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メンタルケア ~希望へ向かって!~

現在、様々な依存症を含む精神疾患や、なかなか回復しない方々へ本当の貴方らしさを取り戻して戴きたい願いを込めて書いてます。

竹原ピストル ライブイン和歌山

2018年01月10日 20時01分00秒 | 日記
YouTubeで

『竹原ピストル ライブイン和歌山』
を検索してみてください。

私達の歌ですね!
友達から、聴いてみろって勧めてもらった歌です。
  




http://j-lyric.net/artist/a04b2cc
/l03358c.html

★自助グループのご紹介★

2018年01月09日 23時46分41秒 | 日記
本日は、薬物依存症のための自助グループのご紹介です。

NA(ナルコティクス・アノニマス)

http://najapan.org/

※この会の伝統として、匿名性があるので、詳細はリンクからアクセスして、各々でご覧ください。
 


ナルコティクス アノニマスのプログラムとは?

NAは薬物が深刻な問題になった者たちの非営利的な集まり、いわゆる会である。私たちは回復の道を歩むアディクトであり、定期的に集まってお互いがクリーンでいられるよう手助けし合っている。このプログラムは、あらゆる薬物から完全に離れるというものだ。メンバーになる条件はただ一つ、それは薬物の使用をやめたいという願望があるかどうかだ。ぜひあなたも、心を開き、ここでチャンスをつかんでいただきたい。
NAのプログラムは、たいへんシンプルに書かれた一連の原理で、私たちは日々の生活のなかでそれに従って生きている。この原理が何より重要なのは、実際に効果があるからだ。
NAはどこからも拘束を受けてないし、どのような団体とも提携していない。入会金も会費もない。宣誓書に署名する必要もなければ、だれかに誓約必要もない。政治や宗教や司法関係の団体との関係もいっさいなく、何があってもどこかの監察下に置かれることはない。年齢、人種、性的アイデンティティ、信条、宗教の有無などまったく問われず参加できる。
あなたが何をどのぐらい使ったか、どこから入手したのか、過去にどういうことをしたのか、金持ちか否かなどということに私たちは興味を持たない。私たちに関心があるのは、あなたが、いま抱えてる問題をどうしたいと思っているのか、私たちはそれをどうやって手助けできるのかということだけだ。ミーティングでいちばん大切な人は新しくやってきた仲間だ。なぜなら、私たちがいま手にすることのできた回復は、それを次の人に与えていかないと、保ち続けることができないからだ。私たちはグループの経験から次のことを学んだ。NAのミーティングにきちんと通い続けていればクリーンでいられるということを。

〔ナルコティクス アノニマス ホワイトブックレット 小冊子 p・2より抜粋〕



~~~~~~~~~~~~~~~~~_
NAは、全国各地にあります。
ミーティングはいろいろあって、たとえばオープンミーティングは、依存症者本人以外にも、その家族も参加できます。ミーティングは、テーマにそって、各自自由に発言できます。テーマにこだわらず自由に発言できます。
匿名性があるので、名前や素性は話さなくても構いません。
無理に発言しなくても構いません。他のメンバーの話を聞くだけでも構いません。
どのような方でも、門戸が開かれています。時間は約一時間半です。
言いっばなし、聞きっぱなしです。
試しに、最寄りのミーティング会場に足を運ばれてみてはいかがでしょうか。
ミーティング会場や開催日時は各地区によって異なります。リンクから、最寄りのNAに問い合わせてみられてください。
皆さん、メンバーは同じ仲間です。薬物をやめたいという願いを持って参加されてます。

回復に向けての取り組み

2018年01月08日 18時56分27秒 | 日記
今日は、自分なりに回復に向けて、どのような取り組みをするかについて書こうと思います。

今回は、減薬・断薬に向けて、まず、薬の服用量をどうやって減らしていくかについて書かせていただきます。

精神科の薬は、症状に応じて個々人によって相性があり、同じ症状でも、それを緩和するための薬の種類はたくさんあります。
どういった症状に対して、どんな薬を処方するかは、精神科医の問診、臨床心理士の心理テストなどによって様々です。

例えば、うつ病の急性期に処方する薬はこれがこの人に合うかどうか。
急性期に、いきなり効果の強い薬、たとえば強い抗うつ剤などは出しません。
まずは、軽い抗うつ剤を1日一回一錠から始める。〖私の場合は、レクサプロ10mgという薬を、夕食後1錠からスタートしました〗
抗うつ剤は、その効果が現れるのに約2週間くらいかかると言われています。
その後、一週間後に受診して、たとえば少し、意欲が湧いてきたとか、不安が和らいできたなら、それはその薬が合っているので、しばらくは、同じ薬を同量処方され、様子を見ます。
症状が全く変わらない。あるいは、症状が強くなった場合は、薬がその人に合ってないか、意欲を湧かす脳内伝達物質の分泌量が十分に出ていないため、それを促すために、抗うつ剤でもちがう種類のものに変更したり、また同じ薬の量を増やします。
併せて、抗不安薬も同様に処方内容を変更します。
うつ病の症状としては、意欲減退、不安感、焦燥感、イライラ、倦怠感、不眠などがあります。
最近はいい薬が出てるので、なるべくひとつの薬で複数の症状を緩和し、尚且つ、依存性の低い薬があります。〖私の場合は、不安感、焦燥感、イライラを緩和するための薬として、リホトリールという薬を使います。依存性低い薬です〗〖不安、イライラを落ち着かせるために、リスパダールという薬も服用してたこともあります〗
そして、まず鬱の症状として、ほとんど場合、不眠があります。全く眠れない、寝れても眠りが浅く短時間で覚醒する、昼夜逆転、起立性調節障害など。

