「国民読書年」便乗、連続公開講座『書物』、プロローグ、終了しました。
御来場の皆さん、ありがとうございました。
手元に残っている配付資料が三部なので、来客が30人くらいですか?
通りがかりの方も“聴講”してくださったようです。
取り敢えず記録。
前に座った人(敬称略・カタガキも略)
平野雅彦
市原健太
小二田誠二
鶴岡法斎
鈴木大治
佐久間美紀子
それぞれ検索していただければ色々出てくるメンバーです。
来場者からも活発な発言がありましたが、まぁ、紹介してしまうのも何なので、個別にここを見たらご自分のブログなど、リンクして頂ければ幸い。
で、内容なんですが、正直まとめきれません。
カオスでした。
それが面白かったし、今後に繋がるモノになったと言うことだけは確かでしょう。こういう場所、こういう時間に、こういう企画が静岡で出来る、というのはちょっと痛快な事件だったのではないでしょうか。
お店の都合もあって、当初の計画とは異なり、トークから始めました。多分、20:10くらいから。
平野さんが市原さんを紹介して、新刊書店の現状、それから鈴木さんに振って古書店(と古本屋、或いは新古書店)の現況の話。その辺から鶴岡さんが参入して書物を巡るあれやこれやにどんどん飛びました。
出版業界の相当“ヤバイ”話もあり、もちろん、電子書籍のことも、図書館のことも。
23時少し前になって、棚の間に移動、そこでまた質疑応答。これがかなり盛り上がり、終了は23:20くらいでしたか。そのあともまだ玄関付近で色々話があり、主催者グループは食事に移動してまたひとしきり。帰宅したのは2時過ぎでした。
それでも殆どの人が中座しなかったのは、この会の意義を感じ取っていたからじゃないかと思うのであります。
私は、前に座ったメンバーの中では、行動家ではなく研究者なので、古い時代の書物の話とか、学問の対象としての書物とテクストの話とか。
多分、みんな退屈だったろうな~。
こう言うのを面白がれる人って、フロアにいたのかどうだか。
ただ、ちょっと繰り返し話した大事なことがあります。
鶴岡さんも言ってたことですが、読書体験として、電子書籍でテクストを受容することは否定しようがない、ということ。
新しいメディアが登場すると、必ずあれこれ弊害を言う人がいます。
印刷物が出現した時、悪魔の技術だと言った人もいたそうな。
テレビが始まった時、インターネットが始まった時、それぞれに似たような「メディア禍」は語られてきた。
しかし、結果、人間は、そのメディアにあった表現を開発し、受容できるように適応している。
それで、何かが衰えた、というのは簡単だけれど、得たモノを評価しないのは冷静な態度とは言えない。そのこと自体を嘆いて昔にもどれというなら文字どころか、言語以前までもどれよ、と言う話。
好きな時代の言葉遣いを恣意的に「美しい」という連中と選ぶところがない事をまず自覚してから議論しましょう。
夏目漱石の小説を授業で読む時、教科書は大抵文庫本です。初版本は買えないとしても、複製を読め、或いは初出新聞を見よ、と言う指導は普通ありません。それは、メディアがどのようなモノであってもテクストのメッセージは変わらない、という近代文学研究のお約束がまだ生きているからです(前世紀の終わり頃に否定されてるはずなんですけどね)。
古典の場合、例えば『おくのほそ道』のようなメジャー作品なら、西村本の影印を共通の教科書として指定して、注釈書はなるべくばらけるように買わせます。影印でも、何種類もの異本が揃っているから比較する必要もあります。江戸時代の版本を扱う場合でも、取りあえず、メディアの違いを体感するのは読みの前提です。
書式と内容は連動している。
「メディアはメッセージである」と言うことを、江戸文化研究家たちはずっと前から当然の前提にしてきました。
