「フォロー・ミー」
輝く海を越えた地へ、私は行きます
そこは、私たちの知って居る世界を超え、
夢でしかなかった世界をも超えた先
私たちが味わって来た事の無い喜びが待ってる場所
愛だけが見い出せる道にそって、私を追って来て
喜びの歳月の夜を登り、
私たちが無駄に流した涙も、無駄に過ごした年月をも超えて、
光の中へ
遠く離れた地へ、この山を超えて、私は行くんです
そこでは、私たちがずっと隠して来た音楽すべてが、空にひびきわたる
沈黙の中で歌えば、退屈な日常から離れ、こころは自由になる場所へ
この世界がまわり、まわりつづけ、
堕ちつづけているうちに
聴いて見て下さい.....。
更新は控えようと思いますが、今日は調子が上向いて来たので、また書いて見ました。今回は、1970年代の高度成長から今迄までの事を書いて見ました。
コメント頂けると嬉しいです。気軽に何でも書いて下さいね。よろしく〜〜。
下は、私が男として尊敬する人達です。歳を取って居る、自分より歳が若い若造だとか関係ないです。男として信念を持って生きて居る人は私は尊敬します。
GACKT「GACKTやるって、マジで大変だけど。覚悟ある?」
現代ホスト界の帝王ROLAND。激動の日常に密着!【ROLAND社長-完全密着-】vol.024
Yohji Yamamoto ジャズとファッション
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原田芳雄~松田優作に大きな影響を与えたアウトローな男
森田一義アワー 笑っていいとも!(テレフォンショッキング:ゲスト原田芳雄)火曜日レギュラー:ダウンタウン(松本人志・浜田雅功)・森口博子・神田利則 1992年5月26日放送分
内田裕也 ミスター・ロックンロール~ROCK 'N' ROLL BAKA 1979
らもさん
『キャタピラー CATERPILLAR』若松孝二監督インタビュー1
kiyasumeが尊敬する2人の男の対談です.....。 「映画の肖像・黒澤明 大林信彦 映画的対話」
押井守 / 自作を語る / イノセンス
出崎統 × 池田理代子 対談
kiyasumeが一番好きな外国の女優です。フランスの大女優 ~ カトリーヌ・ドヌーヴ
==「エッセイ」==。
しかし、本当に人は何思うかですね。私の処に来るヘルパーは三人居るのですが、そのうちのチーフである女の子と言っても歳は30代だが、その子は何時来ても掃除をキチンとしないのですよね。表面上だけ掃除をするのです。例えば、荷物が置いてあるとその周りだけ簡単に済ます。前に見かねた私が、荷物を退けたら、「此処も吸い取るのか!!」と怒鳴る様に言うのです。そして、私がいちいち物を買うのを気にして見て居る。そして、私が昨年ビデオデッキを購入して居たら来てこう言う「これ買ったの!!」だから「カセットテープに録音する為にね、購入したんだよ」そう言うと。憎々しげに言う「どうせすぐ壊れるよ!!」私は笑って仕舞った。そしてその子が裏方に引っ込んで次に来た子が子持ちの子で、来る度に私に聞く「〇〇さんって持ち金で暮らして来たそうだけど、何年暮らして居るの?」私は言った。「誰から聞いたの?」すると言う「訪看から聞いた。」そして続けて言う「今幾らお金持ってるの教えてよ!!」だから私は言うのですよ本当の事を「俺は数千万円持って居たよ。だから15年ぐらい暮らせて来た。残りは400万切ったよ。俺は60廻った男だよ。金はこの年になれば其の位は持って居る。」そして言った。「俺は持ち金が無くなったら生活保護頼らないとだけども....。障害が酷くて働けないからね。君は給料結構貰って居るんだろう?」すると要約黙り込む。そしてiPhoneのバッテリーのコンセントを掃除機で毎回吸い込み、そして切って仕舞った。そしてこう言う「私。何時もこれ吸い込む....。」人のモノだと思って。コードを別の処に片付けてから掃除しようとはしないのだ。iPhoneの付属品のものだ。中々手には入り難いが、仕方なくAmazonで探して見つけて代わりを購入した。無かったらスマホが使えない。そしてその子も来なく成り、今は60歳を廻ったオバさんが来て居る。しかし、この人もたまに私に突っかかる。
めぐりあい宇宙
