NHKの大河ドラマで今人気の真田丸、その真田氏の城の上田城へ
人気の高さが伺えますツアー客や一般見学者がどっと訪れています
上田城 南櫓・北櫓・東虎口櫓門、
真ん中の入口になっているのが東虎口櫓門です
真田石
東虎口櫓門右手の石垣にある高さ約2.5m・幅約3mの大石。
真田信之(信幸)が松代城移封にあたり
父・真田昌幸の形見として持っていこうとしたところ、
微動だにしなかったという言い伝えが残っています。
眞田神社
眞田神社の設立当初の名前は「松平(しょうへい)神社」であり、
明治12年(1879)頃に旧上田藩藩士・町民によって設立され、
藩主であった松平氏をまつる神社でした。
その後、上田城の二つの櫓が再建され、城跡公園として体裁が整ってきた
昭和28年に「上田神社」と名を改め
真田、仙石、松平の歴代上田城主を合祀、
さらに昭和38年には「眞田神社」と改称され、今日に至っています。
真田井戸
眞田神社の境内に残る直径2m・深さ16.5mの井戸は
真田井戸と呼ばれています。
この井戸は抜け穴になっており、城北の太郎山麓の砦や
上田藩主居館(上田高校敷地)に
通じていたという伝説が残っています。
西櫓
西櫓は寛永3~5年(1626~1628)にかけて仙石氏によって建てられた、
上田城で江戸時代から現存している唯一の建物です。
西櫓すぐ横の急な階段で下へ降りて、尼ヶ淵を見てみたいと思います
下から見た西櫓
南櫓
尼ヶ淵
上田城南側の崖下にはかつて千曲川の緩やかで深い分流があり、
天然の堀となっていました。
崖面がもろく崩れやすい性質だったことから築城以来保護対策が行われ、
大規模な石垣が設置されています。
この場所を「尼ヶ淵」と称したことから、
上田城は別名「尼ヶ淵城」とも呼ばれていました。
隅欠(すみおとし)
本丸に見られる「隅おとし」は上田城の特徴のひとつです。
上田城本丸の北東(丑寅)の方角は鬼門にあたることから
土塁の隅を切り込み「鬼門よけ」としたものです。
人気の高さが伺えますツアー客や一般見学者がどっと訪れています
上田城 南櫓・北櫓・東虎口櫓門、
真ん中の入口になっているのが東虎口櫓門です
真田石
東虎口櫓門右手の石垣にある高さ約2.5m・幅約3mの大石。
真田信之(信幸)が松代城移封にあたり
父・真田昌幸の形見として持っていこうとしたところ、
微動だにしなかったという言い伝えが残っています。
眞田神社
眞田神社の設立当初の名前は「松平(しょうへい)神社」であり、
明治12年(1879)頃に旧上田藩藩士・町民によって設立され、
藩主であった松平氏をまつる神社でした。
その後、上田城の二つの櫓が再建され、城跡公園として体裁が整ってきた
昭和28年に「上田神社」と名を改め
真田、仙石、松平の歴代上田城主を合祀、
さらに昭和38年には「眞田神社」と改称され、今日に至っています。
真田井戸
眞田神社の境内に残る直径2m・深さ16.5mの井戸は
真田井戸と呼ばれています。
この井戸は抜け穴になっており、城北の太郎山麓の砦や
上田藩主居館(上田高校敷地)に
通じていたという伝説が残っています。
西櫓
西櫓は寛永3~5年(1626~1628)にかけて仙石氏によって建てられた、
上田城で江戸時代から現存している唯一の建物です。
西櫓すぐ横の急な階段で下へ降りて、尼ヶ淵を見てみたいと思います
下から見た西櫓
南櫓
尼ヶ淵
上田城南側の崖下にはかつて千曲川の緩やかで深い分流があり、
天然の堀となっていました。
崖面がもろく崩れやすい性質だったことから築城以来保護対策が行われ、
大規模な石垣が設置されています。
この場所を「尼ヶ淵」と称したことから、
上田城は別名「尼ヶ淵城」とも呼ばれていました。
隅欠(すみおとし)
本丸に見られる「隅おとし」は上田城の特徴のひとつです。
上田城本丸の北東(丑寅)の方角は鬼門にあたることから
土塁の隅を切り込み「鬼門よけ」としたものです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます