祈りというものは、魂が神に近づく心の体操(たいそう)であるから、毎日、肉体の体操をしておれば筋肉が発達(はったつ)して来るのと同じように、祈りを毎日重ねていると、魂は毎日一層清まり、発達して来るのである。それが本物の祈りの御利益(ごりやく)というものであって、現世的なことばかりを御利益だと思ってはならない。現世的な御利益は肉体の死とともに捨ててしまわねばならぬけれども、魂の清まりと発達とは死を超えて存続する永遠の功徳(くどく)なのである。
毎日祈ることが必要である。それは毎日食事をとり、ある程度の肉体的運動が必要なのと同じことである。食事をするときには自分自身に適する食物と、適しないでも常食として常に食しなければならない食物があるのと同じように、一定の言葉を念ずる基本的神想観をすることは正しい主食品を常食とするようなものである。それのほかに祈る際自分自身の個性に適するところの「念ずる特殊(とくしゅ)の言葉」が自然に生じて来るものである。その特殊の言葉を「私はこうして祈る」の本から選び出すのもよいが、自然に祈っているうちに、内部の神から教えられて来るものである。
谷口雅春先生の【新版女性の365章】
第一項 神と偕(とも)に生きる歌
15ページ 毎日祈ることが大切 より
わたしは毎日神想観をしています。その中でいくつか祈りの言葉を祈っています。
「私はこうして祈る」の本から一つ、自然に生じてきた祈りを一つ、それ以外にいくつか自分の願いを祈っています。少しずつかなってきているように思います。
毎日祈ると、毎日魂が清まるとは知りませんでした。
これを知って、毎日の祈りがこれまでよりも幸せな気持ちになると思います。