30日
旦那ちゃんは夜中に1度吐きました。これはいよいよもってヤバイとなり、9時過ぎに市内の病院
で診てもらうことに。診断の結果「食あたり」とのこと。
ご飯を食べていないので、ヘロヘロになりながら私の両親とは別れ(この日に帰阪
しなければいけなかった為)いざ、内子町へ。
八日市・護国地区は、江戸時代から明治時代にかけて木蝋(モクロウ)の生産で栄え、
当時の面積を残す商家群が約600mにわたりのびています。
「昔町並み保存地区」として、写真のような町並みが坂の上まで続いていて、
実際に住んでいらっしゃるとこもありました。
岐阜の妻後宿や旅籠宿のような感じでした。GWですが、人はあまりおらず、
ゆっくり見ることができました。

お土産屋にいた看板猫
お人形みたいにほとんど動かないんです。

この町並みを歩いていると中学生らしき子供達が率先して
「こんにちわ」と言ってくるのです。すれ違う子達全員が。
知らない人に挨拶するなんて、今の世の中考えられないですが、
この町は「みんなで守って行こう。」という気持ちがとても
現れていて、なんだか素晴らしい気持ちになりました。

内子中学校をちょいと拝見。
こんな学校で勉強したい

お寺好きな旦那ちゃんのお父さんが観光案内所で聞いた
「高昌寺」の涅槃像(ネハンゾウ)を見にいきました。
そもそも「涅槃像」が何か知りませんでした。
涅槃像とはお釈迦様の死去した時の姿と言われるもので、ほとんどの涅槃像は、
右手を枕とするか、もしくは頭を支える姿である。基本的には頭は北向き、
顔は西向きとされる。これが後に、一般の俗人が亡くなった時に
「北枕」とされる由縁となったそうです。
高昌寺の涅槃像は日本一だそうです。偶然行ったにしては本当貴重な体験をし
とても勉強になりました。

人と比べると大きさがわかりますよね
この後、遅めの昼食をとり(旦那ちゃんはもちろんご飯は食べていません)
次は「内子座」へ。

この劇場は、木蝋や生糸等の生産で経済的にゆとりのある時代に、芸術、芸能を
愛してやまない人々の熱意で生まれた木造の劇場です。あるときは、歌舞伎、人形芝居、
あるときは落語、映画等、農閑期には、もてはやされ出し物が内子座を彩り、
人々の心の糧として大切にされました。
内子座は、大正5年2月(1916)大正天皇即位を祝い創建。木造2階建て瓦葺き入母屋造り。
ホールとして活用後、老朽化のために取り壊されるところ、町民の熱意で復元。
昭和60年10月、劇場として再出発したそうです。
館内全てを見ることができました。

舞台上からの撮影
「奈落」も見ることができました。単に通路としても使われますが、舞台装置も置いてあり
昔の劇場の地下は、地面を掘ったままで「湿気が多く」「汚く」「薄暗く」と、
まるで地獄のような場所だったため「奈落」と名付けられたと言われています。
「奈落に落ちる」ということわざも生み出しています。
本当に昔のことを勉強するには目でみて楽しんで勉強するのが
一番良いのかもしれないですね。
この日の晩、とうとう旦那ちゃんは寝込んでしまい、せめて体力をつけるよう
「ウィダーインぜりー」を飲みました。
旦那ちゃん両親と私とで、本当は串かつの予定だったものを普通のフライにして
お母さんが「○○ちゃん、温かいうちに食べちゃいな」とまるで、
お家にお邪魔した時のような感じで晩御飯を食べました。
2日目終了!!