これを緩和するために、睡眠導入剤と深く眠れるための睡眠薬を併用します。〖薬の名前は割愛します〗
これらの症状を、医師が薬の種類や量を変えながら、急性期にどれだけ緩和できるかに、回復期に早く移行できるかどうかがかってきます。

自分で出来ることとして、早期治療と十分な休息を取り、自分にあったストレス解消対策を講じること。
規則正しい生活リズムや職場環境調整などの改善。
ひとつの精神科医だけでは相性があわないなどの理由で症状がなかなか改善しない場合には「セカンドオピニオン」を持つこと。などがあります。

まあ、前置きはこのくらいにしましょう。これらが上手く出来なかったから、現在のような状態になったわけですからね。

さて、本題にはいります。

減薬・断薬に向けてまず、何がポイントになってくるのか。大きく三つのポイントがあると考えます。

まず一つ目は、当たり前ですが、減薬は自分勝手に自己判断でしてはいけません。
少し良くなったからといって、自己判断で服用を中止すると、必ずといっていいほど、再発します。また、離脱症状でツラい苦痛に苛まれてしまいます。

医師と相談しながら徐々に減らしていくのが大切です。

そして二つ目は、たとえば、うつ病ですが、この精神疾患は寛解はするけど残念ながら完治はしません。
主訴となる症状が緩和し、その状態が維持出来ることが治療の最終目標です。
うつ病が重度になると、不安障害や双極性障害といった二次障害を引き起こします。

障害になってしまうと、この症状は一生続きます。
もちろん寛解は可能です。ただ、そこに行き着くまでに長い期間と労力を要しますし、薬の種類が増えて減薬には程遠くなってしまいます。

二次障害を引き起こさないために、根気強く、焦らずに少しずつ減薬していくことが求められます。

ただ、減薬には勇気がいります。
長い間、薬が体中に回って、脳に染み着いてますから、そりゃあ一筋縄にはいきません。

この状態を無理なく軽減し、寛解に向かうためには、症状の緩和にあわせて、ひとつの症状緩和がある程度期間維持できたなら、勇気を持って1錠減らす決意を持つことが大切です。

焦らなくてもいいのです。

1ヶ月に1錠減らすくらいのペースで、医師と相談しながら減薬していくことです。

減薬の目標は、薬物依存からの回復もありますが、精神疾患の寛解も目標であることを忘れないようにしたいものです。 

そして、三つ目のポイントは、スリップを恐れないことです。
薬物依存症は回復はするけど完治はしない。アディクトとは、人生の全てが薬物に支配されてる人間のことです。
これまで、私達の生き方、考え方は、全てが薬物が中心でした。どうやって手に入れ、どうやって使い、もっと手に入れるためにはどうしたらよいか。
使うために生き、生きるために使うことの繰り返しでした。
終わることなく進行を続ける病気にとらわれた私達の行き着く先は皆同じ。刑務所、精神病院、そして死が待っているのです。
大切なのは、私達に薬物をやめたい願望があるかどうかです。
これまで私達は、家族の幸せよりも、妻や夫や子どものことを考えるよりも、薬物を使うことを優先させていました。
どんな犠牲を払っても、何としても薬物を手に入れなければなりませんでした。
だから、たくさんの人達を傷つけてきました。一番傷つけたのは、自分自身だったかもしれません。
盛んに薬物を使っていた頃のアディクトに逆戻りしない方法はただひとつ、それは最初の一回に手を出さないことです。
もし貴方も私達と同じアディクトなら、最初の一回はそれだけで多すぎ、千回やっても足りないことを知っているはずです。
私達が特にこのことを強調するのは、いかなる種類のものにせよ、あるいは、別のものに切り替えてみたにせよ、ひとたび薬物を使ったら、アディクションが再び猛威を振るうことをよく知っているはずです。
今日だけ、使うのをやめる。ずっとやめつづけるのは無理かも知れませんが、八時間とか十二時間だけなら、だいたいやり通すことができます。
もし、とらわれや強迫観念があまりに酷いようなら、五分間単位でやってみます。分単位が時間単位になり、時間単位が一日単位へとどんどん延びていき、結果的に貴方もこれまでの習慣を断ち切り、精神的な落ち着きを取り戻せるようになります。
薬物を使いたいという欲求がどうやら取り除かれていることに気づくと、本当の奇跡が起きます。
貴方はすでに、薬物を使うことをやめ、生きることに向かって足を踏み出したのです。

これら、三つのポイントを重視して、減薬・断薬に向けて、私達とともに、日々、精進していきたいものです。

大切なのは、『焦らずにやろう』ということです。

私達の体には、長い年月をかけて、薬物が染み着いてます。
それを、短期間で手放すことは、容易ではありません。

自分は、薬物依存症という病気であることを、まず、認めることです。

薬物依存症は薬物じゃ治せません。
当たり前のことですが。

薬物じゃ、精神疾患は完治しないのは、私達が身を持って体験して理解しています。

だから、減薬・断薬を決心されたはずです。
 
貴方らしさを取り戻せるようになりますように、祈っています。

和解

2018年01月07日 01時32分54秒 | 日記
今日、我が家に奇跡が起きたので書かせていただきます。

先日の『私の経緯』にもしたためた通り、私の家庭環境は親父の酒乱で劣悪なものでした。大工をしていた親父は、毎晩のように酒を飲んで飲酒運転して帰ってきてました。

特に棟上げのときには、施主から酒を振る舞われるので、理性をなくすまで飲みまくり、真夜中に家に帰ってきて、母親と私と妹弟に大声で怒鳴り散らし、家の中で母親と私ら子供に殴る蹴るの大暴れをしていました。

母親は出血するまで顔を殴り散らされ、私ら子供を奇声を上げて追いかけ回し、髪の毛を引っ張ったり、長男の私を蹴りまくり、妹弟も床に叩きつけられたりしていました。

家の窓ガラスに椅子を投げつけ割ったり、襖や障子を破りまくり、完全に気が狂っていました。