しかし、そのことは、電子書籍が普及したら無くなってしまう、と言う話ではなく、電子書籍の中で様々な何かが生まれてくるだろうと思っています。
途中でフロアにいたkanagonさんが、絵本を電子書籍で読むようにはならないだろう、と言うような発言をしました。
そうだろうと思います。
紙の本が無くなるのは、まず実用的な書物、或いは新聞などだろうと。
それから、京極夏彦を例に、様々なメディアの共存という話もありましたね。
読み聞かせのこと、紙芝居は電子化可能なんだろうか、とか、色々考えました。
アフターでは、再販制度と小規模書店の苦悩について、他の商店との異質さについてかなり突っ込んだ議論があり、外では、官能小説の点訳や読み聞かせといった、重大だけれど余り注意を払ってこなかった課題についても話し合っていたようです。
私は、それぞれ、へ~~、は~~、ばっかりでしたが、自分の立ち位置をわきまえて、メディアとはつまりなんなんだ、と言うこと、それから“読書体験”そのものについて、もう少し掘り下げてみたいな、と思ったのでありました。
有難うございました。
取りあえず、次回、第1回は、佐久間さんをメイン講師に、6/29(火)の夜です。時間、場所は追って告知します。
御来場の皆さん、ありがとうございました。
手元に残っている配付資料が三部なので、来客が30人くらいですか?
通りがかりの方も“聴講”してくださったようです。
取り敢えず記録。
前に座った人(敬称略・カタガキも略)
平野雅彦
市原健太
小二田誠二
鶴岡法斎
鈴木大治
佐久間美紀子
それぞれ検索していただければ色々出てくるメンバーです。
来場者からも活発な発言がありましたが、まぁ、紹介してしまうのも何なので、個別にここを見たらご自分のブログなど、リンクして頂ければ幸い。
で、内容なんですが、正直まとめきれません。
カオスでした。
それが面白かったし、今後に繋がるモノになったと言うことだけは確かでしょう。こういう場所、こういう時間に、こういう企画が静岡で出来る、というのはちょっと痛快な事件だったのではないでしょうか。
お店の都合もあって、当初の計画とは異なり、トークから始めました。多分、20:10くらいから。
平野さんが市原さんを紹介して、新刊書店の現状、それから鈴木さんに振って古書店(と古本屋、或いは新古書店)の現況の話。その辺から鶴岡さんが参入して書物を巡るあれやこれやにどんどん飛びました。
出版業界の相当“ヤバイ”話もあり、もちろん、電子書籍のことも、図書館のことも。
23時少し前になって、棚の間に移動、そこでまた質疑応答。これがかなり盛り上がり、終了は23:20くらいでしたか。そのあともまだ玄関付近で色々話があり、主催者グループは食事に移動してまたひとしきり。帰宅したのは2時過ぎでした。
それでも殆どの人が中座しなかったのは、この会の意義を感じ取っていたからじゃないかと思うのであります。
私は、前に座ったメンバーの中では、行動家ではなく研究者なので、古い時代の書物の話とか、学問の対象としての書物とテクストの話とか。
多分、みんな退屈だったろうな~。
こう言うのを面白がれる人って、フロアにいたのかどうだか。
ただ、ちょっと繰り返し話した大事なことがあります。
鶴岡さんも言ってたことですが、読書体験として、電子書籍でテクストを受容することは否定しようがない、ということ。
新しいメディアが登場すると、必ずあれこれ弊害を言う人がいます。
印刷物が出現した時、悪魔の技術だと言った人もいたそうな。
テレビが始まった時、インターネットが始まった時、それぞれに似たような「メディア禍」は語られてきた。
しかし、結果、人間は、そのメディアにあった表現を開発し、受容できるように適応している。
それで、何かが衰えた、というのは簡単だけれど、得たモノを評価しないのは冷静な態度とは言えない。そのこと自体を嘆いて昔にもどれというなら文字どころか、言語以前までもどれよ、と言う話。
