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暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

神流川丸岩と鮎神社 (群馬県)

2018-09-23 16:26:45 | 水の神
神流川の下久保ダム上流は、美しい渓谷があります。

美しいとは言っても、新道開通によって大分興趣が減じたのですが・・。

2018年07月31日に訪問いたしました。

私が、初めてここを尋ねたのは、1986年の早春でした。

秩父鉄道の皆野駅から出発して、徒歩で志賀坂峠を越えて群馬県側に出たのですが、

さすがに、足が棒というよりも、ひざが反対側に曲がりそうでした。

なぜ歩いたか・・・。

それは資金不足だったからです。

さて、今回はさすがにそんな真似をしようとは思いませんでした。


さて、神流川の奇勝、丸岩です。岩の上に誰か住めそうですね。

盆栽のようです。
















さて、この丸岩に並ぶようにして、珍しい名前の神社があります。

神流川鮎神社です。









祠の台座は対岸にある石灰岩鉱山、叶山の頂から降ろしたもののようです。

以前は、この他にも謂れのある奇岩があったのですが、どこに行ってしまったのか。

旧道を丹念に探さないと見つからないでしょうね。

いつか探したいと思っています。
 

斎藤塚 (旧妻沼町)

2018-09-23 13:00:37 | 城館跡探訪
本日は、斎藤実盛の遺物を埋納したと伝えられている斎藤塚について

書きたいと思います。

見学日は2018年07月24日です。

旧妻沼町には斎藤氏にちなんだ史跡が点在しています。

斎藤塚は当地を支配した斎藤実盛の死後、彼の次男の五・三男の六によって

実盛を供養するために築かれたもので、塚には遺物が埋納されていると言われています。

道の駅妻沼の近く、リードという会社の裏にあります。この辺りは弥藤吾郷といわれた地域で、

斎藤氏の所領でしたが、道祖神などがあることから、郷の境界だったのかもしれません。











写真のアングルが不自然なのは、この塚の木陰に休んでいる農家の方の車があったからです。

斎藤氏にまつわる塚と言えば、実盛塚というのがありますが、これは、斎藤氏の居館跡と言われているものです。













板碑は当時のものなのでしょうか?

一般に、初期の板碑は大型で彫が深いのですが、室町期に入ると板碑産業として確立され

庶民でも手軽に購入できるよう、小型浅彫板碑が開発され、大量生産体制が整ったとされています。


庚申塔がばらばらになってころがっていて、荒涼とした印象でした。


内ヶ島氏館跡 1985年(深谷市)

2018-09-22 18:12:10 | 城館跡探訪
深谷の内ケ島には、永光寺という寺院があり、平安期猪俣党の内ケ島氏の

居館跡と言われております。

内ケ島氏は後に、戦国大名として勢力を拡大、秀吉の配下に組み入れられましたが、

領地、岐阜県白川郷を襲った天正地震により大土石流が発生、居城帰雲城・城下町もろとも

潰滅しました。


戦国武将の滅亡譚など、なんだか因果話のような感じがして怖いですが、

内ヶ島氏館跡に行ったときはそんなことは何にも知りませんでした。

夕焼けの中にたたずむ永光寺の朱塗りの門。

わたしはこの写真が結構好きなんです。深谷の唐沢川の橋を渡って家路についた記憶が残っています。





これは、高校の帰り道に回ったんですが、この年は、大学受験の年、秋。

往復2時間の道を、何を考えながら走っていたんでしょうか、このバカは。

上杉館(旧江南町)

2018-09-22 12:09:56 | 城館跡探訪
今回は、旧江南町千代にある上杉館について書きたいと思います。

調査日は2018年08月11日です。

上杉館は上杉氏系の城郭や陣城の多い江南台地上にあります。

わたしは1985年頃に1度訪ねた経験がありますが、土塁と堀が長く続き、

かなり広大なもので、当時は赤松が多く松茸がとれていたようでした。

現在は、広範囲が竹林に置き換わってしまったようで、大分様子が変っておりました。


上杉館の近くには飯玉神社という、境内の池に住む魚は総て片目であるという伝説をもつ

神社があります。

上杉館はこの神社の南側にあります。

手打ちうどんやさんの向い側にある路地を入っていきます。




民家がありますが、その間に空堀のようなものが残っています、






民家の奥の方に続いているので、ここはちょっと直進できません。

この民家の道路を挟んだ向かい側が大きく伐開されています。








この伐開された土地の脇に小道があるので、そこを歩いて、伐開された土地の側面から観察します。





写真左側に土盛が見えます。

かなり埋まってしまっている様子ではありますが、私が歩いている小道の脇にも空堀と土塁状のものがあります。





向う側にあるのはやはり土塁のようです。




伐開された土地の南側にも、かなり埋まってしまっている様子ではありますが、空堀と土塁状のものが続いています。










土塁の切れ目がありますが、これは、館とは直接の関係がないでしょうね。




さて、東側の土塁を見て見ましょう。







結構、立派な遺構です。

近づいてみるともっとすごい。















中央には土盛りのようなものも残っています。





以前訪ねた時はもっと広大なものに感じたのですが、意外にあっさりとしていました。

ここは館跡の一部のみと思われます。フェンスによって囲われた北側山林内をみなければ全貌は分からないでしょう。

ゆっくりとですが、江南台地上は未だ開発が進んでいます。

早晩この上杉館も消える運命にあるのかもしれません。




御所陣屋(代官中川八郎左衛門の屋敷跡)か? 1985年(吉見町)

2018-09-21 17:14:38 | 城館跡探訪
今回は、街の中で、遺構のようなものがあった際に気まぐれに撮影し、

後に出版された文献などに照らし合わせて推定した館跡の写真を紹介いたします。

吉見町の息障院には源範頼の館跡があります。

この息障院のある区画の北側、八丁湖に入る小道の入り口付近の畑の中に

深く掘り込まれた堀がありました。

館跡か?ととっさに判断し撮影しました。

売店も無いような農村の夕暮れの道で撮影した記憶が強く残っています。

おなかが空いていたからです。

カギ形に掘られた堀は方形の堀の一部と思われます。

これは後に出版された『埼玉の中世城館跡』によって、御所陣屋跡と推定しました。



この堀跡とみられる遺構はすでに失われているようです。

御所陣屋跡は江戸初期のものだそうです。

同書では、横見神社一帯を陣屋跡としており、場所的にはギリギリの場所だと思います。


御所陣屋跡は、①伝源範頼館跡(息障院とは別)、②代官中川八郎左衛門の屋敷跡。これを「陣屋跡」

と呼ぶそうです。②については参考文献『吉見町史 下巻』p.75。

いずれも、御所地内。

以上2件の情報が、『埼玉の中世城館跡』で混同されているのかもしれません。