でもいつも、酔いが冷めると、その日のことは全く記憶になく、知らん、覚えてないと言って反省の素振りもありませんでした。二日酔いで、ゲロ吐きまくり台所はゲロまみれになっていました。
そんなのが、私が生まれてから中学校卒業するまで続いていました。

前の日記にも書きましたが、ある日、私が中間テストの勉強をしていた中学生3年頃、棟上げで酔い乱れた親父は、私のそばにきて、机の上にあった貯金箱を叩き割り、お札を床に投げつけて、酒買ってこい!と言いました。

私の怒りは頂点に達し、殺してやると思い、台所から包丁を取り出し、親父を刺しに向かいました。でも親父の力に適わず包丁を奪われ、私めがけて切りつけてきました。
私は玄関からバットを取り出し抵抗し、揉み合いになり、親父の頭をバットで叩きつけ、ひるんで包丁を落とした隙に外に逃げ出しました。

そのようなこともあり、母親はノイローゼになり、このままじゃ子供にとって良くないと、離婚しました。

学力の低かった私は、滑り止めで受けてた偏差値最低の高校に何とか入学でき、高校三年間は母子家庭として、母親の実家の近くに借家住まいし、妹弟と四人で、ひそかに暮らしていました。

ところがある日、親父がうちの家を突き止め、今で言うストーカーをし始めました。
何度追い返しても繰り返しやってきて、そのうち、家に上がり込み居座るようになり、寄りを戻せ。戻さないとお前ら殺して、ワシも死ぬと、復縁を迫ってきました。

私は、親父がわりに母親と妹弟を守るために必死になって公務員模擬試験を受け続け、奇跡的に、刑務所の看守として就職することができ、母親に毎月仕送りをしていましたが、私が法務省の寮生活をしていたときに、母親はあまりの親父のしつこさと、復縁を迫ってきたことに屈して、仕方なく復縁しました。

私は大反対でしたが、止める術もなく、またあの親父と一緒になるのかと、母親に対して裏切られた気持ちになり、守らねばと思って就いた仕事に対して目標を失ったショックで、うつ病になり、心浮いた状況の時に新興宗教にはまってしまい、仕事の責務と宗教の教義のギャップに悩まされ、精神科に行くようになり、精神安定剤を服用し始め、それでも不安、抑鬱、不眠は治まらず、酒と薬を一緒に飲むようになり、ラリってしまい、症状は更に悪化し、せっかく頑張って就いた仕事を依願退職しました。

その後、目標を失った私は職を転々とし、11回も仕事を変わり、適応障害と双極性障害、不安障害になり、一度は結婚したものの、個人事業をしていた私は、フランチャイズ詐欺に遭い、事業をたたみ、抱えた負債は損害賠償のお金だけでは返済しきれず、自己破産しました。

妻には離婚され、男の子の子供がひとりいますが、引き取られ、私は更に自己憐憫に陥り、精神安定剤を多剤服用するようになりました。

いくら薬を飲んでも、薬物耐性ができてしまってたので全く効かず、多剤服用は更にエスカレートし、重複受診を繰り返し、交通事故をお越し、今の仕事をやすむようになり、多剤服用が精神科医にバレて、とうとう精神病院に入院するはめになり、薬物依存症と診断されました。

離脱症状を乗り越え、5カ月の入院生活を終えて退院し、入院前は30種類乱用していた薬も、退院時には6種類まで減薬でき、しばらく回復のために自宅療養していました。

しかし、私の精神疾患に対して全く理解していない両親は、根本は自分らへの憎しみがあることすら分からず、退院してからは、とにかく早く仕事に出ろ。あんたは病気のフリをしとるだけじゃとか、自分で病気を作ってるとか、自分に甘えとるとかしか言わず、私にプレッシャーをかけ続けて精神的に追い込まれていきました。

親父は、相変わらず酒飲んでは、今でこそ高齢のために昔みたいに大暴れはしなくなったものの、アルコール依存症で酒飲んでは大声で喚き散らし、近所迷惑も考えずテレビを大音量でつけ、一緒に暮らしている祖母に八つ当たりばかりして、母親はそんな親父に愛想尽かして、いつも愚痴ばかり言って、家の中は完全に冷め切っていました。そんな暮らしの環境下で、精神的にプレッシャーをかけられ、全く私の心の傷すら理解できない両親に対して、私はこのまま家にいても、回復を妨げるだけだ。早く家から出たいといつも悶々としていました。

先月12月20日に、私はNA〖ナルコティクス・アノニマス〗の、〖今日だけ〗という書籍を個人購入して、届くのをまっていたのですが、いつまでたっても届かず、変だなと思い、会話はしたくなかったけど、母親に、私宛てにレターパック届いてないか尋ねたら、なんか届いてるけど、怪しい物が入ってると思い渡さなかったといったのです。

私は頭にきて、じゃあ袋開けて中身見てみろといい、開けさせてみせると、注文していた書籍がはいってました。
私は母親に、なんで隠したのか。これのどこが怪しい物か。説明してみろと言ったら、あんたのことじゃ!また何か変な物に手を出しちゃおらんろうね!?あんたのどこが病気か!いつも家でゴロゴロしてから!病気のフリしとるだけじゃ!はよ、仕事行け!と、逆ギレされました。

私は頭にきて、もうダメだ。この親には私の気持ちなど理解できない。 
私は懸命に一日も早く回復したいがために、毎日筋トレやウォーキングしたり、犬の散歩にいったり、減薬も続いていましたが、スリップしてしまい、再び重複受診をし、多剤服用が始まりました。

また同じ過ちを繰り返した自分自身への自己憐憫と、両親に対する失望感。回復へのモチベーションは失われ、食事も一切受け付けず、両親と顔をあわすのも嫌になり、幻聴と妄想で眠れず、部屋に引きこもり、薬をかじって飲みまくりました。

ブログをかきながら、自分自身を客観的に見ていながらも、思考はどんどん鈍っていき、部屋から一歩も出れなくなって、小便も二階のベランダから垂れ流し、そのうち水すら飲めなくなり、多量の薬をかみながら、布団にうずくまっていました。

一週間がたった12月31日の早朝に、もう絶望感で死にたいと本気で思い、遺書をしたため茶の間のテーブルの上に置き、多量の薬を持ち出し、着の身着のまま車を走らせ死に場所を探しに、何かに誘われるように家をあとにしました。

死ぬ前に、最後に唯一の友達に会っておこうと思い、コンビニATMから全貯金を引き出し、急遽、飛行機に乗って、東京にいる友達に会いに行きました。

友達は私の気持ちを覚り、せっかくの正月休みを全部私のために費やしてくれて、たくさんの自分の服とか着る物をくれたり、大晦日の夜、お寺に除夜のかねをつきにつれていってくれたり、元旦には、近くの小高い丘の上に連れて行ってくれ、一緒に登った富士山を見せてくれたり、夜は焚き火しながら冬空の下、一晩中酒に付き合って話をしてくれたり、横浜の従姉妹のやってるスナックに連れて行ってくれたり、亡くなった彼の大好きだった叔母が住んでた空き家で朝まで説教してくれたり、その散らかったままの
家の掃除をさせて、心洗わせてくれたり、美味しい中華料理屋に連れて行ってくれたり、もう彼の仕事の前日1月4日まで、最後の最後まで、ほとんど寝ずに付き合ってくれました。
全身全霊で、私を諭してくれました。

私は、彼の本当の優しさに触れ、もう一度生きてみようと思い直しました。

彼が、帰って親父さんに頭下げてこい。そしたら、必ず何かが変わると言ってくれ、私は、飛行機に乗って家に帰りました。

家に帰ったら、まず母親が迎え入れてくれて、号泣しながら、生きとって良かった。これほど心配したことはない。と言ってくれ、私の反省と決意を聴いてくれました。

そして、お父さんがあんたに手紙を書いてるといって、生まれて初めて親父からの手紙を読みました。
それには、筆不精な親父の震えた字で

『心理的な面が良くなっていることは、やはり、努力をしていることはよく分かる わしも、空威張りするところがある 今の気持ちでみんなと打ち解けていく気持ちをもってくれ それも効果があると思う ワシも大きな声は出さないことを誓う 言葉で言わないとわからない 何も言わないから 自分で計画を立てて、思うようにやってくれ 時がたって よくやったなと さすが平常に成ってくれたと お母さんを安心させてくれ 今の自分を変えるのは 自分しかない 見守っている』 
と、書かれてありました。

そして、親子三人で茶の間で顔を合わせ、私は、親父に心配かけてすまんかった。と詫びました。

そしたら、親父は号泣しながら、ワシが悪かった。生きておいてくれて良かった。もう、何も言わんから。
と言ってくれました。

私は、胸の内を初めて両親に話しました。そして、必ず回復することを誓い、親子三人でガッチリ握手して、生まれて初めて、本当の親の愛情に触れました。

これまで44年間、生まれてからずっと心の奥底にあった両親への憎しみが、初めて、許すことが出来ました。

これまでの、わだかまりは無くなり、我が家に光が差し込んできました。

心から、心から友達に感謝しています。

そして、両親に初めて心から感謝しました。

本当に、本当に感謝します。
ありがとうございました。


我の強さ

2018年01月06日 04時20分56秒 | 日記
明けましておめでとうございます!
始まりました2018年!昨年は、最悪の年でしたが、年末年始にしっかり厄払いしてきたので、気持ち新たにスタート切りたいと思います!

今日は『我の強さ』と言うことで書きたいと思います。 

私は半端ない我が強く、こだわりも強い男です。それは生まれつきのもんで、先祖代々からの血筋もありますが、自閉スペクトラム症という発達障害のため、物事に対するこだわりが異常に強いです。

我の強さは、これだと思ったらこれ!融通がきかない。臨機応変が苦手。他の意見を素直に受け入れない。自分で納得いくまで痛い目にあってあってあい続けて、やっと意思にたどり着くまで体験して、法則や理屈はあとからついてくる。
自分が中心で世界は動いている。

自他共に認める、たちの悪い頑固者です。だから人間関係は大の苦手です。

友達も、腐れ縁の悪友が一人いるんですが、彼が唯一の友達です。
彼も我が強いですが、天才的な感性を持っていて、価値観が同じなのと、お互いタフなので付き合えてると言えます。

私は、傍目は真面目で優しい穏やかな風貌で社交的のように見えますが、中身はコリッコリの一匹狼です。 

今まで11回、仕事変わってるんですが、必ず人間関係で不調和になり、自分が中心で正しいと思ってるので、馴れ合いの上っ面だけ仲良くして、陰で悪口言ってるような輩はムシズが走ります。

それが上司だろうと先輩だろうと年上だろうと関係ありません。一度嫌いになったら、もう受け付けません。敵が味方かしかありません。
それで色々、損をしてるのは承知しています。

たくさんのものを失ってきました。
他を素直に受け付けないから、たとえいい人や物でも、見過ごしています。
学習能力低いから反省もできません。
でも今更、この性分を変えるつもりも全くありません。

だから例えば、今、薬物依存症になって、回復のためには、NA(ナルコティクス・アノニマス)のステップ12のプログラムの実践と、自助グループへの参加をし、ミーティングに出席するというのが良いと言われても、2~3回ミーティングには出ましたし、ステップ12も試してみたのですが、《自分なりに理解した神へ委ねる決心をした》ということが理解できないのと、同じ依存症者のスポンサーの人とトラブルになり、信頼関係が築けなかったので、自分には合わないと思い、やめてしまいました。

薬物依存症になるまでには、この社会の中で、こんな社会不適合者みたいな性格のために、色々なストレスの壁にぶち当たり、それを上手く立ち回れず抱え込んでしまい、うつ病から始まり、適応障害、双極性障害、不安障害に陥り、精神安定剤にその苦痛を誤魔化すだけのために服用し続け、薬が薬物耐性のために効かなくなり、より質の高い多量の薬を飲むようになり、脳は完全に萎縮し、薬物性肝炎になり、離脱症状が怖くてずっと四六時中、血液に薬物が回っていて、半減期を迎える前に次の薬を多量に服用するので薬漬けになり、完全な薬物中毒患者に成り下がっていました。

