異説万葉集 万葉史観を読む

日本書紀の歴史に異議申し立てをする万葉集のメッセージを読み解きます。このメッセージが万葉史観です。

1原万葉集の成立

2013-01-06 | 万葉史観Ⅰ 天智東征

●養老五年の原万葉集 Ⅲ

2012-04-09 | 1 原万葉集の成立 万葉集の成立は、ことほどさように複雑です。もともとの歌集とは別の編集の手がくわえられているからです。それはどのような手順をふんで編集されたのか、これをみていきます。

 日本書紀の歴史を修正する案内が、万葉集にいつくみこまれたのか、これに大きな示唆をあたえてくれるのが徳田浄の万葉集成立説です。『萬葉集撰定時代の研究』と『萬葉集成立攷』をあらわして、万葉集が古事記、日本書紀、続日本紀と互いに連動して編集されたと説きます。その結論として、万葉集は官撰歌集で、大伴家持はじめ大伴氏が編集に参加したとします。

 徳田は、二十巻にまとめられた四千五百首あまりの歌を詳細に時代考証しています。巻ごと、歌群ごとに歌の注記の年代の上限と下限をあきらかにして、編集された時代を特定していきます。さらに、日本書紀や古事記の編集時期から、両者の編集が連動していることを解きあかします。もっとも詳細な万葉集の成立論といっていいかもしれません。

 徳田によると、万葉集の巻一、二は六グループに分かれます。これは通説とほぼ同じです。六グループは、A(巻一の1ー53番歌)、B(巻一の54ー83番歌)、C(巻一の84番歌)、D(巻二の85ー140番歌)、E(巻二の141ー227番歌)、F(巻二の228ー234)です。徳田は二十巻すべてにわたって検討を加えていますが、巻一、二のAーFについてはきわめて詳細な検討をくわえてています。


 ⊂原万葉集⊃徳田浄の巻一、二グループ分け

  巻一 ┌─┐   巻二 ┌─┐
     1        85
     - A      - D
     53        140 
     └─┘      └─┘
     ┌─┐      ┌─┐
     54        141
     - B      - E
     83        227 
     └─┘      └─┘
     ┌─┐      ┌─┐
              228 
     84 C      - F
              234 
     └─┘      └─┘


 この成立論はひじょうに厳密で、膨大なデータを動員しています。したがって、こまかく紹介することはできませんので、「萬葉集撰定時代の研究」から結論だけを引用します。
 徳田の考証によると、万葉集はまず巻一の核部分が成立します。つまり、Aが最初に成立したとします。その理由です。


[萬葉集撰定時代の研究]巻一の部分成立
   文武天皇四年三月十五日、諸王臣に詔して令文を讀習せしめ又
  律條を撰成せしめ給ひ、更に同年六月十七日に刑部親王、藤
  原不比等に勅して律令を撰定せしめ給ふたが、大寶元年八月
  三日に至って始めて成功した。所謂大寶律令であって、翌二
  年にこれを讀習せしめ又天下に頒った。右に對して別事業で
  ある國史撰修は大寶、慶雲の年間に日本書紀の曹案が成って
  も、まだ完璧に到らなかった。慶雲年間に懐風藻に含められ
  た古詩集が成り、また萬葉集巻第一に取込まれたAの成書が
  成立した。


 これによると、文武四年(700)ー大宝一年(701)に律令の草案がととのいます。さらに大宝ー慶雲年間(701ー707)ごろ、後に日本書紀、古事記となる国史の草稿もできあがります。これにあわせて詩歌集の編集も一つの区切りをみます。それが日本最初の漢詩集である懐風藻(かいふうそう)の草案です。徳田は懐風藻の成立についてもくわしく論証していますが、ここではとりあげません。朝廷は漢詩集の編集に並行して、さらに和歌集の編集もすすめていきます。これが万葉集のコアとなる巻一のA部分というわけです。
 