此間もこう言う。「私なんか、近所しか出ないし。別段、大層な処に行く訳では無いから、着るものは、四百円のTシャツに六百円のズボンだよ!!あんた、何でそんなYシャツ着てさ、ロング・ベストなんか羽織って居るのよ。暑く無いの?」そして壁の鴨居に掛けてある、洋服やらブレザーコートを見てこう言う「どうせ買っても着ないんでしょう、これなんか制服みたいじゃないのよ?」私が「デザインがカッコイイから購入したんですよ....。」と言うと「だって学生服 見たいじゃない?こんなの買ってもどうせ着ないわよ。」このオバさんとは歳が近いせいも有りよく話はする。思い出の1970年代の事やら、ロックに付いてやらだ。処で一体何なんでしょうか?この程度が低い人たちは?前に、この、おばさん以外のヘルパーが二人して来た時に。丁度、その時は私は病み上がりだったのですが、、二人で来たから、任せて、隣の部屋で本を読んで居たら。私が見て居ないのを幸に、あちこち、例えば机の中を開けて見たり、スリープ状態になって居たパソコンを見たりして居た。私は隣に居たが全て解って居た。そして、私が何気なく気が付いて、愛機のハーモニカ・アンプ「ハーピスト」を見たら。何と上に並べて置いてあるマイクのコンセントのプラグが、アンプのスピーカーに突き刺さって居るのですよ。私は激怒しそうになった。一体。訪問看護婦といい。この連中はどれだけ常識が無い最低な人間たちなんだろうか、、訪問看護師は以前の看護師は何遍も言うが、私がある40代の女性の看護師にブレザーを見せて、トイレに入ったら、それを盗んで居た。その人が帰ってから、洋服ダンスを見て見たら掛けた筈なのにブレザーが何処にも無いのですよね。そして其の時は実家に居た時だけども。部屋の隅にうっかり、パーカーなどを脱いで置いて居たら、其れ等も無くなるのですよ。「あれ?」と思い観て見ると大抵は無くなって居るのですよね。福祉や身体障害者。特に精神障害者の処には、こうやって、福祉業者とは名ばかりの得体の知れない連中が蔓延る。職業には貴賎はない。私もそう思う。だが働く人の質は本当に劣るのですよ。
炎のたからもの
此間来た、30代の訪問看護師に1970年代の世相と当時何が流行って、世の中の状態がどうだったかを話した。例えば音楽に付いてだ。「1970年代、当時はブルースが流行って居たよ。丁度、今で言う処のヒップホップ見たいにね。」しかし声高く笑って話を聞いて居ない。人によっては、自分の生まれる前の事なんか、興味が無いと言う人も居る。しかしそう言って居る人たちに言いたい。若いうちはすぐに時が経つ。すぐに歳老いて行くのですよね。それに過去の事は知って居た方がいいのですよ。何かと後々為に成るのですよね。皆さんにも言って於くが。1970年代はエポック・メーキングだった、即ち、大量生産時代の到来である。
ニッポン高度成長物語
日本に於ける消費社会の成立は,1970年代初頭の高度経済成長の終焉に見いだす事が出来る。 日本の「初期近代」の到達点である高度経済成長期に於いては,消費者の欲望は,有限なものとして捉えられて居た。それに対し,高度経済成長の終焉後の「後期近代」においては, 消費者の欲望は操作可能なものと捉えられる様になった。 高度経済成長期は,「経済成長」と言う「大きな物語」が消費者の消費を動機づけて居た。 この「経済成長」と言う「大きな物語」は,多くの消費者にアメリカ的なライフスタイルへの憧憬を抱かせ,消費への欲望を喚起した。その象徴が,家電製品をはじめとする耐久消費財の消費である。 いわゆる三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)の普及率は,当時の一般家庭の生活水準から考えれば高価な商品であったにもかかわらず,1950年代末から1960年代にかけて爆発的に普及して行った。1955年には洗濯機が約4%,テレビと冷蔵庫は1%にも満たない普及率だった。しかし,1960年には洗濯機45%,テレビ54%,冷蔵庫15%に激増した。 特に,テレビの受信率の爆発的な増加によって,アメリカ的なライフスタイルへの憧憬と言う価値観が人びとに大量に供給される様になる。と言うのも,1960年代前半までのテレビ放送を支えて居たのは,アメリカから輸入された大量の番組であったからだ。アメリカ製の人気ホームドラマが映しだす豊かな生活のイメージ が,「経済成長」の理想像として,人々に供給されて居た。 その様なアメリカ的な豊かな生活と言うイメージは,洗濯機や掃除機,冷蔵庫などの様な家電製品によって,主婦の家事労働からの自由を達成し,「家庭の民主化」を実現出来ると言った価値観を供給した。その結果,多くの消費者は消費への自由の欲望を喚起された 。 この様に,「経済成長」と言う「大きな物語」は,人びとにアメリカ的なライススタイルへの憧憬に裏づけられた社会的な階層の上昇 と「上流階級」への欲望を抱かせる事によって,「消費への自由」へと動機づけを行って居た。
