異説万葉集 万葉史観を読む

日本書紀の歴史に異議申し立てをする万葉集のメッセージを読み解きます。このメッセージが万葉史観です。

志貴皇子の生いたち

2012-12-28 | 番外・志貴皇子とムササビ寓話
 今回から、美しい歌で知られる志貴皇子を取りあげます。簡単な志貴皇子年表を用意しました。



 ∩年表∪ 志貴皇子年表

  年  (西暦)┼ =数字は月、即位は天皇名で表記
  ───────┼───────────────
 天武八   679 ┼ 5志貴も参加した吉野の会盟
 持統三   689 ┼ 6撰善言司を命じられる
 大宝三   703 ┼ 9持統太上天皇葬送の造御竈長官
 和銅一   709 ┼ 1三品を授けられる
 和銅一    709┼  光仁生まれる
 霊亀一   715 ┼ 1二品を授けられる
 宝亀二   716 ┼ 8志貴皇子没
 宝亀一    770┼ 10光仁即位
 宝亀一   770 ┼  御春日宮天皇号を追贈される



  ◆天智系の要石・志貴皇子



 志貴皇子のプロフィルです。父親は天智天皇、母親は越道君伊羅売で、天智の七番目の皇子です。妻は多紀皇女で、光仁天皇、湯原親王、榎井親王の父親です。本人はちがいますが、父親も息子も天皇という血筋です。サラブレッド中のサラブレッドです。

 万葉集には志貴皇子の歌が六首のこっています。巻一に二首、巻三に一首、巻四に一首、巻八に二首です。巻八の二首は、巻冒頭の「志貴皇子の懽の歌」と、問題の「神名備の磐瀬の社」です。志貴皇子はほかに施基、芝基、志紀とも表記されます。天武天皇の皇子にも磯(し)城(き)皇子がいて、資料的にごっちゃになっている部分もあるようです。






 ところで、息子が天皇になったおかげで志貴じしんは田原天皇号を追贈されています。春日宮御宇天皇とも称されます。この光仁天皇の誕生は、たんに新しい天皇の即位というにとどまらず、皇位の血統、皇統の変更を意味しました。

 壬申の乱で、大海人が天智天皇の嫡子である大友皇子の近江朝を倒して天下をとった壬申の乱以降、天武天皇の血が皇統を独占してきました。それが、志貴皇子の息子が即位したことで、天武の血統から天智の血統へと皇統が移ります。光仁天皇の誕生で、天武と持統天皇の血が皇統から一掃されます。

 息子が即位するのは宝亀一年(七七〇)十月です。志貴皇子が亡くなったのは霊亀二年(七一六)八月なので、息子が即位したのを志貴は知りません。光仁、皇子時代は白壁ですが、白壁は志貴の晩年、和銅一年(七〇九)年、あるいは和銅二年に志貴の第六子として生まれています。母親は紀朝臣の橡姫です。

 息子である白壁王の即位はまったく予定されていませんでした。フロックの即位なので、志貴じしんは天皇の子どもとしてはなやいだ生活とは縁遠かったと思われます。どちらかといえば、戦々恐々として日を送っていたはずです。志貴が生きていたのは、天武・持統の血がものをいった時代です。そのなかで、天智系の皇子として、慎重に身を処して生きぬいたのです。

 志貴は無防備な振るまいをいましめるような歌をのこしています。歌はとても優雅な印象をあたえますが、生活そのものはそうでもなかったのでしょう。

 いずれにしろ、万葉集での活躍と比べると、実生活は地味だったようです。

 志貴皇子は、万葉集に六首の歌をのこしていますが、作者として以外に六か所に名前がでてきます。作者が志貴皇子の子どもだったり、孫だったり、といった説明ですが、作者として以外に名前が出てくる回数は多いほうです。突然、天皇の父親になったので、その係累を箔づけする意味合いがあったのでしょうか。



  ◆かさなる鏡王女と志貴皇子



 それはともかく、以前に紹介した「神名備の磐瀬の社」を詠った志貴皇子と鏡王女は、少なからぬ因縁があるようです。ちょっと寄り道します。二人は「神名備の磐瀬の社」を詠んだだけでなく、志貴皇子の代表的な万葉歌「志貴皇子の懽の御歌一首」が、鏡王女作とされているのです。