 巻一の核部分につづけて、巻二が成立します。これが元明朝の和銅六年(713)ごろです。この経緯について、徳田はつぎのようにしるします。


[萬葉集撰定時代の研究]巻二の成立
   元明天皇の和銅元年四月より和銅六年五月までの間に萬葉集巻
  第二の中のDEの成書が出來たが、前月の六年四月十六日には先
  に成った新格を天下に頒たれ、前年の五年正月二十八日には稗田
  阿禮の誦習した舊辭を太朝臣安萬侶が採?して古事記が成り、六
  年五月には諸國に制して風土記を上進せしめ、翌年七年二月十日
  には紀 清人、三宅 藤麻呂に詔して國史を撰ばしめ給うた。


 この説明によれば、巻二は和銅一年(708)から和銅六年(713)のあいだに編集作業がすすめられます。これは和銅六年の古事記完成に連動しています。古事記に連動する文化的な動きは、万葉巻二のほかに風土記(ふどき)収集があります。全国の土地につたわる風土記を朝廷に献上するように命じています。さらに、和銅七年(714)に、紀清人(きのきよひと)、三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)が国史撰修メンバーへ追加的に参加します。紀清人らの国史撰修参加は養老四年(720)に撰上される日本書紀の編集布陣の強化のため、と徳田はみています。

 つぎに巻一が増補され、巻一の最後の一首(C=84番歌)をのこして巻一、二が完成します。この二巻は原万葉ともよばれ、万葉集の核となるものです。徳田はこの二巻の完成を養老(ようろう)五年(721)のこととします。日本書紀が完成した翌年です。
 巻一、二の完成は、元正朝の養老二年(718)の養老律令の撰定、養老四年(720)の日本書紀完成に連動したとします。徳田は原万葉集といわれる巻一、二の完成を日本書紀の完成と関係していると断定しています。
 つまり、万葉集巻一、二と日本書紀の編集は並行しておこなわれたとみているのです。


[萬葉集撰定時代の研究]巻一、二の成立
   元正天皇養老二年に藤原不比等が勅を奉じて撰した律令各十巻
  が成ったが、これが所謂養老律令である。養老四年五月廿一日は、
  是より先に舎人親王が勅を奉じて撰する所の日本紀三十巻、系圖
  一巻が成って奏上された。これに伴って養老五年より末年(養老
  八年二月三日)までの間にAにBが添加されてAB、DEに二巻
  が成立した。


 巻一、二が養老五年(721)に成立したという徳田の直感は、おそらく正しい。万葉史観があつかう万葉史観も、書紀が撰上された翌年の養老五年が起点となります。この年に、万葉集と日本書紀が形づくられたのです。

 ただ、徳田は養老五年の万葉集巻一、二を現存するものと同一としています。原万葉集といわれる巻一、二が現在の万葉集にそのままとりこまれたと考えています。しかし、養老五年にいちおうの完成をみたのは、おそらく徳田の考えたものとはちがいます。現在の万葉集より歌数が少なく、解説もついていないものが相当数あったはずです。「現」万葉集にあって「原」万葉集にない資料こそが万葉史観です、この資料はいったん類聚歌林にとりこまれたと考えられます。

 徳田が「原万葉集」の巻一、二から感じとった時代感は、養老四年以前に藤原不比等が主導してまとめられた原万葉集のものではなく、万葉史観の風味づけされた現在の万葉集の巻一、二だったのです。

 ところで徳田は、巻一、二の完成を養老律令撰定、日本書紀完成とむすびつけていますが、これを時間的な関連としています。もちろん、時間的な関連のうらには、それらを完成させる朝廷の時代空気というか、思いがあるわけです。徳田はそれを当然のこととして、それ以上の説明はしていません。しかし、以上みたように、養老五年の万葉集巻一、二の編集作業は日本書紀の完成とたんに時間的に連動しているだけではありません。この年に万葉集、あるいは万葉史観と書紀が編集的に一体となるのです。養老四年に完成した日本書紀は、万葉史観に連動するよう養老五年に部分的に書きかえられたのです。これが万葉史観の主題です。万葉史観の仕組みについては、このあと紹介します。(つづく)



●養老五年の原万葉集 Ⅱ

2012-04-08 | 1 原万葉集の成立 原万葉集ともいうべき巻一、二は、基本的に時代順に歌がならびます。しかし、初っぱなの巻一冒頭部で、この原則がくずれます。