1966 昭和東京
そして人々は,「消費への自由」を通じて,生活水準向上への自由を追求して行ったのだった。 しかし,高度経済成長にも限界が訪れる。と言うのも「経済成長」と言う「大きな物語」は、そもそも消費者の欲望を急速に満たす事によって,アメリカ的なライフスタイルへの憧憬を希薄化すると共に,社会的な階層の差異を解消して行く事を最大の目標として居たからだ。 有限な素材たる消費者の欲望を源泉とする大量生産による価格の引き下げは,需要の拡大を進め,資本の蓄積を生み出す。そして,資本の蓄積は大量生産の合理化を推し進める。大量生産の合理化と,さらなる技術革新をおこなう事によって「生産への自由」を阻害するものを不在とする「消極的自由」の環境を確保しつつ, 「経済的欲望への自由」をさらに追求する。 その結果,生産力が成熟する事で,過剰生産に陥り,消費は飽和点に達して仕舞う 。現 に,耐久消費財の普及率を見ると,1970年までには冷蔵庫や洗濯機は90%を超えており,1975 年までには95%の世帯で冷蔵庫,掃除機,洗濯機,カラーテレビを所有して居た事が確認出来る。 人びとの生活水準の向上で社会的階級の差異等が縮小する事によって,消費者を動機づけて居た。アメリカ的なライフスタイルや「上流階級」への憧憬と言った「大きな物語」も機能不全に陥る事になる。そして,消費者を「消費への自由」へと動機づける「大きな物語」も 凋落すると共に,有限な消費者の欲望も枯渇して仕舞った。
Japan in the seventies (2) 70年代の日本
80年代の日本
この様な消費者の欲望の枯渇と「大きな物語」の凋落を受けて,新たな差異の創造に基づいて,消費者の欲望を創出する消費社会が 出現する事となる。 高度経済成長期における単一の商品の大量生産から,差異化にもとづく多品種少量生産へと消費社会の変容と自由の所在転換を行なう事により,「機能性や合理性を基盤とするモノ作りの社会」から「消費者の欲望を創出する社会」へと転換された。 生産者は差異化された商品,記号化された商品を生産する事によって,消費者の欲望を創出する。それを通して,自らの「積極的自由」 を行使出来る「消極的自由」の環境を創出する事によって「経済的欲望への自由」を拡大して行く事になる。 消費社会に於いては,消費者の欲望は差異を生産する事によって操作可能なものとして捉えられる。それゆえ,消費社会に於いては限界効用よりも「限界差異」が追求される。生産されるモノも,「使用価値」と言う視点からは捉えられない「超機能的なモノ」が大量に生産される様になる。そしてモノは,他の物との差異の体系のなかで,「記号」としての価値を獲得して行く事となる 消費社会における自由消費社会における消費者の最大のテーマは, 「消費への自由」を通じた自己アイデンティティの形成であると言える。「大きな物語」が凋落した後期近代の社会に於いては,個人が自らの物語を紡ぎだし,自己アイデンティティを形成し,維持する事になるからだ。 例えば,リースマンは『孤独な群衆』のな中で,差異の生産の軸になる「製品差」と似た様な考え方が,パーソナリティの生産に付いても当て嵌まると言って居る。つまり差異化は生産の場のみならず 消費の場に於いても重要な要素となり,パーソナリティや自己アイデンティティの形成にも影響を与えると言う事だ。 また,1980年代のパルコや西武百貨店の広告に於ける,「女の時代」「じぶん新発見」「裸を見るな裸になれ」と言ったキャッチコピーに象徴される様に,消費社会では消費する事の意味と生きる意味(自分らしさ)とが密接に結びついて居る事が確認出来る。 80年代当時。吉本隆明が広告塔となり「コム・デ・ギャルソン」を颯爽と羽織り、埴谷雄高などから。「哲学者が時代と寝てどうする。」と強く批判を浴びせられる論争があった。。。