好きな時代の言葉遣いを恣意的に「美しい」という連中と選ぶところがない事をまず自覚してから議論しましょう。
夏目漱石の小説を授業で読む時、教科書は大抵文庫本です。初版本は買えないとしても、複製を読め、或いは初出新聞を見よ、と言う指導は普通ありません。それは、メディアがどのようなモノであってもテクストのメッセージは変わらない、という近代文学研究のお約束がまだ生きているからです(前世紀の終わり頃に否定されてるはずなんですけどね)。
古典の場合、例えば『おくのほそ道』のようなメジャー作品なら、西村本の影印を共通の教科書として指定して、注釈書はなるべくばらけるように買わせます。影印でも、何種類もの異本が揃っているから比較する必要もあります。江戸時代の版本を扱う場合でも、取りあえず、メディアの違いを体感するのは読みの前提です。
書式と内容は連動している。
「メディアはメッセージである」と言うことを、江戸文化研究家たちはずっと前から当然の前提にしてきました。
しかし、そのことは、電子書籍が普及したら無くなってしまう、と言う話ではなく、電子書籍の中で様々な何かが生まれてくるだろうと思っています。
途中でフロアにいたkanagonさんが、絵本を電子書籍で読むようにはならないだろう、と言うような発言をしました。
そうだろうと思います。
紙の本が無くなるのは、まず実用的な書物、或いは新聞などだろうと。
それから、京極夏彦を例に、様々なメディアの共存という話もありましたね。
読み聞かせのこと、紙芝居は電子化可能なんだろうか、とか、色々考えました。
アフターでは、再販制度と小規模書店の苦悩について、他の商店との異質さについてかなり突っ込んだ議論があり、外では、官能小説の点訳や読み聞かせといった、重大だけれど余り注意を払ってこなかった課題についても話し合っていたようです。
私は、それぞれ、へ~~、は~~、ばっかりでしたが、自分の立ち位置をわきまえて、メディアとはつまりなんなんだ、と言うこと、それから“読書体験”そのものについて、もう少し掘り下げてみたいな、と思ったのでありました。
有難うございました。
取りあえず、次回、第1回は、佐久間さんをメイン講師に、6/29(火)の夜です。時間、場所は追って告知します。
大丈夫です。
その辺誤解はしていないつもり。
私は、“本業”で、印刷や商業出版が普及した時に、日本語の表現(或いは読書行為)がどう変わったか、と言うようなことを考えています。異質なメディアの共存という意味でも江戸時代はテストケースだと思っています。
丁寧に調査することで、“記憶の仕方”に差が出る事を検証できると思います。
なお、次回の会場は馬場町会館に決定したようです。
多分19時開始かな。
私、お話するの本当に下手で、あまり思っていることが伝わっていないかもしれないのですが、私電子書籍は全く否定してませんよ~。
ただ、書物で読むのと、電子書籍で読むのでは、同じ内容のもので、受け取り方や脳への伝わり方、記憶の仕方(何年後の、何十年後とどのように記憶されて行くのか、残って行くのかというか)というものが、やはり違うんですかねえ?という素朴な疑問で、別にだから、書物がいいとか電子書籍が悪いとかいってませんよ~。
物理的に(実験した方がわかるのかなあ?同じ状況で、同じ内容のもので、書物と電子書籍で、記憶の仕方とか、何年後かの統計というか)どうなのかなあと。素朴な疑問で。
(本は物(立体)で、電子書籍はデジタルですから存在自体も違うのだろうし)
私も、何かを読んだり、調べたりするのに、明らかに電子書籍を読んでいますし。
主観でなくて、客観的にどうなのかなあという疑問でして。
両方必要なのはわかります。
確かに、絵画でも本物と印刷とデジタルでは、それぞれ面白さも違ってくるでしょうし。それぞれの良さや特徴がありますし、想像もつかない進化もあるのだろうと思いました。