 あきらかに歌の時代配列に逆転がみられるのが、8ー15番歌のあいだです。この八首は、8番歌、9番歌、10ー12番歌群、13ー15番歌群の四つのグループにわかれます。これを通説の時代順にならべかえると、「9」→「10ー12」→「13ー15」→「8」となります。

 9番歌と10ー12番歌群は、斉明四年(658)の斉明天皇の紀国行幸のときです。10ー12番歌群は正体不明の中皇命の紀国旅行で詠われたことになっていますが、左注がこれを斉明天皇の紀国行幸へと変更しているので、斉明の紀国行幸時の歌だということになります。

 8番歌と13ー15番歌群は、通説では、斉明が百済救援のために難波から筑紫へむかう途中で詠まれたことになっています。斉明七年(661)のことです。13ー15番歌群は播磨(はりま)沖で、8番歌は伊予(いよ)の熟田津(にぎたつ)で詠まれたとされます。難波を出発して筑紫を目ざすなら、播磨を通過してから伊予へといたることになります。通説どおりなら、播磨灘のほうが、伊予より時間的に先になります。倭(やまと)の三山歌(13ー15番歌群)は中大兄が詠んだとされる播磨灘の歌で、額田王作とされる8番歌は伊予の歌です。あきらかに歌の配列がぎゃくです。

 歴史的事実としての時代配列の矛盾に、これまでは巻一冒頭は歌が時代順に配列されていなかったのだろうとされます。そんなことがあるでしょうか。歌がつくられた時間経過がわかっているのに、それをあえてランダムに配列するほうが編集的にはやっかいです。

 ふつうに考えて、8ー15番歌の時代配列の乱れをたまたまの錯誤とするわけにはいきません。というのは、8番歌一首を、13ー15番歌のうしろに移動するだけで時代配列の矛盾は改善されるからです。それを訂正していないということは、いっけん矛盾する時代配列は確信的な編集だったということです。

 つまり8ー15番歌は、巻一原撰部とはちがった編集方針のもとでとられているのです。直感的に不自然な編集の痕跡をのこす3ー21番歌の十九首は原撰部本来の編集方針とは別の編集の手がはいっています。しかも、このなかには、ほぼ確実に原撰部になかった歌があります。巻一冒頭の1ー21番歌の編集は、歌集万葉集とはまったく別の編集方針のもとでおこなわれたのです。

 もともと原撰部になかったと考えられる歌は、3ー4番歌群、13ー15歌群です。これはこのあと確認します。(つづく)
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養老五年の原万葉集 Ⅰ
2012-04-07 | 1 原万葉集の成立 以上が万葉集巻一成立の通説です。しかし、万葉史観の万葉成立の考えはちがいます。原撰部にふくまれる3ー21番歌の十九首は、もともと原撰部にはなかったか、あっても後の編者の手がはいっている可能性が高い。この十九首はすべて万葉集のほかの歌とはちがう編集上の細工がほどこされています。

 一連の歌群はふつうに読んで、あきらかにおかしい解説、変則・異例表記のオンパレードです。おかしな解説にはきまって山上 憶良(やまのうえおくら)の『類聚歌林(るいじゅうかりん)』が引用されています。類聚歌林は万葉集に九つ引用されていて、そのうちの五つが巻一冒頭の21番歌までにでてきます。類聚歌林引用の解説の異常さはこれから検討しますが、類聚歌林引用の解説もおいおい紹介します。類聚歌林引用の五首は、6、7、8、12、18番歌の五首です。十九首の尋常ならざる編集は、ほかの原撰部の歌と明確に一線を画します。

 十九首の歌群と、これに関連する歌群の不自然な案内、これこそが万葉史観です。万葉集の不自然な案内にしたがって日本書紀の記事をたどっていくと、書紀の歴史に修正がかけられていくのです。これが万葉史観のテーマです。そこで、ここでは万葉集の成立を確認するために、問題の十九首がもともと原撰部にあったのではなく、あとで追加、あるいは編集的な細工をほどこされた可能性を指摘します。