井上雅人「コム・デ・ギャルソン論争とアンアン革命――埴谷雄高と吉本隆明の論争にみる、プレタポルテへのまなざしの変化」
私は、時代の流れには「波」があると思って居ます。あくまでも「個人的な感覚」ですが、10年毎の時代のトレンドを以下の様に見て居ます。
1980年代 『金融』の時代
1990年代 『IT』の時代
2000年代 『環境/ECO(エコ)』の時代
2010年代 『ヘルスケア』の時代
2020年代 『AI・ロボット』の時代
此処でひとつ補足して於たいのは、上の記載は、それぞれの時代に於いて「何が重要であるか」ではありません。「ヘルスケア」や「環境」と書いてある事からも分かる通り、上に記載してあるものは、全て、「今も、これまでも、これからも」、時代に関係なく、重要なものです。では、上の年代毎の分類は何を意味して居るのでしょうか。これは、それぞれの時代の中で「ビジネスと言う切り口で見た際に、拡がりを見せる業界」を記載して居るものになります。
時代は変化している
【1980年代】特に「プラザ合意(1985年)」以降、金融システムが一気にその複雑化を増しました。
【1990年代】「一人に一台のコンピューター」や「インターネットの存在」が当たり前になりました。「Windows 95」の発売も象徴的な出来事です。
【2000年代】1997年の京都議定書に基づく排出権取引が始まったのは2008年です。ハリウッド俳優のレオナルド・ディカプリオが、高級車ではなくプリウスでアカデミー賞の会場に登場して話題になりました。アル・ゴアが、環境活動を認められIPCC(気候変動に関する政府間パネル)と共にノーベル賞を受賞したのもこの年代です。
【2010年代】世界の中でも特に少子化・高齢化が進んでいる国である日本に住む我々は、いつもニュースで「国の医療費40兆円」という話を聞かされて居ます。アメリカ人は2010年代に、「オバマケア」と言う言葉を何回聞かされた事でしょうか。増える人口、延びる寿命、それらを支える制度としての「医療」。2010年代ほどヘルスケアがクローズアップされた事はありませんでした。
1991 新宿 東口と西口の散策散歩 Shinjuku Lunchtime Walkabout East and West 910523
渋谷駅再開発2013→2020~シブヤは7年で此処まで変わった~
【4K】[東京散歩] 渋谷 2020/04/11 [Tokyo Walk] Shibuya
【4K】[東京散歩] 原宿 竹下通り キャットストリート 渋谷 2020/02/22 [Tokyo Walk] Harajuku Takeshita Street and Shibuya
もうすぐ21世紀と毎日テレビで喧伝されて居た1985年から95年辺り、2020年がこんな時代になって居ようとはまったく想像して居なかった。
21世紀が20年目。こんな時代に我々はどう生き抜いて行ったらいいんだろうか?。
ちなみに、どんな時代なんだろう?
・人口減少の時代。毎年50万人減っていく。
・人生100年時代。100歳まで生きる可能性がある。
・AIが普及し情報処理に大きな変化が起きる時代。今までの仕事が無くなって行く。
・4G5Gスマホ。情報流通コストがゼロの時代。瞬時に何でも見れる。
・生活に必要な物は溢れ、新たな物が必要ない時代。なんでもシェアされる。
・30年日本は経済成長せず低迷し、世界との格差が広がる時代。一人GDPで日本はどんどんと下位になる
まったく流れが逆転して居るのだ。
時代を生き抜く為に必要な事。それはその時代での強さ。
では、強さと何か?極端に言えば2つ。
その時代での、「レア度」と「求められるスキルが高い事」
50年前の流れは、「もっと長生き出来る様に」「もっと情報が簡単に手に入る様に」「もっと生活な必要なものが手に入る様に」無いものを充足する、その為のレア度とスキルが必要だった。これからの時代を生き抜く為には、これからの時代の流れにおいて、何が「無い」のかを知る処から始まる。いま何が無いのだろうか?長生きが出来、物が溢れ、情報もたやすく手に入るこの世の中で、何が無いのだろうか?
