メンタルケア ~希望へ向かって!~

現在、様々な依存症を含む精神疾患や、なかなか回復しない方々へ本当の貴方らしさを取り戻して戴きたい願いを込めて書いてます。

私の経緯

2017年12月29日 18時56分28秒 | 日記
自己紹介も兼ねて、私のこれまでの経緯を、したためようと思います。

私は、現在44歳、バツイチ独身で、山口県内で会社員をしています。趣味はアウトドア。キャンプが好きで、焚き火しながら酒を飲むのが楽しみです。年に数回、友人と一緒にキャンプに出かけ、一晩中語り合うのが至高のひとときです。

では、私の生い立ちから書かせていただきます。とてもネガティブな内容になりますが、ご容赦下さい。

私は、生まれながらにして遺伝的な発達障害があり、聴覚過敏や知能の遅れ、チック症などがあり、保育園の時からあまり他の園児とも遊ばない子供でした。

私の家庭環境は貧しく、父親は酒乱でいつも酒飲んで帰っては、家の中で大暴れして、母親に暴力奮ったり、私には妹弟がいるのですが、私ら子供にも暴力を振るったりしていました。
近所に飲酒運転で隣家に突っ込んだり、喧嘩したりして、警察に捕まったことも一度や二度じゃありませんでした。

私は、そんな父親の酒乱に怯え、臆病な性格になり、学力も低かったのもあって、暗く社交的じゃない子供で、小学生、中学生のころは学校で、イジメにあっていました。そのうち登校拒否になり、学力もますます悪くなり、中学三年生のころは、高校に進学できるかどうかも危ぶまれていました。

ある日、父親が酔っ払って帰ってきたとき、母親に大声で怒鳴り散らしてたあと、私が中間テストの試験勉強をしていたときに、父親が私のそばに来て、机の上にあった貯金箱を叩き割り、酒買ってこい!って、紙幣を投げつけてきました。
私は、怒りを抑えることができず、台所にあった包丁を取り出し、父親を刺しに向かいました。
私は、剣道をしてましたから、腕力には自信があったのですが、父親の力には適わず、包丁を取り返され、私目掛けて斬りつけてきました。
私は、玄関にあったバットを持って抵抗し、揉み合いになり、父親がひるんだ隙にバットで父親の頭を殴りつけ、包丁を落とした隙に外に逃げ出しました。
一晩中、外で過ごし、明くる朝、父親が酔いが冷めるのを見計らって家に帰り、二日酔いで寝込んでる父親に、昨夜のことを謝れと言ったら、全然覚えてないというのです。

母親も、このことがきっかけでノイローゼになり、その頃の父親は、暴力団関係の会社から借金をしていて、返済ができず、いつもヤクザが家に取り立てにきていました。 
母親も、こんな環境じゃ子供らにとってもよくない。私の高校進学も出来ないと思い、父親と離婚しました。

そして、しばらく母親の実家で過ごし、そこで勉強して、何とか一番偏差値の低い高校に進学する事が出来ました。
母親の実家の近くに借家住まいし、母親と妹弟で母子家庭として高校三年間過ごしました。 

私が、父親代わりになって将来、母親を安心させてあげたいと決意し、高校になってからは公務員模擬試験を受け続け、刑務所の看守として就職することができました。
もう、がむしゃらに勉強に打ち込み、小学生、中学生のころは通信簿で、いつも最低評価だったのが、公務員になれたことは奇跡でした。
それも、母親と妹弟を守らないとの思い一心で努力した結果でした。

私が、刑務所の看守として拝命し、母親に毎月仕送りしてました。ところが、別れた父親が、母親のいる借家の場所を突き止め、今でいうストーカーをするようになり、そのうち会わせろと言ってきて、借家に毎日居座るようになりました。
母親も、あまりに別れた父親がしつこく復縁を迫ってきて、復縁しないとお前ら殺して、ワシも死ぬと言いだし、怖くなって仕方なく復縁をしました。