 どのようにおかしいか、具体的に13-15番歌で確認します。


[万葉集]巻一の13ー15番歌群

  中大兄(なかのおおえ) 近江宮御宇天皇 三山の歌一首(題詞)

○香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かく
 なるらし いにしへも しかなれこそ うつせみも 妻を 争
 ふらしき (巻一 13)
 ◇かぐやまはうねびををしとみみなしとあひあらそひき かみよ
  よりかくなるらし いにしへもしかなれこそうつせみもつまを
  あらそふらしき

  反歌

○香具山と耳梨山とあひし時 立ちて見にこし 印南国原 (巻一 14)
 ◇かぐやまとみみなしやまとあひしとき たちてみにこしいな
  みくにはら

○わたつみの豊旗雲に入り日さし 今夜の月夜 清明くこそ (巻一 15)
 ◇わたつみのとよはたぐもにいりひさし こよひのつくよあき
  らけくこそ

  右の一首の歌は、今案ずるに反歌に似ず。但し、旧本この歌
  を反歌に載せたり。故、今この次に載す。また紀に曰く、天
  豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇の先
  の四年乙巳に、天皇を立てて皇太子となすといふ。(左注)


 この題詞は、ながめるだけならとくに問題あるようにはみえません。「中大兄という人物がつくった三山の歌一首です」。さらにそのなかに注釈がはいって「この作者は近江宮で天下を治めた天皇のことです」、以上が題詞の情報のすべてです。

 この題詞のおかげで、三角関係をテーマに詠まれた大和三山歌が、のちに天智天皇となる中大兄作であることを知ることができます。しかし、この題詞は、万葉集の編集ルールから大きくはずれます。ルール違反はたんなる言葉の置きかえといったものではありません。ルール違反のベクトルはあきらかに中大兄の身分をおとしめる方向へむいています。これほど失礼な題詞はほかにはありません。どう失礼か、確認します。

 この題詞には万葉集の編集ルールにそわない表記が二つあります。原文はわずか十五文字しかないのに変則表記が二つもあるのです。

 万葉集は天皇の子どもには、天皇の子どもあることを明確にするために名前のあとに「皇子」をつけます。しかし、この題詞には皇子がつきません。「皇子」がつかない天皇の子どもは中大兄だけです。ここは中大兄を呼びすてしているのです。左注には、中大兄が「皇太子に立てられた」とあるので、皇太子を呼びすてにしたことになります。

 中大兄を天皇の子どもとみとめない表記はもう一つあります。万葉集は天皇の子どもの歌は「御歌」と表記します。しかし、この題詞はただの「歌」としかありません。中大兄の歌を、天皇の子どもの歌とみとめていないことになります。

 この題詞は、古くから注目されてきました。その表記の異常さからです。これまでの研究者はこの異常さを、題詞を書いた編者の単純ミスだとか、原資料にあったものをそのまま転写したのだとか、呼びすては親しさのあらわれなどと説明しています。

 そんなことがあるでしょうか。二つの異例表記のベクトルは、ともに中大兄を天皇の子どもとみとめない方向をさしています。最高権力者となった人物の肩書きを、ケアレスミスでおとしめたままなどということじたい考えられません。そのありえないことがくりかえされる。これは編者の確信的な細工というほかありません。最高権力者にこれほどの不敬をはたらいて、これを親しさのあらわれなどというのはのんきすぎます。(つづく)
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万葉集の形 Ⅳ
2012-04-07 | 1 原万葉集の成立 万葉集はどのように成立したのか。すでにみたように、これについて合理的に説明するのは困難です。というより、よくわからないのです。万葉集に一貫した編集方針があるようにみえません。その編集がいくつかの段階をふんでいるのはまちがいありませんが、それがどのような段取りをへていったのか、これがまったくみえないのです。

 いっぱん的に、万葉集は巻一、巻二がコアとしてあり、それをもとに歌が追加されていって現在の形になったと考えられます。万葉集の最終編者はすでにみたように、橘諸兄とか、大伴家持のようですが、原万葉といわれる巻一、二の編者についてはほとんどわからないというのが現実です。