これからの時代に「無い」もの
・人口は減るのに、長生きする人は増える
ーシニアでも活躍できる場所が無い
ーマイノリティ(男女機会平等含む)で活躍できる場所が無い
ー老後に安心して暮らせる環境が無い
ー老後に安心して暮らしていける保証が無い
ー子供を多く産む夫婦が居ない
・情報は瞬時に手元に大量に届くけど、AIによって自分で処理する量は減る
ー大量に届く情報を見極める術が無い
ーAIを使いこなせるスキルが無い
ーAIによって浮いた空き時間を有効活用する術を知らない
ー今の自分のスキルでどう言う付加価値をこれから出せるのかを知らない(AIが来たとしても)
・生活に必要な物は幾らでもあるけど、豊かでない
ー何事もスマホで解決できる一方、真の悩みを相談出来る友人が少無い
ー地域のあらゆる情報は知ってるが、コミュニティには参加して居ない
ー家は物で溢れて居るが、心の幸せを感じ無い
ー今の自分(スキルとレア度)で、これから継続的に生き抜いて行ける場所が見つから無い
これだけ、「無い」を列挙するとなんだか暗くなりますね・・・この「無い」を解決する為の、レア度とスキルが、これからの時代に求められる事でしょうね。
最後に、2020年はコロナで始まりました。このウイルスとの戦いは長期化しますし。其のせいで、私たちの生活様式は根底から変わりました。此処まで1970年代の大量消費時代から今まで。そして今の時代に付いて足早に書いて来ましたが。今は何でもある時代です。過去の遺産は全て現在で入手可能です。人にも寄るかと思いますが。私は過去のモノをオーバーホールしリペアして、尚且つ今風に改造した家電製品などを好みます。特にラジカセ。最近ではオークションなどで取引されて居ますよ。ラジカセの中古専門店などもあります。昔のラジカセの方が今のCDラジカセよりも音がいいのですよ。昔の様なラジカセは、もう金型も部品の生産も終わり今の技術では作れません。だから、そう言ったモノを購入するのがベストだと思います。この文章の締め括りとして、渋谷に出来たラジカセ専門店を紹介して終わりに仕様と思います。
渋谷・神南に中古「ラジカセ」専門店-アナログ機器の魅力発信

「ラジカセならではの『アナログ』文化を残していきたい」とオーナーの浅田さん
渋谷・神南のビルの1室に4月1日、往年の「ラジカセ」を中心に扱う専門店「Dubby MAD sound shop(ダビーマッドサウンドショップ)」(渋谷区神南1、TEL 03-5941-6242)がオープンした。
セレクトショップや古着店などが立ち並ぶ渋谷・神南エリアの一角に開いた店舗は、マンションの1室を改装したアットホームな空間。広さ約10坪の店内には、趣味が高じて集めた70~80年代のラジカセがずらりと並ぶ。
店頭に並ぶ約50台のラジカセはいずれも、CDが普及する前に売り出された中古品。ラジカセの魅力について、浅田さんは「ラジカセならではの『アナログ』感がある。テープメディア独特のアナログ文化を残して行きたい」と話す。
商品はコンディションによって数千円台のものから高いもので7万円を超えるものも。 ラジカセのほか、80~90年代初頭にかけて出回った電子音楽機器やミュージックトイなどの楽器類も取りそろえる。
営業時間は14時~20時(ゴールデンウイーク以降は12時~)。
Amazin Boombox Ghettoblaster collection Shop in the world. In Dubby Mad, Tokyo Japan
9th Annual Boombox Meeting Dessau, Germany, August 18, 2018
今日の昼食です・・・・。
ーーー今回は、まだ入った事が無かった、近所の喫茶店に行って見たーーー。
野菜カレーライスとドリンク(アイスコーヒー)セット。730円とミニサラダ140円で合計870円でした。
眠たいkiyasumeです。。。
「オタクの視点から見たポストモダン」
「動物と機械における制御と通信」という挑発的な副題がついた『サイバネティックス』の著者である数学者、故ノーバート・ウィーナーは、コンピュータ文化の生みの親のひとり。彼は第二次世界大戦中に米国防総省の要請を受けて、ナチス・ドイツを打ち破るため、まずはナチスの爆撃機を効率よく撃ち落とす対空砲火の開発のため、数学を軸に、脳科学、物理学、生物学の研究者を一堂に集めて領域を横断した新たな学問を生み出す。それが「サイバネティックス」だ。
