BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

言語の主体

2020-07-09 | 日本語学2020

日本語文法の説28 言語主体
2019-07-08 | 日本語文法

動作主体と言語主体に、主語と主観とがかかわる。文における主語述語の現われを分析して、動作作用の現象を表現する動詞述語には主語としての捉え方が分かりよい。存在を言う動詞をふくめてS-P構造にとらえた文法の考え方が日本語に翻訳された、その時期の翻訳概念には、文の構造は必須の捉え方に主体を客体と対峙した主語必須の要素であったから、主語が日本語に定着した。しかし、その主語の概念には一方で主体客体として主観客観をなぞらえるようになる。この議論は日本語に言語としての難しさがあった。主客合一の議論が日本語にある認識となるのは、そもそもに主観から独立して存在する外界の事物を客体として、かっかん とすることがあったからである。この表現法に、主語述語を動作主体と見る表現方法に解釈をしてしまっただけの論理が日本語では展開されている。すなわち主語廃止論である。ここで主語が廃止できるという理論は可能かどうか、日本語に認める主語を言語主体としての表現者をもって表現主体と捉えることがあり、動作主体の主語と言語主体の主語、このときにこの主語の語を主体とだけ置き換える議論があるので、表現主体をもって主語とする日本語を分析しなければならない。

日本語文法の説27 言語主体の論理
2019-07-07 | 日本語文法

言語主体は話し手のことである。話し手と主体といえば、聞き手が客体となる。しかし、ここで文法論理の主語を考えると、この主体という語は17世紀になって、デカルト哲学が唱えた、意識するわれ、のことであると、理解をして、文法教育者は主語を主体と考えてしまう。この主体は、もと、が言う、ラテン語での、コギト エルゴ スム といった、わたし自身のことである。英語では、 I think, therefor, I am.となる。これは人間であるわたしが主体であると、と言っていて、主体を世界の神、ローマ教会が決めたGodではないと、哲学の懐疑を明らかにしたことから、世界の考え方が転換する、したがって、主語であるSubjectが、言ってみれば、主体となる、という論理になる。言語と哲学の議論はそれをどこまで捉えるか、主語をそのまま主体において捉えていくのはよいとして、それが日本語に同様であるかどうかは考えなければならないことである。言語主体を神ではないわたしとした言語観はその哲学の論を踏まえて、その言語において展開しているとみて、日本語における論理では、主語を取り入れて言語分析をしたメタ言語の議論であるから、言語主体を主語とすることには変わりなくても、その主体は話者そのもの、言語主体には文における主語とが異なった論理が働いている、日本語はそういう言語の捉え方をすると考えなおさなければならない。



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