 原万葉集といわれる巻一、二も同時にまとめられたわけではありません。まず巻一が編集されて、つづいて巻二がまとめられたと考えられています。

 万葉集の巻としてまっさきに編集された巻一も、いっきに編集されてはいません。通説では、巻一はおおもととなる原撰(げんせん)部と、それにつづく増補部にわかれます。先行する原撰部が一ー五三番歌とされます。さらに原撰部に三一首が追加され、巻一は最終的に八四首構成になります。くりかえしますが、これはあくまで通説です。

 巻一の構成をくわしくみます。巻一には、つくられた時代ごとに標目(ひょうもく)がたてられます。標目は宮殿名で表記された天皇で時代を特定します。これにより、歌がつくられた時代がわかる仕組みになっています。

 念のために、巻一にでる標目のすべてを引用します。上が標目、下がその標目にふくまれる歌番号です。

 ⊂万葉集⊃巻一の標目

  泊瀬朝倉宮御宇天皇代      1  番歌
  高市岡本宮御宇天皇代      2-6 番歌
  明日香川原宮御宇天皇代     7  番歌
  後 岡本宮御宇天皇代       8-15番歌
  近江大津宮御宇天皇代      16-21番歌
  明日香清御原宮天皇代      22-27番歌   ↑
  藤原宮御宇天皇代        28-53番歌 ここまでが原撰部
                  54-80番歌 これ以降が増補部
       (寧楽宮)標目なし  81-83番歌   ↓
  寧楽宮       標目あり  84  番歌

 泊瀬朝倉(はっせあさくら)宮に御宇(あめのしたしろしめ)す天皇は雄略(ゆうりゃく)です。同様に高市岡本(たけちおかもと)宮は舒明(じょめい)、明日香川原宮と後岡本宮は斉明(さいめい、皇極=こうぎょく)、近江大津(おうみおおつ)宮は天智(てんじ)、明日香清御原(あすかかわら)宮は天武(てんむ)、藤原(ふじわら)宮は持統(じとう)、文武(もんむ)、元明(げんめい)です。藤原宮の三天皇は、原撰部が持統だけ、増補部が文武と元明です。したがって、持統朝までが原撰部となります。

 原撰部とされる泊瀬朝倉宮から藤原宮の持統朝までは、原撰部の歌の題詞と左注が標目にある天皇と同時代の解説をします。たとえば、天智天皇の「近江大津宮御宇天皇代」の標目では、天智の肩書きを天皇、大海人皇子を皇太子としています。これにたいして、増補部はすべて元明天皇の時代が起点になっています。つまり、天皇とあれば元明を、太上天皇とあれば持統を、大行天皇とあれば文武をさします。

 この時間のとらえかたの違いが、巻一を原撰部と増補部にわける根拠の一つになっているようです。

 さらに増補部をこまかくみます。すると、増補部もすべての歌が同時にとられてはいないことがわかります。

 原撰部の時間表記は天皇の代までですが、増補部になると年号で年を特定します。追加された最初の五四番歌は、題詞に大宝元年(七〇一)の年代がでてきます。大宝(たいほう)元年は文武天皇の時代です。つぎにでてくる年が大宝二年、ついで慶雲(けいうん)三年(七〇六)、和銅(わどう)元年(七〇八)、同三年、同五年です。和銅三年に寧楽(なら)遷都しているので和銅五年は寧楽遷都後ですが、この年の八一ー八三番歌は「藤原宮御宇天皇代」の標目にふくまれます。そして、このあとにつづく最後の八四番歌に「寧楽宮」の標目がつきます。

 この「寧楽宮」ですが、標目の位置が変則です。標目は同じ時代の歌グループの最初におかれます。標目のあとには、標目のしめす天皇の時代の歌がつづきます。標目が指定する時代は、つぎの標目がたてられるまでおよびます。そうだとすると、最後の寧楽宮の標目は和銅五年の前にでてこなければなりません。藤原京から寧楽(平城)京へ遷ったのが和銅三年(七一〇)三月だからです。

 このため、増補部のうち、すくなくとも最後の八四番歌はほかの歌よりあとにとられたことはまちがいないと考えられています。(養老五年の原万葉集につづく)