そこでウィーナーは計算機、しかも自らが計算する機械を構想する。彼は『サイバネティックス』のなかでこう述べる。「演算の全過程を計算機の内部に置いて、データが計算機の中にはいり、計算の最終結果がとりだされるまでのあいだ、人間が介入しなくてもよい様にする事、またその為に必要な論理的判断は、計算機が自ら行うこと」
この本が世に出されたのが戦後すぐの1948年。ウィーナーのサイバネティックスと、イギリスでは数学者アラン・チューリングの自動計算機の発明から、コンピューターの歴史が始まったと言っていいだろう。
だがウィーナーは次の著作『人間機械論──人間の人間的な利用』に於いて、自動で判断する計算機がもたらす危険性への警鐘を鳴らす。
「現実に危険なのは、そのような機械が、それ自体では無力だが、一人の人間または一握りの人間によって、人類の他のすべてのメンバーを管理するのに利用されること。または政治の指導者たちが大衆を、機械そのものによって管理するのではなく、あたかも機械によって算出されたかの様な狭くて人間の可能性を無視した政治的技術によって管理しようとする事である」
この様に、自ら計算する機械への信奉と恐怖も、この時点から始まって居るのだ。ウィーナーはなおも続ける。「ファシストや実業界や政界の実力者の支配のもとで、人間は、ある高級な神経系をもつ有機体といわれるものの行動器官のレベルに引き下げられて仕舞った。私は本書を、人間のこの様な非人間的な利用に対する抗議に捧げたいのである」。人間の機械性を先んじて研究し発表したウィーナーは、それがもたらす人間の動物的な利用への抗議に残りの半生を費やすことになる。
自ら計算する機械──それをAIとまとめて語っているが──の可能性とダークサイドを考える事は、人間の動物性ならびに機械性を考えることにほかならない。この連載タイトル「動物と機械からはなれて」を決める際に、もうひとつ参照したのが、思想家の東浩紀が『動物化するポストモダン』で提唱した「動物化」の概念だった。
動物化とはなにか。フランスの思想家アレクサンドル・コジェーヴが『ヘーゲル読解入門』にて人間と動物の差異を「欲望」と「欲求」という言葉を用いて表現した。コジェーヴによれば人間は欲望をもつが、動物は欲求しかもたない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。「『動物になる』とは、そのような間主観的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏─満足の回路を閉じて仕舞う状態の到来を意味する」と、東は『動物化するポストモダン』で解説して居る。「人間は動物的に生きても問題ない訳です。コジェーヴが動物化を定義するときに、人間は環境と調和して居ない、動物は環境と調和して居ると表現しましたが、周りの環境と調和して生きたっていい訳です。でも、どんな人でも環境と調和したく無くなるときはあるんですよ。親族の不幸かも知れないし、病気になった瞬間かも知れない。『なぜ人は生きて居るのか』や『なぜ世界は存在するのだろう』と超越論的な思考をして仕舞う時が人間にはあるんです」
「リアルな社会に息苦しさを感じるからこそ、さまざまな出会いや発見のあるヴァーチャルな世界が必要だと言われますよね。ぼくは逆だと思って居ます。リアルな世界のほうが偶然性が高く、さまざまなものに出合える可能性が存在して居ます。リアルな世界での思いがけないものや知らない事との出合いが、実は頭をリフレッシュしてくれるんです」
人間は支配に順応する生き物 巨大プラットフォーマーである米国のGAFAや中国のBATの成長に伴い、アリババのような企業が提供する「芝麻信用」などのサーヴィスを、ドイツの政治学者セバスチャン・ハイルマンは「デジタル・レーニン主義」と表現した。しかしながら「共産主義をAI社会のメタファーとしてもち出すのは間違いではないか」と東は指摘する。「共産主義というのは、所有権を廃止するなどの人間の本性に反する事をやらせる体制です。一方で現代の巨大デジタルプラットフォーマーは、人間の本性に反する事をやらせて居ません。GAFA批判やBAT批判をしてもしょうがないんです。なぜなら彼らが提供するサーヴィスは人間の本性に基づいて居ますし、プラットフォーマーが交代し 巨大デジタルプラットフォーマーの発展の先に、AIによる人類の支配を恐れる様な考え方も登場して居る。東はその指摘に対して「いまの世界と本質的に何が変わるのだろう?」と疑問を呈する。