[万葉集]巻八の一四一八番歌

   志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
 ○石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも(巻八 1418)
   いわばしる たるみのうへの さわらびの
   もえいづるはるに なりにけるかも
       「石の上を勢いよく流れ落ちる滝の上にある蕨が
        萌え出す春になったことだ」



 この歌は万葉集のなかでも名歌として有名です。この志貴皇子の歌に奇妙な言い伝えがあります。「かがみの王女」作だというのです。これをそのままうけ入れることはできませんが、巻八冒頭の一四一八番歌が志貴皇子作でない可能性があります。

『古今和歌六帖(こきんわかろくじょう)』にも一四一八番歌が掲載されていて、作者に異説がでてきます。

「志貴王子 かゝみの王女とも」

「かゝみの王女とも かゝみの王子とも」

 これによると、「志貴皇子の懽の御歌一首」は、鏡王女、あるいは鏡王子が作ったということになります。もちろん、これを支持する研究者はいません。契沖は『六帖』を無視まではしていませんが、みとめてもいません。契沖(けいしゅう)の『萬葉代匠記(まんようだいしょうき)』です。



[萬葉代匠記]巻八
   志貴皇子懽御歌一首。六帖ニ此歌ヲ載ルニ志貴皇子トテ、
  注ニカヽミノ皇子トモトアルハ不審ナリ。懽玉篇云。呼官切、
  悦也、歡ノ字ト同シ



 契沖は『六帖』が志貴皇子の懽の御歌を「カヽミノ皇子」の歌であると紹介していることを、あえて取りあげているのです。『六帖』はさらに、「かゝみの王女(鏡王女)」の可能性も指摘していますが、契沖は鏡王女についてはふれません。

 すでにみてきたように、万葉集の情報がすべて正しいわけではありません。あえて事実でないことをもぐりこませています。それをほかの文献が、さりげなく修正しています。『六帖』も同様でしょうか。もし、契沖が『六帖』の情報を端から無視していたら、『代匠記』の解説でわざわざ取りあげたりはしないでしょう。契沖は事実だとは思っていなかったでしょうが、無視するほどいい加減な説だとも感じていなかったのです。

『六帖』は確定的な写本はのこされていないようですが、十世紀後半以降に編集されたのはまちがいないようです。だとすると、この歌を万葉集が「志貴皇子の懽の御歌」としていることは確認ずみのはずです。それを承知で、あえて「かゝみの王女」とも「かゝみの王子」と解説しています。これを「万葉集のほうが事実を記載している」とするのは当たりません。万葉集の権威をみとめたうえで、別の作者を紹介しているのです。

『六帖』は編集された情況があきらかでないので、いい加減な書物と考えられがちですが、編者としては紀貫之(きのつらゆき)や源順(みなもとのしたごう)などがあげられています。それほどでたらめな書物ではないのです。それがだれでも納得できる志貴皇子作だとする万葉集の説とは別の作者を紹介するには、それなりの根拠があったはずです。いまとなっては、その根拠を確認することはできませんが、これをそのまま無視するのも公平ではありません。一つの可能性として、みとめておきます。

 次回から、志貴皇子の歌を順番に鑑賞していきます。(2012/12/28 つづく)





 志貴皇子は、万葉集に六首の歌をのこしていますが、作者として以外に六か所に名前がでてきます。作者が志貴皇子の子どもだったり、孫だったり、といった説明ですが、作者として以外に名前が出てくる回数は多いほうです。突然、天皇の父親になったので、その係累を箔づけする意味合いがあったのでしょうか。

 参考までに、万葉集が志貴皇子の係累をどのように紹介しているか、志貴の名前がでる歌をすべてみてみます。



 [参考]志貴皇子の係累紹介

     長皇子、志貴皇子と佐紀宮にして倶に宴せる歌
   ○秋さらば今も見るごと妻ごひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上(巻一 84)
    〈あきさらばいまもみるごとつまごひに
     かなかぬやまぞたかのはらのうへ〉
         「今鹿が鳴いているように、秋が去っても
          妻をもとめて鹿が鳴く山である。この鷹野原は」
      右の一首は長皇子



     霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴皇子の薨りし時に、
     作る歌一首並に短歌
   ○梓弓 手に取り持ちて ますらをの 得物矢手ばさみ
    立ち向ふ 高円山に 春野焼く 野火と見るまで
    もゆる火を いかにと問へば 玉ほこの 道来る人の
    泣く涙 霈霖に降り 白たへの 衣ひづちて 立ち留り
    吾に語らく 何しかも もとな言ふ 聞けば 哭のみし泣かゆ
    語れば 心ぞ痛き 天皇の 神の御子の いでましの
    手火の光ぞ ここだ照りたる(巻二 230)
     あずさゆみてにとりもちて ますらをの
     さつやたばさみ たちむかふ たかまとやまに
     はるのやく のびとみるまで もゆるひを
     いかにととへば たまほこの みちくるひとの
     なくなみだ こさめにふり しろたへの
     ころもひづちて たちどまり われにかたらく
     なにしかも もとないふ きけば ねのみしなかゆ
     かたれば こころぞいたき すめろきの かみのみこの
     いでましの たひのひかりぞ ここだてりたる
          梓弓を手に取りもって、ますらおが手にはさんで
          立ち向かう的という、高円山で春の野を焼くごとく
          燃える火を、どうするものと問えば、
          道を来る人が泣く涙が雨のように降って
          衣を濡らしながら立ち止まって、わたしに
          語るには、どうして答えようのないことを
          聞くのですか、聞かれればわたしのほうが
          泣きたくなります、語ったとしても心が痛む
          だけです、神である大君の皇子がお出ましの
          手にもつたいまつの光がこれほどまでに照り
          かがやいているのです。

     短歌二首
   ○高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに(巻二 231)
     たかまとの のべのあきはぎ いたづらに
     さきかちるらむ みるひとなしに
          高円の野辺の秋萩は、むなしく咲いては散って
          いるのだろうか。咲いてもみる人もないのに

   ○三笠山野辺行く道はこきだくも繁に荒れたるか久にあらなくに(巻三 232)
     みかさやま のべゆくみちは こきだくも
     しじにあれたるか ひさにあらなくに
          三笠山の野辺をとおる道はここであるけれど、
          ひどく荒れていることだ。それほど時間が経って
          いないのに
      右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出でたり。



     海上王の和へ奉れる歌一首 志貴皇子之女也
   ○梓弓爪引く夜音の遠音にも君が御幸を聞かくしよしも(巻四 531)
     あずさゆみ つまひくよおとの とほおとにも
     きみがみゆきを きかくしよしも
          梓弓をつま弾く夜の響きのように遠くであっても、
          君の行幸があると聞くのはすばらしいことです



     湯原王、娘子に贈れる歌二首 志貴皇子之子也
   ○表辺なきものかも人はしかばかり遠き家路を 還すおもへば(巻四 631)
     うはへなき ものかもひとは しかばかり
     とほきいへぢを かへさくおもへば
          愛想がないことであるよ、この人は。
          これほどの遠き家路を帰らせることを思うと


   ○目には見て手には取らえぬ月の内の楓のごとき妹をいかにせむ(巻四 632)
     めにはみて てにはとらえぬ つきのうちの
     かつらのごとき いもをいかにせむ
          目でみることはできて手に取ることができない
          お月さまの桂みたいな愛しい人をどうしたらいいのだろう



     春日王の歌一首 志貴皇子の子で、母は多紀皇女と曰ふなり
   ○あしひきの山橘の色に出でよ 語らひ継ぎてあふこともあらむ(巻四 669)
     あしひきの やまたちばなの いろにいでよ
     かたらひつぎて あふこともあらむ
          山橘の実が色づくように表情にだしてご覧なさい。
          そうすれば、語りつづけることもあるでしょう



     榎井王、後に追ひて和ふる歌一首 志貴親王の子なり
   ○玉敷きて待たましよりはたけそかに来る今夜し楽しく思ほゆ(巻六 1015)
     たましきて またましよりは たけそかに
     きたるこよひし たのしくおもほゆ
          玉を敷いて準備万端お待ちしていたよりも、
          突然みえられた今宵のほうが楽しく思われます




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