私は、大反対でしたが、父親のしつこさに屈した母親は自立することができず、また父親と復縁し、妹弟とともに暮らすようになりました。 

私は、守るべきものを見失い、両親に失望して、仕事に対する意欲を失いました。
そんな心荒んだ時期に、新興宗教にはまってしまい、職場の刑務官としての実務と、新興宗教の教義のギャップに苛まれ、ノイローゼになり、眠れなくなったり、抑鬱状態に陥り、仕事を休むようになりました。

そして、仕事を休んでも気持ちは晴れず、ますます寮に引きこもるようになり、新興宗教にも足が遠退いて、毎日酒をあおるようになりました。
それでも、抑鬱状態からは良くならず、不安感や焦燥感、イライラした気分が続き、体重も激減し、とうとう精神科へ受診に行きました。

精神科医からは、うつ病と適応障害と診断され、その日に生まれて初めて、精神安定剤を服用するようになりました。1ヶ月の休養加療の診断書を書かれ、病休で休むことになりました。1ヶ月の休養期間、週に一度、診察に行き、カウンセリングを受けたりしました。

しかし、毎日薬飲みながら、週一回カウンセリング受けに行っても、心荒んだ状態は改善しません。
仕事と宗教のギャップによるストレスもあったのですが、元の原因は、守るべきものを見失い、生きる意欲を削ぎ取られたことでした。糸の切れた凧のように、一度飛んでしまったら、どこに行くか分かりません。

幼少期からの発達障害と、父親から受けたトラウマ、両親への失望と、仕事と宗教のギャップによるストレス、発達障害の人は適応障害も併発していることが多く、不器用で、社会性や人間関係のコミュニケーション能力に欠陥があり、物事に強くこだわる特性があります。臨機応変が利きにくく、割り切って立ち振る舞えない。

そういう、元々の特質もあって、度重なるストレスに対処できず、根が深い心の傷を負ってしまったんだと思います。

結局、精神状態は緩和せず、カウンセリングも途中から行かなくなり、薬だけで誤魔化す日々が続き、薬も一時的で治す効果はなく、そのうち、酒と薬を同時に飲むようになり、作用が強まりラリってしまい、その恍惚感に溺れ始め、だんだん、まともな考えや感情が鈍くなっていき、薬の多剤服用が始まりました。

とても、復職できる状態ではなくなり、ラリって幻覚が見えたり、誰かに追い回されてるような被害妄想になり、復職を諦めて、依願退職しました。

次の仕事を見つけ、就いたのはいいんだけど、薬は手放せない状態で、人間関係に苦しんだり、仕事でミスを繰り返したりして、その仕事も辞めました。

それから、今日にいたるまで職を11回変わっており、途中で、一度彼女ができて恋愛結婚し、整体師の個人事業もしましたが、フランチャイズ詐欺に遭って、莫大な借金ができ、損害賠償だけじゃ返済しきれなくなり、自己破産しました。

妻にも離婚され、子供が男の子ひとりいますが、向こうに引き取られ、毎月、養育費を払いながら子供と面会交流し、今の仕事に就いて二年が経ちました。

今の仕事は、割と続いてた方ですが、薬の影響で通勤時に追突事故を起こし、車に乗るのが怖くなって、仕事を休むようになりました。

その頃は、既に、双極性障害、適応障害、発達障害、不安障害で、自立支援受給者証で精神通院をしておりました。
かかりつけのクリニックの薬だけじゃ足りず、精神科ハシゴ、いわゆる重複受診を繰り返し、多剤服用(OD)するようになり、前のブログでもかきましたが、多剤服用がバレて、精神病院に入院するハメになり、薬物依存症と診断され、入院中、激しい離脱症状にのたうち回り、5カ月の入院期間を終えて、それまで30種類以上服用していた薬も今は6種類に減薬され、何度かスリップもしましたが、現在は、回復に向けて、筋トレ100回毎日欠かさずやる肉体改造や、ウォーキング。いろいろな回復プログラムに参加してきて、毎日、アディクトの病魔と格闘しながら、スリップは今のところなく、暮らすようになりました。

