通りがかりに「郷土の豪勇 篠塚伊賀守墓所」という看板を見つけました。
そういえば、ここは邑楽町大字篠塚というところ。
新田義貞の四天王のひとりとあるけど、そんな武将いたっけ❓
墓所には大中黒の新田の家紋。
説明板によれば…
篠塚重広は名門畠山氏の子孫で、父の後を継いで篠塚城主となり、新田義貞の側近となったとのこと。
身長が六尺五寸(195cm)あり、八尺(240cm)の金棒をブンブン振り回して戦った❗とあるので、まるで張飛か関羽のような豪傑だったンですね😁
四国今治の世田山城の合戦では、敗北すると単身で敵陣に向かい、こう言ったといいます。
「我こそは篠塚伊賀守である。討ち取って手柄にせい❗」
ところが、天下に鳴り響いていた重広の豪勇に恐れをなして、誰も近寄る者が無く、重広は悠々と敵陣を突っ切って浜辺に至り、敵の舟を乗っ取って沖ノ島に渡った…ということです。
舟に乗り込んだ重広は、すぐに大イビキをかいて眠り込んでしまったので、船頭たちは呆れるやら、感心するやら😅
この豪傑は江戸時代、芝居などで大人気だったとか🤗
この墓所は大信寺というお寺のものです。
お寺の山門は、館林藩の初代藩主となった榊原康正が寄進したもので「出世門」と呼ばれているそうです。
この門を潜った人は必ず出世する❗という…私もひとつ。もう遅いとは思うけど😙
この豪傑にゆかりの地では、いまでも交流があるそうです。
沖ノ島に上陸した重広は、そこから海路から波崎(茨城県神栖市)に向かい、舟の碇を担ぎ上げて、浜辺に安置しました。
その碇と同じ物が墓所にありました。