それにこの我の強さが災いして、服用コントロールができず回復の道を妨げました。
自分が、とことん堕ちるとこまで堕ちて、どん底に到着して、底尽き体験をして、薬じゃどうにもならなくなったとき、もう依存に対して自分は無力であるということを認めざるを得なくなり、ならばどうやって、この依存症から回復するかを考え始めるようになりました。

しかし、長年薬漬けになった体は、そう簡単には元には戻りません。
脳に薬物による解放感や、恍惚感、高揚感などをインプットされてますから、器質的にも機能的にも、正常ではない、壊れた状態になっています。
脳から薬物の記憶を消すことは不可能です。

回復のためには、一生涯、薬物への依存との戦いです。一日一回だけしか飲まない。5分だけでも薬のことを思い浮かべない。そうやって、減薬から断薬に徐々に徐々に、スリップ、失敗を繰り返しながら、少しずつ薬物を体から減らしていき、半減期過ぎても離脱症状が出ないようにしていくしかありません。

それは、意志の強さとか我慢力だけじゃ絶対不可能です。頑張るのは無理。頑張ると言う言葉は『ガンバル』これは『我を張る』という言葉にも理解できると思いませんか?

我を張るのは私の得意分野ですが、さすがの私でも依存の魔力には勝てませんでした。
脳がやられちゃってますから。

それと、独りで回復させるのも無理です。必ず、回復のためには、モチベーションになる何かが必要です。
モチベーションは、自分以外の誰か。あるいは何かに求めるしかありません。

『孤軍奮闘』と言う言葉がありますが、これも孤高に闘うことと私は理解していますが、孤高に闘うにしても、回復と言う目標に向かって依存に打ち勝つためには、志気となり得る存在が欠かせません。

敢えて頑張るという言葉を使いますが、頑張って闘うには、自分の中の絶対的に揺るぎない〖土台〗がしっかりしてないといけません。

これは、意志の強さとかそういう意味じゃなく、『魂の強さ』とでも言うのでしょうか。

生きていくために必要な本能を司る、『潜在意識』に秘められている力の源とでも言うべき原理です。
これは、森羅万象の中で生きとし生けるもの全てに存在します。

そこに誰しも、絶対的に揺るぎない土台があります。そこに気づくことから自分の存在と言うものを客観的に視ることが要となってきます。
そしたら、独りではモチベーションを高めることはできないことを覚ります。

潜在意識の中では、生きとし生けるもの、皆、『アカシックレコード』と言われる時間も空間もない世界で、ひとつにつながっているという概念があります。
そこを顕在意識で自覚できるようになれれば、おのずとモチベーションの対象となる土台が見つけ出せるでしょう。
そこを原点にして、自分なりの回復プログラムを構築していければ、あとは実践あるのみです。
あなたが自ら立てた回復プログラムです。何も疑うこともありません。

話は我の強さから、えらいところまで展開しましたが、言わば、我の強さは生きる本能が強いことの証拠です。

我の強さは、両刃の剣です。ある時には自分を傷つけるし、ある時には敵をやっつける。堅陣な我の強さを、更に高みを目指して、両刃の剣を鍛え磨き続けていきたいものです。

馬鹿とハサミは使いよう。
自分の我の強さと上手く付き合って、できたらもっと上手に使いこなせていきたいと思います。

コメント、メッセージお待ちしています(ゝω・)


私の経緯

2017年12月29日 18時56分28秒 | 日記
自己紹介も兼ねて、私のこれまでの経緯を、したためようと思います。

私は、現在44歳、バツイチ独身で、山口県内で会社員をしています。趣味はアウトドア。キャンプが好きで、焚き火しながら酒を飲むのが楽しみです。年に数回、友人と一緒にキャンプに出かけ、一晩中語り合うのが至高のひとときです。

では、私の生い立ちから書かせていただきます。とてもネガティブな内容になりますが、ご容赦下さい。

私は、生まれながらにして遺伝的な発達障害があり、聴覚過敏や知能の遅れ、チック症などがあり、保育園の時からあまり他の園児とも遊ばない子供でした。

私の家庭環境は貧しく、父親は酒乱でいつも酒飲んで帰っては、家の中で大暴れして、母親に暴力奮ったり、私には妹弟がいるのですが、私ら子供にも暴力を振るったりしていました。
近所に飲酒運転で隣家に突っ込んだり、喧嘩したりして、警察に捕まったことも一度や二度じゃありませんでした。

私は、そんな父親の酒乱に怯え、臆病な性格になり、学力も低かったのもあって、暗く社交的じゃない子供で、小学生、中学生のころは学校で、イジメにあっていました。そのうち登校拒否になり、学力もますます悪くなり、中学三年生のころは、高校に進学できるかどうかも危ぶまれていました。

ある日、父親が酔っ払って帰ってきたとき、母親に大声で怒鳴り散らしてたあと、私が中間テストの試験勉強をしていたときに、父親が私のそばに来て、机の上にあった貯金箱を叩き割り、酒買ってこい!って、紙幣を投げつけてきました。
私は、怒りを抑えることができず、台所にあった包丁を取り出し、父親を刺しに向かいました。
私は、剣道をしてましたから、腕力には自信があったのですが、父親の力には適わず、包丁を取り返され、私目掛けて斬りつけてきました。
私は、玄関にあったバットを持って抵抗し、揉み合いになり、父親がひるんだ隙にバットで父親の頭を殴りつけ、包丁を落とした隙に外に逃げ出しました。
一晩中、外で過ごし、明くる朝、父親が酔いが冷めるのを見計らって家に帰り、二日酔いで寝込んでる父親に、昨夜のことを謝れと言ったら、全然覚えてないというのです。

母親も、このことがきっかけでノイローゼになり、その頃の父親は、暴力団関係の会社から借金をしていて、返済ができず、いつもヤクザが家に取り立てにきていました。 
母親も、こんな環境じゃ子供らにとってもよくない。私の高校進学も出来ないと思い、父親と離婚しました。

そして、しばらく母親の実家で過ごし、そこで勉強して、何とか一番偏差値の低い高校に進学する事が出来ました。