精神疾患の根本治癒は薬じゃ出来ないと、身を持って底尽き体験をして、分かりました。
薬物依存症も、自分ひとりの意志の強さや努力だけでは。決して出来ないとも知りました。

まだまだ、回復者とは言えませんが、薬物依存真っ只中にいる人、回復者のスリップしない日々の努力の仕方。薬物依存と言うことすら、まだ自覚出来ない人の気持ちも分かります。

だから、思い切って、サークルを立ち上げました。

型にはまらない。まずは、現在のありのままの心の状態を、精神の汚物を、このサークルで吐き出していただければと思ってます。

みなさまの、フォロー、コメント、メッセージ、トピック立ち上げ、お待ちしています。

あなたは、ひとりじゃない。
 
あなたは、決して何も悪くない。

生きとし生けるもの、潜在意識と呼ばれる時間も空間も超えた領域の概念では、誰も皆、ひとつにつながっているといえます。

あなたが、己を真から自覚し、孤独じゃないことを覚ったとき、必ず、本当の安心と幸福を感じることが出来るでしょう。




薬物依存症からの回復に向けて!

2017年12月28日 04時47分55秒 | 日記
はじめまして。
薬物依存症(処方薬)のkouexitと申します。初ブログですので、なにぶんビギナーなんで宜しくお願い致します。

自己紹介は後回しにして。

まずお書きしたいのは、このブログは、薬物依存症の方で、回復したいんだけど、スリップばかり繰り返している。
回復する気などサラサラない。
自助グループ(NA)、ダルクなどに通って、ミーティングに参加したり、ステップ12を学んだりしたけど、自分には合わない。理解できない。そもそも自助グループって何?

認知行動療法受けてる、または受けたけど、自分には合わない。

医者も、作業療法士も、カウンセラーも、同じ依存症仲間も、家族も友達も、心からは信頼できない。

依存症真っ最中で、薬漬けになってラリってる方。お酒とのチャンポンや、多剤服用(OD)真っ最中の方。

それの何が悪い!勝手だろって思ってる方。
とりあえず、この精神的苦痛を誰かに聞いてほしい方。
精神科ハシゴ(重複受診)してますけど何か?って方。
そんな、どん底真っ只中にいる方のために書くブログです。

回復者のご意見も、もちろん歓迎します。
綺麗事や自慢話はいりません。
とことん、落ちるとこまで落ちてやる!
そんな、現在、孤独と絶望の中に苦しんでいる方に読んで欲しいと思います。

私自身、薬物依存症と診断されて、処方薬が一気に減らされました。
それまで、精神科ハシゴしながら30種類以上の抗不安薬、抗うつ剤、向精神薬、睡眠導入剤、睡眠薬を服用していました。毎日、お酒とチャンポンしながらラリってました。

そのうち、過食症になり体重は116kgまで膨れ上がりました。
毎日、お酒とチャンポンして30種類以上の薬を飲んでたもんですから、当然、薬物耐性ができ、本来の症状緩和は弱まっていきました。

もっともっとたくさん飲まないと、これっぽっちも不安感、緊張感、イライラ、抑鬱、不眠などは治まらなくなりました。

当然、副作用の作用が強まり、薬の半減期辺りには、不安感、緊張感、イライラ、日中の車の運転中の居眠り、生汗、体の震え、動悸、息切れ、めまい、胸の圧迫感、激しい頭痛、呼吸が苦しい、全身倦怠感、興奮、躁状態、思考・感情の鈍麻、抑鬱などなど、色んな症状が現れました。