「いまぼくたちが生きている世界は、世界の超富裕層26人が資産150兆円をもち、それは世界の貧困層38億人と同額と言われて居ます。ごく少数の人々の意向によって世界はガラリと様相を変えてい居るとも言える訳です。それでもぼくたちは普通に生きて居る。『AIに富が集中していておかしくないかな? でもやむなし』と適度に対処するだけだと思うんです。ぼくらが考える以上に、人間は支配や権力に対して柔軟です。AIやロボットによってぼくらのアイデンティティや日常的な感覚、暮らし方も大きく変わらないと思っています」 そのような人間の動物的な側面を意識した上での社会設計が求められていると東は提唱している。 「いまや人間性は、動物性や機械性のノイズとしてしか存在しないんです。人間は基本的に動物なんですよ。ただ与えられたモノを食べ、働けと言われたら働き、何も考えずに税金を納め、選挙に行ったらなんとなく政党に票を投じるんです。ゆえに人間の動物的な部分と人間的な部分を考えたときに、どうバランスをとるかが社会設計にとって重要です。今後は、人々の無意識の行動がビッグデータによって自動的に政策になったり、社会的な改善策になったりするデジタル・デモクラシーも台頭して来るでしょう。その様な『動物的な民主主義』と、投票による議会制民主主義をどの様に調停させるか、ぼくが以前提唱した『一般意志2.0』のような仕組みを考えて行かなければなりません」===言いたい事===
人は自分の考え方で人を見る。人には誰にも譲れない考え方がある。言って見れば其の人間の型(尺度)だ。その人は自分にある、いや、自分が考えた思想で生きて居る。この思想。この型(尺度)は何人にも侵し難きものだ。それは何時出来上がったものだろうか。何時形成されたのだろうか。思想は誰でも持って居る。型(尺度)は誰でも持って居る。しかし、この型(尺度)は、一丁一端で出来たものでは無い。生きて来る上で考えたものだ。人生経験から来て居るとも言える。「知・覚・考・動」この言葉の定義を知って居るか?世の中の大半普通の人の思考はこれだ。しかしこれでは何にも出来ない。「知・覚・動・考」こう変えて見る。この四つの言葉で一番大切な言葉は何か?答えはすでにある。「とも(知)・かく(覚)・うご(動)・こう(考)」だ。ミュージシャンのGACKTは言う....。「物事を知って居たら覚えたなら。とにかくすぐに動く事、行動する事。動きながら、知る事も覚える事さえも出来る。逆に行動しないと。知って居ても其の意味が解らなかったり覚えた事さえどんどん忘れて行く。だからこそ行動こそが結果を出す一番の近道。考えてから動くからスピードが遅くなる。。考えるのは行動をした後でいい。全ての人間の行動は思考が支配して居る。思考が結果を生み出す。」
私は、物事がうまくいく人に共通する要素は「素直さ」だと思って居ます。素直な人はビジネス書を読んで、面白い事が書かれて居たら「自分もやって見よう」と、すぐに行動に移す事が出来ます。柔軟性に富んで居るから、自分とは異なる意見を取り入れ、行動に移す事が出来るのです。一方、素直でない人は他者の意見をなかなか受け入れようとはしません。悪い意味でこだわりが強く、頑固です。他者の意見を取り入れないと、結局は自分の勘や経験、そしてわずかな知識に頼るしか無く、遠回りをして仕舞います。どんな物差しで自己の価値を測って居るのか、わざわざ意識した事は無いかも知れませんが、実は心の奥では気づいて居るかも知れません。結局の処、「自分は基準に達して居る」と感じれば、自分に対する感情が良くなりますが、「自分は基準に達して居ない」と感じると、自己評価は暴落します。相手を苦手に感じ、相手の事が嫌いになるとき、人は理由を相手に求めます。自分の意に沿わない言動によって、自分は苦しめられて居ると感じるのです。しかし、自分の意に沿わないと決めて居る基準はなんでしょうか。それは自分の価値観で作った自分の型であり、絶対的なものではありません。
