BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

事語り

2024-07-06 | まさしこと
  

0706


 
文化センターの講座を聞いた。単発に、興味を起こして源氏物語の講座である。講師の物語社会学を期待したわけでもないが、専門分野のことに変わりはない。源氏をひらく 大臣家の物語というタイトルだった。
物語りのままに聞けばそれでわかる話だから、社会学の手法にはない。最近の話題に合わせて言えば、テレビのドラマ仕立てで見ていると、平安社会がどうにも狭い、画面も人間関係の奥行きもない、それには耐えられないのであるが。
なぜだろうかと、毎週に見てもないから言えないんだが、演出のことか。小道具のセットか、そもそも役者の演技がらしくないのかと、そうぞうがゆかないのはセリフのことにもなろう。
作者個人のことと物語の創作とは異なるので、講座を聞いて何かを果たしたか、よくわからない。
 

ウイキペディアより
>内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。
沿革
令外官ではあるが、起源は令制以前にさかのぼり、大化元年(645年)から孝徳・斉明・天智の3代において内臣に任じられた中臣鎌足(藤原鎌足)が薨去の前日に大臣位を授けられたことに始まる。内臣は天皇に近侍して政務に参画した要職であり、鎌足の後、元正天皇朝に藤原房前が、光仁天皇朝には藤原良継・魚名が内臣に任じられ、良継・魚名は内大臣に昇っている[1]。令制大臣に次ぐ常置の官として定着したのは平安中期の藤原道隆から
『公卿補任』
源師房 康平8年6月3日
(1065年7月8日) 延久元年8月22日
(1069年9月10日) 後冷泉、後三条 土御門
源雅実 康和2年7月17日
(1100年8月24日) 永久3年4月28日
(1115年5月23日) 堀河、鳥羽 久我

光源氏
源氏物語の登場人物 > 光源氏 光源氏(ひかるげんじ)は、紫式部の物語『源氏物語』の主人公。平安時代の公卿。一世源氏。近衛中将、大将、大納言、内大臣、太政大臣、准太上天皇を歴任。広大な四町の邸宅を造営し六条院と呼ばれる。『源氏物語』五十四帖中第一帖「桐壺」から第四十一帖「幻」まで登場する。

准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう、だいじょうてんのうになずらう)は、太上天皇に准じた待遇のこと。
『源氏物語』に、主人公光源氏が「太上天皇になずらふ御位」に就いた旨の記述がなされていることから、しばしばあたかもそのような具体的な地位や称号が存在したかのように誤解されるが、准太上天皇は、地位や称号ではなくあくまでも待遇である。「じゅんだいじょうてんのう」という名詞はもともと存在せず、本来は「太上天皇に准ず」「太上天皇になずらふ」と文として読み下すのが正しい。
^ 山中裕のように小一条院の例が登場する以前に紫式部が「太上天皇になずらふ」存在を想定しえたかを疑問視して、紫式部の没年の通説とされる長元5年(1016年)説を否定して、敦明親王の皇太子辞退時には紫式部は健在でこの事実を元に執筆あるいは加筆されたとする見方もある。







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