という。


男はなにも答えない。いまこの場において因数が何を意味するか、ということはあまり意味を持たない、因数分解をすることだけが、重要なことなのだ、ということを無言で語っているようだった。
1時間半くらいのあいだ、本を読んですごしていたが、その間ずっと、女は因数分解をやり続け、男も、女が因数分解を解けない時にヒントを出すという時間を、心の底から楽しんでいるようにみえた。女の「わかんない!」という声が響くたびに、隣の女のノートをひったくって、めちゃくちゃに因数分解を解きまくってやりたい衝動に駆られる。因数分解は、思い出すと楽しかった。足し算と掛け算を同時に頭の中で行い、答えが出た時のひらめいた、という感覚。自分も因数分解を解きたいとその場では思う。しかし、因数分解は悲しいことに一人では行うことができない。誰かが式を出して、誰かが因数分解して答えないといけない。短歌に短歌で答える、返し歌みたいだと、ちょっと思う。二人の関係がどんなものかは分からないし、なぜ因数分解をやっているのかは分からないままに謎だけが残る。しかし、ちょっとだけ二人のことが羨ましいと思ってしまう自分がいた。