●万葉集の形 Ⅲ

原万葉集の成立 万葉集がいつ成立したのか、これは万葉集が日の目をみたときから大問題でした。万葉集の成立にふれた文献がほとんどないのです。そうしたなかで、もっとも古く万葉集についてとりあげたのが、『古今集(こきんしゅう)』序と『新撰万葉集(しんせんまんようしゅう)』序です。その古今序に、つぎのようにあります。

「昔平城天子、詔ニ侍臣-令レ撰ニ萬葉集-、自レ爾以來、時歴ニ十代ー、数過ニ百年-」
 むかし、平城天皇が万葉集を編集させる詔をだし、それ以来、天皇十代をへて、年をかぞえるに百年がすぎたというのです。これから平城(へいぜい)天皇時代に勅撰(ちょくせん)和歌集として完成したと考えられてきました。

 長いあいだ、古今序がそのままうけいれられてきたのですが、江戸時代にはいって契沖(けいちゅう)が大伴家持の私撰和歌集だとの説をだします。契沖の説に説得力があったため、それ以降は契沖説が一時的に定説化します。契沖の説は補完されながら、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)へとひきつがれます。

 編者としては、家持のほかに橘 諸兄(たちばなのもろえ)もあげられます。左大臣までのぼった諸兄がでてきたことで、万葉集勅撰説も見直されるようになります。

 明治以降も契沖の説が有力ですが、もちろん異説もおおくあります。編者については大伴家持が主体的に、あるいは何らかの形でかかわったということで結着しています。これに橘諸兄がからんできます。諸兄にかんしては、栄華物語(えいがものがたり)がとりあげています。
「むかし高野の女帝(孝謙=こうけん=天皇)のみよ、天平勝宝五年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等あつまりてまんようしうをえらはせ給ふ」

 これから、諸兄が有力な撰者とみられるようになります。ちなみに、天平勝宝五年は西暦で753年です。

 勅撰か私撰かも問題です。家持編者説をとる研究者でも、意見が分かれます。勅撰説をとるのが折口信夫(おりくちしのぶ)、私撰説が沢潟久孝(おもだかひさたか)です。もちろん、ほかにもおおくの有力な説があって、定説をみるまでにはいたっていません。

 これまででている説にかんして総じていえることは、万葉集が歌集として独立した存在だということです。純粋歌集として孤高をたもっているという理解です。この裏には、万葉集は世間から超絶していなければならない、という思いがあるようです。万葉集は俗世にけがされてはならない、素朴でなければならないのです。万葉集の研究者には、その考えの底流に、万葉集は純粋に歌集でなければならない、という文学至上主義があるようです。

 万葉集はあくまでも文学作品で、政治や歴史などからは超越していなければならない、古事記や日本書紀とは無縁でなければならない。そう考えられてきたのです。無垢で、素朴でなければならなかったのです。これこそ「万葉集の発見」の成果なのでしょうか。(つづく)




●万葉集の形 Ⅱ

原万葉集の成立 万葉集がどうして書紀の歴史を修正できるのか、ちょっと信じられないかもしれません。万葉集はいうまでもなく歌集です。しかも、大伴家持の私歌集と考えられています。プライベートな歌集が朝廷の正式な歴史書の記述を修正する、ふつうに考えればありえません。しかし、万葉集はさまざまなサインを発して、読者を書紀の記事へと案内します。そして、そこにえがかれた歴史を修正します。

 万葉集と日本書紀が編集的に連動しているなどといってもうけいれられないかもしれませんが、事実として万葉集と書紀に接点がないわけではありません。万葉集は書紀の記事を引用して、歌の解説をしています。

 もちろん、これだけなら万葉集の一方的な都合ということになりますが、万葉集は書紀をたんなる参考文献にしているのではありません。万葉側による書紀引用の解説がきわめて恣意的です。あきらかな編集意図をひめて読者へうったえています。読者を万葉集から書紀の記事へ誘導するサインにしているのです。

 万葉集の書紀の記事への案内はいたって客観的です。万葉編者の案内ルールにしたがえば、よけいなことを考えることなく、書紀の記事へとジャンプできます。万葉集と書紀の編集が連動しているからです。案内された書紀の記事は、万葉編者の歴史、政治的な意図をあきらかにします。