母親の実家の近くに借家住まいし、母親と妹弟で母子家庭として高校三年間過ごしました。 

私が、父親代わりになって将来、母親を安心させてあげたいと決意し、高校になってからは公務員模擬試験を受け続け、刑務所の看守として就職することができました。
もう、がむしゃらに勉強に打ち込み、小学生、中学生のころは通信簿で、いつも最低評価だったのが、公務員になれたことは奇跡でした。
それも、母親と妹弟を守らないとの思い一心で努力した結果でした。

私が、刑務所の看守として拝命し、母親に毎月仕送りしてました。ところが、別れた父親が、母親のいる借家の場所を突き止め、今でいうストーカーをするようになり、そのうち会わせろと言ってきて、借家に毎日居座るようになりました。
母親も、あまりに別れた父親がしつこく復縁を迫ってきて、復縁しないとお前ら殺して、ワシも死ぬと言いだし、怖くなって仕方なく復縁をしました。

私は、大反対でしたが、父親のしつこさに屈した母親は自立することができず、また父親と復縁し、妹弟とともに暮らすようになりました。 

私は、守るべきものを見失い、両親に失望して、仕事に対する意欲を失いました。
そんな心荒んだ時期に、新興宗教にはまってしまい、職場の刑務官としての実務と、新興宗教の教義のギャップに苛まれ、ノイローゼになり、眠れなくなったり、抑鬱状態に陥り、仕事を休むようになりました。

そして、仕事を休んでも気持ちは晴れず、ますます寮に引きこもるようになり、新興宗教にも足が遠退いて、毎日酒をあおるようになりました。
それでも、抑鬱状態からは良くならず、不安感や焦燥感、イライラした気分が続き、体重も激減し、とうとう精神科へ受診に行きました。

精神科医からは、うつ病と適応障害と診断され、その日に生まれて初めて、精神安定剤を服用するようになりました。1ヶ月の休養加療の診断書を書かれ、病休で休むことになりました。1ヶ月の休養期間、週に一度、診察に行き、カウンセリングを受けたりしました。

しかし、毎日薬飲みながら、週一回カウンセリング受けに行っても、心荒んだ状態は改善しません。
仕事と宗教のギャップによるストレスもあったのですが、元の原因は、守るべきものを見失い、生きる意欲を削ぎ取られたことでした。糸の切れた凧のように、一度飛んでしまったら、どこに行くか分かりません。

幼少期からの発達障害と、父親から受けたトラウマ、両親への失望と、仕事と宗教のギャップによるストレス、発達障害の人は適応障害も併発していることが多く、不器用で、社会性や人間関係のコミュニケーション能力に欠陥があり、物事に強くこだわる特性があります。臨機応変が利きにくく、割り切って立ち振る舞えない。

そういう、元々の特質もあって、度重なるストレスに対処できず、根が深い心の傷を負ってしまったんだと思います。

結局、精神状態は緩和せず、カウンセリングも途中から行かなくなり、薬だけで誤魔化す日々が続き、薬も一時的で治す効果はなく、そのうち、酒と薬を同時に飲むようになり、作用が強まりラリってしまい、その恍惚感に溺れ始め、だんだん、まともな考えや感情が鈍くなっていき、薬の多剤服用が始まりました。

とても、復職できる状態ではなくなり、ラリって幻覚が見えたり、誰かに追い回されてるような被害妄想になり、復職を諦めて、依願退職しました。

次の仕事を見つけ、就いたのはいいんだけど、薬は手放せない状態で、人間関係に苦しんだり、仕事でミスを繰り返したりして、その仕事も辞めました。

それから、今日にいたるまで職を11回変わっており、途中で、一度彼女ができて恋愛結婚し、整体師の個人事業もしましたが、フランチャイズ詐欺に遭って、莫大な借金ができ、損害賠償だけじゃ返済しきれなくなり、自己破産しました。

妻にも離婚され、子供が男の子ひとりいますが、向こうに引き取られ、毎月、養育費を払いながら子供と面会交流し、今の仕事に就いて二年が経ちました。

今の仕事は、割と続いてた方ですが、薬の影響で通勤時に追突事故を起こし、車に乗るのが怖くなって、仕事を休むようになりました。

その頃は、既に、双極性障害、適応障害、発達障害、不安障害で、自立支援受給者証で精神通院をしておりました。
かかりつけのクリニックの薬だけじゃ足りず、精神科ハシゴ、いわゆる重複受診を繰り返し、多剤服用(OD)するようになり、前のブログでもかきましたが、多剤服用がバレて、精神病院に入院するハメになり、薬物依存症と診断され、入院中、激しい離脱症状にのたうち回り、5カ月の入院期間を終えて、それまで30種類以上服用していた薬も今は6種類に減薬され、何度かスリップもしましたが、現在は、回復に向けて、筋トレ100回毎日欠かさずやる肉体改造や、ウォーキング。いろいろな回復プログラムに参加してきて、毎日、アディクトの病魔と格闘しながら、スリップは今のところなく、暮らすようになりました。

精神疾患の根本治癒は薬じゃ出来ないと、身を持って底尽き体験をして、分かりました。
薬物依存症も、自分ひとりの意志の強さや努力だけでは。決して出来ないとも知りました。

まだまだ、回復者とは言えませんが、薬物依存真っ只中にいる人、回復者のスリップしない日々の努力の仕方。薬物依存と言うことすら、まだ自覚出来ない人の気持ちも分かります。

だから、思い切って、サークルを立ち上げました。

型にはまらない。まずは、現在のありのままの心の状態を、精神の汚物を、このサークルで吐き出していただければと思ってます。

みなさまの、フォロー、コメント、メッセージ、トピック立ち上げ、お待ちしています。

あなたは、ひとりじゃない。
 
あなたは、決して何も悪くない。

生きとし生けるもの、潜在意識と呼ばれる時間も空間も超えた領域の概念では、誰も皆、ひとつにつながっているといえます。

あなたが、己を真から自覚し、孤独じゃないことを覚ったとき、必ず、本当の安心と幸福を感じることが出来るでしょう。




薬物依存症からの回復に向けて!