薬が切れるのが怖くて、半減期関係なく、常に、朝昼夕、寝る前、頓服を、決められたら用量、用法を守らず、何が何の薬が訳分からず、とりあえず目にした薬を数錠、四六時中飲み続けてました。
常に身体の血中に薬が回ってる状態でした。

そんなこと繰り返してるうちに、仕事に行く通勤中、居眠りして追突事故を起こしました。幸いにも、物損事故で済みましたが、警察には事情を聴かれ「目が虚ろだけど大丈夫?」って言われ、とりあえず息の匂いを確かめれました。酒は前の日に飲んではいましたが、匂いはしなかったので、アルコール検査はしなくて済みました。

とりあえず、このまま運転すると危ないんで、今日は運転しない方が良いと言われ、保険屋呼んで事故処理したあと、会社に電話して、その日は車を近くに置いて、あとでJAFに家に持ってきてもらうようにして、会社には今日は体調悪いので休むって言って、タクシー呼んで家に帰りました。

家に帰って、ちょっと寝ようかと思い、睡眠導入剤飲んで横になりました。でも、事故後の緊張もあって、全然眠れません。そのうち昼になり、JAFが車を持ってきました。ちょっと前のバンパーが凹んでる程度で、相手の車も後ろかすった程度でした。修理出しにいく程度でもないので、自分の車は、ほっとくことにしました。

ちょっと落ち込んでたので、また不安感や抑鬱が出始めたので、たくさんあって何の薬か分からないけど、とりあえず目にした薬を数錠飲みました。
でも、全然気持ち楽になりません。

何か事故ったショックと抑鬱で、車運転するのが怖くなり、次の日から仕事休むようになりました。無断欠勤はさすがにマズいので、精神科で唯一、本来のかかりつけ医(自立支援受給者証使えるクリニック)に診断書書いてもらって《診断名 うつ状態 不安感、緊張感、不眠などの症状があり、向こう1ヶ月程度の休養加療を要する》の診断書持って、明くる日に最後の力振り絞って、コンビニで強眠打破のカフェインドリンク買って飲んで運転して、会社の総務に診断書出して病気休職しました。

それから家で閉じこもり、仕事休める安心感で、少しはマシになるかなと思ってんですが、不安感、緊張感、不眠、イライラ、抑鬱は治まらず、仕事行かなくてもいい心の隙に油断してしまい、多剤服用(OD)は、更にエスカレートしていきました。

精神科ハシゴして入手した30種類以上の薬を、それまでは、一回5錠くらい服用していたのが、一回10錠以上服用するようになり、当然、早く無くなるんで足らなくなり、病院行ってもすぐに出してくれるわけもなく、薬切れてしまいました。

しばらくは酒でごまかしてましたが、そのうち離脱症状が出始め、不安感、緊張感、不眠、イライラ、抑鬱、興奮、躁状態、生汗、震えが強まってきて、どうにもこうにもならなくなり、総合病院の救急外来へ駆け込みました。その病院は神経科外来はあるのですが入院病棟がなく、とりあえず今飲んでる薬を教えてくれと言われ、数冊あるお薬手帳の中からひとつを取り出して、神経科の医師に問い合わせてもらい、頓服を三日分だけ処方され、かかりつけ医にすぐに行けと言われ、連絡を取られ、ハシゴしたひとつの精神科に行くハメになりました。

ハシゴした精神科で事情を聴かれ、何でいっぺんに無くなるまで飲むのか、こっぴどく叱られ、他に飲んでる薬はないか問い詰められ、無いといっても信じてもらえず、紹介状書くから精神病院に入院しなさいと言われ、家族呼び出され、紹介状持って家族と一緒に精神病院に行き、あらいざらい白状させられ、その日に入院になりました。

家族は動揺を隠せず、とにかく慌てふためいて、急いで自分の家から着替えとか洗面用具とか持ってきて、入院の手続きして、診察室でこれから主治医になる医者の診察を受け、つけられたら病名が:〈薬物依存症〉他。入院治療計画書には、6ヶ月の入院と書かれてありました。