それでは、そもそも人はどんなときに、相手を「苦手」「嫌い」と感じるのでしょうか。殆んどの場合、原因は相手の発言やふるまいにあるのだと思います。相手の発した言葉で傷ついた、無神経なもののいい方が癇に障った、だらしないふるまいを見て不愉快だった……。そうした自分の意に沿わない言動が、悪印象を持つ切っ掛けになるのです。勿論、型はあっていいのです。それは自分の発言や行動の規範になるものですし、型がある事によって、自分という人間が作られます。ただし、他人をはかるときには、型に“嵌めて考える”のは辞めましょう。自分の型と他人の型は違うのですよ。
此処で「禅」の求道者、枡野 俊明氏の言葉を抜粋して於きます。
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『「禅の庭」をつくるときに、私は時折、「山是山、水是水(やまはこれやま、みずはこれみず)」と言う禅語を思い出します。意味するのは、山は山として本分を真っ当し、水は水として本分を真っ当して居ると言う事です。山が水に対して「山になれ」と命令する事もなければ、水が山に向かって「水になれ」と指図する事もありません。
禅の教えは、人の社会全般に当て嵌ります。「山是山、水是水」を人間関係に当て嵌めるなら、自分が山なのであれば、水である相手が山になる様に求めては行け無いし、自分も水になろうと頑張る必要は無いと言う事になるのです。山は山として、水は水として本分を真っ当するのが美しいのであり、自然は当たり前の様にそうして居ます。
禅では、人と自分に付いて、「人は人で絶対、自分は自分で絶対」と考えます。絶対という意味は、今、此処に、命を頂いて、過不足なく生きて居ると言う事です。人も自分も、共にその様な存在なのです。過不足なく生きて居る誰かに、「此処が足りないじゃないか」などとは言え無いのです。
人は人で絶対、自分は自分で絶対と言う事を意識して、誰に対しても、「水平の視線」で見る様にして見ましょう。視線を高くして見下ろせば、人は小さく見えますし、視線を低くして見上げれば、人は大きく見えます。どちらも相手を正しく見る事になりません。』
常に水平の視線で人を見ることを心がけ、その様に努めて行く。それを怠らない事で、人は人、自分は自分と言う事が身体で解って来る。つまり、実践出来る様になるのだと思います。
==「最後に」==
自分の思想。型には、程度があります。つまり型を使う為には己の意思と行動力が必要です。人を妬んで居る。口を開けば他人を憎んでばかり。他人のやり方考え方をただ不定したいだけ。他人の夢を馬鹿にする奴。あなたはどうですか?悔いを残したか。人を憎んだか。人を愛せたか。罪を刻んだか。何かを失ったか。自分を愛せたか。GACKTは言う。「今日と言う日は、昨日。今日を本気で行きたくて、それでも、この世を去らなければ成らなかった者たちが残して行った輝かしい未来だ。そんな一日だ。だから本気で生きろ!!」自分の思想。型(尺度)。然しながら、其の思想は常に更新し。そして磨いて居なければチンケなプライドと成って仕舞うのですよ。私は自分の思想(型)。を持っては居ますが。それで人ははかりません。あくまで、それは自分の型だからです。自分の思想。要するに旗ですね。それは大切です。然し他人が掲げて居る旗もまた大切なのですよ。下賤な考えで其の旗を汚すのは辞めましょう。
GACKT「Last Song」
以上....。kiyasumeが言いたかった事でした。
〜〜懐かし映画館〜〜
"Vamos a Matar Compañeros" ~訳せば「殺っちまおうぜ、同志たち」と言う、とんでも物騒なタイトルですが^^;
メキシコ革命(20世紀初頭)を舞台に繰り広げられる、アクションと笑いと涙と感動の傑作マカロニ・ウエスタン「ガンマン大連合」という映画。1970年のイタリア・西ドイツ・スペイン合作のマカロニ・ウェスタン。革命に揺れるメキシコを舞台に、武器商人と革命軍兵士の向こう見ずな旅と闘いを描いていく。セルジオ・コルブッチ監督、フランコ・ネロ、トーマス・ミリアン主演。音楽はエンニオ・モリコーネが務めた。
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