2017年12月28日 04時47分55秒 | 日記
はじめまして。
薬物依存症(処方薬)のkouexitと申します。初ブログですので、なにぶんビギナーなんで宜しくお願い致します。

自己紹介は後回しにして。

まずお書きしたいのは、このブログは、薬物依存症の方で、回復したいんだけど、スリップばかり繰り返している。
回復する気などサラサラない。
自助グループ(NA)、ダルクなどに通って、ミーティングに参加したり、ステップ12を学んだりしたけど、自分には合わない。理解できない。そもそも自助グループって何?

認知行動療法受けてる、または受けたけど、自分には合わない。

医者も、作業療法士も、カウンセラーも、同じ依存症仲間も、家族も友達も、心からは信頼できない。

依存症真っ最中で、薬漬けになってラリってる方。お酒とのチャンポンや、多剤服用(OD)真っ最中の方。

それの何が悪い!勝手だろって思ってる方。
とりあえず、この精神的苦痛を誰かに聞いてほしい方。
精神科ハシゴ(重複受診)してますけど何か?って方。
そんな、どん底真っ只中にいる方のために書くブログです。

回復者のご意見も、もちろん歓迎します。
綺麗事や自慢話はいりません。
とことん、落ちるとこまで落ちてやる!
そんな、現在、孤独と絶望の中に苦しんでいる方に読んで欲しいと思います。

私自身、薬物依存症と診断されて、処方薬が一気に減らされました。
それまで、精神科ハシゴしながら30種類以上の抗不安薬、抗うつ剤、向精神薬、睡眠導入剤、睡眠薬を服用していました。毎日、お酒とチャンポンしながらラリってました。

そのうち、過食症になり体重は116kgまで膨れ上がりました。
毎日、お酒とチャンポンして30種類以上の薬を飲んでたもんですから、当然、薬物耐性ができ、本来の症状緩和は弱まっていきました。

もっともっとたくさん飲まないと、これっぽっちも不安感、緊張感、イライラ、抑鬱、不眠などは治まらなくなりました。

当然、副作用の作用が強まり、薬の半減期辺りには、不安感、緊張感、イライラ、日中の車の運転中の居眠り、生汗、体の震え、動悸、息切れ、めまい、胸の圧迫感、激しい頭痛、呼吸が苦しい、全身倦怠感、興奮、躁状態、思考・感情の鈍麻、抑鬱などなど、色んな症状が現れました。

薬が切れるのが怖くて、半減期関係なく、常に、朝昼夕、寝る前、頓服を、決められたら用量、用法を守らず、何が何の薬が訳分からず、とりあえず目にした薬を数錠、四六時中飲み続けてました。
常に身体の血中に薬が回ってる状態でした。

そんなこと繰り返してるうちに、仕事に行く通勤中、居眠りして追突事故を起こしました。幸いにも、物損事故で済みましたが、警察には事情を聴かれ「目が虚ろだけど大丈夫?」って言われ、とりあえず息の匂いを確かめれました。酒は前の日に飲んではいましたが、匂いはしなかったので、アルコール検査はしなくて済みました。

とりあえず、このまま運転すると危ないんで、今日は運転しない方が良いと言われ、保険屋呼んで事故処理したあと、会社に電話して、その日は車を近くに置いて、あとでJAFに家に持ってきてもらうようにして、会社には今日は体調悪いので休むって言って、タクシー呼んで家に帰りました。

家に帰って、ちょっと寝ようかと思い、睡眠導入剤飲んで横になりました。でも、事故後の緊張もあって、全然眠れません。そのうち昼になり、JAFが車を持ってきました。ちょっと前のバンパーが凹んでる程度で、相手の車も後ろかすった程度でした。修理出しにいく程度でもないので、自分の車は、ほっとくことにしました。

ちょっと落ち込んでたので、また不安感や抑鬱が出始めたので、たくさんあって何の薬か分からないけど、とりあえず目にした薬を数錠飲みました。
でも、全然気持ち楽になりません。

何か事故ったショックと抑鬱で、車運転するのが怖くなり、次の日から仕事休むようになりました。無断欠勤はさすがにマズいので、精神科で唯一、本来のかかりつけ医(自立支援受給者証使えるクリニック)に診断書書いてもらって《診断名 うつ状態 不安感、緊張感、不眠などの症状があり、向こう1ヶ月程度の休養加療を要する》の診断書持って、明くる日に最後の力振り絞って、コンビニで強眠打破のカフェインドリンク買って飲んで運転して、会社の総務に診断書出して病気休職しました。

それから家で閉じこもり、仕事休める安心感で、少しはマシになるかなと思ってんですが、不安感、緊張感、不眠、イライラ、抑鬱は治まらず、仕事行かなくてもいい心の隙に油断してしまい、多剤服用(OD)は、更にエスカレートしていきました。

精神科ハシゴして入手した30種類以上の薬を、それまでは、一回5錠くらい服用していたのが、一回10錠以上服用するようになり、当然、早く無くなるんで足らなくなり、病院行ってもすぐに出してくれるわけもなく、薬切れてしまいました。