閉鎖病棟の保護室に入れられ、トイレしかない何にもない部屋で、保護衣に着替えさせられ、24時間完全監視のもと、食事は僅かなご飯とおかずのみ、ベットにうずくまり、二週間過ごしました。

激しい離脱症状は想像を絶するもので、幻覚、幻聴、興奮、全身の汗と震え、死にたくなるような恐怖感。
食事なんて、到底喉を通りません。一日中、凄まじい苦痛にうなされ、室内をウロウロしたり、ベットにうずくまって大声で叫んだり、幻覚はウジ虫がいっぱい壁とか身体にまとわりついて、幻聴は亡者のうめき声が頭から離れず、小窓から誰かがみている妄想に襲われ、耐えられなくなって、何度も殺してくれと叫びました。

薬は、1日3回 朝と夕と消灯前。
わずかな薬だけ、看護師が持ってきて飲ませる。薬いっぱい飲んでたから、それっぽっちじゃ効きゃしません。食事取れないから、途中から点滴に変わり、ベットから動けませんでした。

二週間して、ようやく四人部屋に移されました。激しい離脱症状も少し治まり、食事もまともに食えるようになりました。ただ、嘔吐が止まらず、何度も戻していました。

薬への希求願望は治まらず、常に薬への強いこだわりが、頭から離れません。日々、渇望との葛藤でした。

入院して3ヶ月した頃、体重量ったら116kgあったのが、102kgまで減量してました。もともと肥満症で、薬で浮腫んだのもあり異常でしたが、減薬と食事制限の甲斐あって、これほどまでに落ちました。
他にも、高血圧や糖尿病、脂肪肝に高脂血症があり、まあ血液検査でいつも指摘されてましたが、3ヶ月でかなり色んな数値も基準値に近くなりました。

入院5ヶ月した頃、主治医から退院してもいいと言われ、家族に迎えにきてもらい、実家に帰りました。
当面は自宅療養しながら通院することになりました。家族に薬管理を徹底するよう指示され、薬は母親が管理しました。
退院したときには、精神科の薬は6種類にまで減薬されました。

しかし、もともとの精神疾患である、双極性障害、適応障害、発達障害があるので、断薬と言うわけには行きません。
必要最小限の薬のみ残され、あとの薬は全部処分されました。精神科ハシゴしたクリニックの診察券も没収され、保険証は母親が持つことになりました。

薬物依存は回復はするけど完治はしない。常に(再発)との隣り合わせです。アディクトには一生涯、スリップの危険があります。

自分ひとりの意志の強さや努力だけでは、ほぼスリップしない人はいません。脳みそが、完全に依存症によって侵されている。覚せい剤や麻薬と一緒です。侵された脳みそは、元には戻りません。

そこで、登場するのが回復の為の様々なアプローチです。NA(ナルコティクス・アノニマス)、ダルク、ワンネス、集団認知療法、作業療法、カウンセリング、催眠療法などなどです。どれもそれぞれ、色んな特性があり、ミーティングなどで、言いっぱなし聞きっぱなしというのもあれば、まず自分が薬物依存症であるということを徹底的に認識させ、教育的に意識改革を図るもの。潜在意識を開化させ、依存からの回復を図るもの。自分なりに理解した神に委ね、ハイヤーパワーの力を信じるもの。などなど

それぞれ依存症者は、そこに至ったプロセスが異なり、価値観も違います。自分にあったプログラムのアプローチを体験してみるのは、良いことだと思います。

私が、これまで体験してきたアプローチは置いといて、ここでは薬物依存症の皆さんが、ざっくばらんに本音を語れる場として、それぞれの体験談や意見、今の現状、心の叫びなどを、コメントしあえたらいいと思ってます。

まずは、精神の汚物を吐き出して下さい。たくさんの方からのコメントお待ちしています。