 万葉史観は万葉集の案内で日本書紀を解読していきますが、いきつくさきはこれまでの常識とはかけはなれています。万葉集の主張はわかっているだけでも、三つあります。一つは斉明天皇の家族関係の見直し、天智天皇が筑紫から畿内への東征王であること、そして孝徳ー斉明朝が二王権並立だったという主張です。今回は天智東征がテーマです。天智が筑紫をバックにした王権であることがあきらかになります。これについては、このあとくわしく確認します。

 一見するときわめて恣意的ともうつる、万葉集と書紀の編集が相互に連動するという説は、しかしながら万葉史観の独創ではありません。徳田浄(とくだきよし)がすでに指摘しているところです。徳田の説はこのあと紹介します。(つづく)



●万葉集の形 Ⅰ

原万葉集の成立 万葉集は日本最古の歌集として、古くから親しまれてきました。素朴に、大らかに、日本人の心が詠われています。万葉集には季節の自然を詠みこんだ歌や、親子の情を吐露した歌など、今の日本人が読んでも心うたれるものが数多くふくまれます。もちろん、素朴で、大らかだけではありません。近代的な感性につながる先進的な作品もあります。

 七世紀の中ごろから八世紀の中ごろまでの、いわゆる万葉の世紀の歌を中心に四千五百首を二十巻にまとめた歌集、それが万葉集です。

 これら作品は純粋に文学作品として鑑賞するものとされてきました。たしかに、万葉集は日本を代表するすぐれた文学作品です。千二百年以上も昔に生きた大伴 家持(おおとものやかもち)の感性は、いまを生きるわたしたちの心にひびいてきます。

 と、ここまで書いて、何か引っかかります。ここに書いたことが、万葉集の説明として大きく外れているということはありません。それでも気になります。ここにある万葉観は、万葉集が国民歌集だとの前提の理解だされるからです。

 常識的な万葉集理解は、明治時代に入ってから一部文化人によって誘導されたものだというのです。『万葉集の発明』(品田悦一)によると、鎖国がとけて西欧の文学が入りこむ動きのなかで、それでただの歌集でしかない万葉集は国民歌集へと格上げされます。西欧文学をにらんでの国民文学運動です。一言でいえば、西欧を意識したナショナリズムです。この愛国心がなければ、現在のような万葉集理解は存在しなかったのです。

 たしかに、第二次世界大戦前後に万葉集にふれた人たちは、万葉集にかたよったイメージをもっています。『万葉集の発明』が指摘するように、自然を詠んだ歌、愛国的な歌など、きれいにまとまった歌の集まりだと素朴に信じこんでいたようです。万葉集の文化講座に参加される年配者はいまでも、例外なく「万葉歌は美しいものばかり」と思っています。彼女たちの知識にない万葉歌を紹介すると、「こういう歌も万葉集にあるんだ」という反応です。これが発明された万葉集の理解なのでしょう。

 それなら発明される前の万葉集とはいったい、どんな存在だったのでしょうか。万葉集の本当の形はどうなっているのでしょうか。

 万葉集はたんなる文学作品ではありません。鑑賞する詩歌集であると同時に、息を殺して耳をかたむけるべき政治、歴史の書でもあるのです。愛の告白、戯れ、別れ、こうした歌そのものがメッセージといえばメッセージですが、それとはべつに万葉集には明確な歴史観にもとづいた政治的メッセージがこめられています。もちろん、万葉集の大部分は歌集です。その端々に政治的な主張がこめられているのです。

 これが発明される前の万葉集です。文学作品であると同時に、ねつ造された歴史と政治の告発の書でもあるのです。読者が古い先入観や、かってな発明などせずに、冒頭一番歌から二一番歌までを鑑賞したなら、権力への異議申し立ての声が聞こえてきます。少なくとも万葉集がただの歌集でないことくらいは感じられるはずです。

 万葉集の歴史的、政治的な主張が万葉史観です。万葉集の案内で、日本書紀にえがかれた歴史の修正をする、万葉史観です。(つづく)



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