しばらくは酒でごまかしてましたが、そのうち離脱症状が出始め、不安感、緊張感、不眠、イライラ、抑鬱、興奮、躁状態、生汗、震えが強まってきて、どうにもこうにもならなくなり、総合病院の救急外来へ駆け込みました。その病院は神経科外来はあるのですが入院病棟がなく、とりあえず今飲んでる薬を教えてくれと言われ、数冊あるお薬手帳の中からひとつを取り出して、神経科の医師に問い合わせてもらい、頓服を三日分だけ処方され、かかりつけ医にすぐに行けと言われ、連絡を取られ、ハシゴしたひとつの精神科に行くハメになりました。

ハシゴした精神科で事情を聴かれ、何でいっぺんに無くなるまで飲むのか、こっぴどく叱られ、他に飲んでる薬はないか問い詰められ、無いといっても信じてもらえず、紹介状書くから精神病院に入院しなさいと言われ、家族呼び出され、紹介状持って家族と一緒に精神病院に行き、あらいざらい白状させられ、その日に入院になりました。

家族は動揺を隠せず、とにかく慌てふためいて、急いで自分の家から着替えとか洗面用具とか持ってきて、入院の手続きして、診察室でこれから主治医になる医者の診察を受け、つけられたら病名が:〈薬物依存症〉他。入院治療計画書には、6ヶ月の入院と書かれてありました。

閉鎖病棟の保護室に入れられ、トイレしかない何にもない部屋で、保護衣に着替えさせられ、24時間完全監視のもと、食事は僅かなご飯とおかずのみ、ベットにうずくまり、二週間過ごしました。

激しい離脱症状は想像を絶するもので、幻覚、幻聴、興奮、全身の汗と震え、死にたくなるような恐怖感。
食事なんて、到底喉を通りません。一日中、凄まじい苦痛にうなされ、室内をウロウロしたり、ベットにうずくまって大声で叫んだり、幻覚はウジ虫がいっぱい壁とか身体にまとわりついて、幻聴は亡者のうめき声が頭から離れず、小窓から誰かがみている妄想に襲われ、耐えられなくなって、何度も殺してくれと叫びました。

薬は、1日3回 朝と夕と消灯前。
わずかな薬だけ、看護師が持ってきて飲ませる。薬いっぱい飲んでたから、それっぽっちじゃ効きゃしません。食事取れないから、途中から点滴に変わり、ベットから動けませんでした。

二週間して、ようやく四人部屋に移されました。激しい離脱症状も少し治まり、食事もまともに食えるようになりました。ただ、嘔吐が止まらず、何度も戻していました。

薬への希求願望は治まらず、常に薬への強いこだわりが、頭から離れません。日々、渇望との葛藤でした。

入院して3ヶ月した頃、体重量ったら116kgあったのが、102kgまで減量してました。もともと肥満症で、薬で浮腫んだのもあり異常でしたが、減薬と食事制限の甲斐あって、これほどまでに落ちました。
他にも、高血圧や糖尿病、脂肪肝に高脂血症があり、まあ血液検査でいつも指摘されてましたが、3ヶ月でかなり色んな数値も基準値に近くなりました。

入院5ヶ月した頃、主治医から退院してもいいと言われ、家族に迎えにきてもらい、実家に帰りました。
当面は自宅療養しながら通院することになりました。家族に薬管理を徹底するよう指示され、薬は母親が管理しました。
退院したときには、精神科の薬は6種類にまで減薬されました。

しかし、もともとの精神疾患である、双極性障害、適応障害、発達障害があるので、断薬と言うわけには行きません。
必要最小限の薬のみ残され、あとの薬は全部処分されました。精神科ハシゴしたクリニックの診察券も没収され、保険証は母親が持つことになりました。

薬物依存は回復はするけど完治はしない。常に(再発)との隣り合わせです。アディクトには一生涯、スリップの危険があります。

自分ひとりの意志の強さや努力だけでは、ほぼスリップしない人はいません。脳みそが、完全に依存症によって侵されている。覚せい剤や麻薬と一緒です。侵された脳みそは、元には戻りません。

そこで、登場するのが回復の為の様々なアプローチです。NA(ナルコティクス・アノニマス)、ダルク、ワンネス、集団認知療法、作業療法、カウンセリング、催眠療法などなどです。どれもそれぞれ、色んな特性があり、ミーティングなどで、言いっぱなし聞きっぱなしというのもあれば、まず自分が薬物依存症であるということを徹底的に認識させ、教育的に意識改革を図るもの。潜在意識を開化させ、依存からの回復を図るもの。自分なりに理解した神に委ね、ハイヤーパワーの力を信じるもの。などなど

それぞれ依存症者は、そこに至ったプロセスが異なり、価値観も違います。自分にあったプログラムのアプローチを体験してみるのは、良いことだと思います。

私が、これまで体験してきたアプローチは置いといて、ここでは薬物依存症の皆さんが、ざっくばらんに本音を語れる場として、それぞれの体験談や意見、今の現状、心の叫びなどを、コメントしあえたらいいと思ってます。

まずは、精神の汚物を吐き出して下さい。たくさんの方からのコメントお待ちしています。