記事に書いた通り。また、調子が悪いので、今回で更新はまた暫く休みます。コメント頂けると励みに成りますので、宜しくお願い致しますね。
kiyasumeのブルース・ハープ・ソロ。今、調子が凄く悪いので。短く纏めました。上手く無いですが、聴いて見て下さいね。ブルースではありません。3分程です。。。
kiyasume17,8歳。当時の音源です。まだ下手ですが、ハープを効果的に吹いたつもりの曲です。マイルス・ディビスの様な、アシッドな雰囲気が出したかったと記憶して居ます。聴いて見て下さいね。。。
Leon Russell - A Song For You (1970)
変な話で大変すまないが、16日前の事だ、ある時に、オチンチンが腫れて居る様な感覚がある、、そう思いながら、お勝手に行ってコーヒーを入れ様としたら、また違和感がするので、パンツに手を入れてオチンチンを触って見た、すると腫れて居るので、何でだと思ったら突然オチンチンから血がぼたぼたと滴り落ちた。すると違和感は無くなったのだが、局部からの出血。大変だと思って、パンツを下げて、オチンチンを触って見ると晴れは引いて居たが、パンツは血だらけになって仕舞った。私はパンツを脱いで、其の儘パンツをゴミ袋に捨てた。応急処置としてオロナイン軟膏を塗って置いた。皆さん如何思いますか...。これも向精神薬の薬の後遺症なのです。向精神薬を飲んで居ると身体がボロボロになる。今日に成って訪問看護師が来たので、その事を言ったら、「大変だから。次回診察の時に先生に必ず言う様に」と言って居た。私は今、猛烈に眠たい。全て薬のせいだ。私は主治医を信用出来なくなった。私は薬が増える前は本当に調子が良かったのです。此処数年で、こんなにも調子がいいのかと喜んで居たのに。訪問看護師から皮肉を言われるのは困ると言ったら、薬を2錠も出された。そうしたらこのザマです。今から、2年前、私は意識が無くなった。この時は食欲が無くなり、ものを食べると吐いてしまう有様でした。だから主治医に、言ったら、薬を処方すると言われて、5錠も薬が出た。それを飲んだら、ある日意識が無くなって病院に担ぎ込まれたのです。結果。薬が悪かったと解り、すべて外された。
Light of Hope〜精神病院で出会ったふたりの奇跡
そのお陰で、薬の離脱状態時に見る、幻覚を見た。生まれて初めての幻覚だった。幻覚は2度あった。一つは病院から抜け出して、繁華街に行き。彷徨いて居るのだ。私はその街で外国人の若い女の子に物凄く優しくされて、その子に熱々になった。しかしこれは幻覚の夢だった。私が目を開けると、看護師の女の子が私のベットの前に椅子を持って来て座って、私を見て居た。私はその子に言った。「カレンは?」すると微笑んで居る。「カレンはどこ?」するとこう言った。「〇〇さんの幻覚の夢は良い夢だった見たいね。」そして。ベットに寝ながら尿道に管を通されて居るお小水が溜まる袋を取り替えて言った。「もう2日も魘されて居ましたよ。」私は現実に戻ったのだった。そしてもう一度。幻覚を見た。それは恐ろしい幻覚だった、私のベットはだだっ広い、草原に置いてあり。その周りでは全身白塗りのスキンヘッドに褌姿の男たちが何千人と居て、私のベットを囲む様にして踊り狂って居るのだ。そして手にはするどい刃物を持って居てお互いに斬り合いをして居る。白い身体から真っ赤な赤い血が迸って血塗れで踊って居た。まるで暗黒舞踏家の土方巽が躍る舞踏に似て居た。これが向精神薬の薬が体内から抜ける時に見た幻覚だった。まるで大麻やコカイン。SLDなどの麻薬と一緒だ。向精神薬は確かに精神がおかしい人には薬になるだろうけど、その分副作用は強く怖いものです。
Led Zeppelin - Stairway to Heaven Live
私は3人兄弟に生まれた。私は長男だ。次男の弟と3歳違いの姉が居た。弟とは8歳違いだった。姉は死んだ父型の祖母に似て居て物凄く、きつい女だ。弟は勉強が出来て頭が良かった。良く弟が子供の頃、三輪車に弟を乗せて後ろから押してやったり。箱に車輪が付いたものに乗せて。紐を付けて引っ張って遊んでやった記憶がある。近所のおばさんが「あら、○ちゃん、良いわねぇ〜遊んで貰って!!」と言って居た。その弟はもう居ない。私はこう見えても小学校では結構有名だった。何故なら、毎年必ず2枚かそこらの賞状を貰うからだった。私は小学校の頃は勉強が良く出来た。副学級委員にもなった。私は小学校低学年の頃からグループサウンズやら、ロックが好きだった。私の家は何遍も言うが下宿屋をして居た。小学校低学年の頃には北海道から来た大学生が下宿して居て、よくその学生の部屋に入り浸って。14型の白黒テレビを観せて貰って居た。北海道から来たお兄ちゃんは、テレビが好きでよく私に乾物屋に行って、かっぱえびせんとポテトチップにコカコーラを買って来いと言って。二人して、「あしたのジョー」「ルパン三世」「ゲバゲバ90分」「キイハンター」「冬物語」「佐武と市捕物控」「忍風カムイ外伝」「天才バカボン」「気になる嫁さん」「雑居時代」などを見て居た。私の父は時代劇と西部劇が好きだった。だからお兄ちやんとテレビが見られない時は、父とテレビを見て居た「子連れ狼」「木枯紋次郎」「唖侍・鬼一方眼」「新選組血風録」「燃えよ剣」「コンバット」「ローハイド」「ララミー牧場」「ライフルマン」「拳銃無宿」などをよく見て居た。母は優しい人で、私の誕生日には私の好物の唐揚げやら、母が作る特製のミートソースのスパゲティーとちらし寿司を作ってくれた。
URIAH HEEP JULY MORNING 1972
私は、小学校の3年生まではラジオを持って居なかった。だから、鉱石ラジオの三百八十円のものを玩具屋から購入して自分で組み立てて、聴いて居た、鉱石ラジオは長さ5センチくらいの物だ。アンテナシールドを電話機のコードに挟んで電波を受信した。スピーカーは無くイヤフォンを挿して聴く。私は、小学生の頃は、特に低学年の頃はラジオは鉱石ラジオしか持って居なかったので、それで、音楽を聴いて居た。勿論音は悪い。しかしある日の夜、鉱石ラジオから、爆音のエレキギターが聴こえて来たのだ。私は「何だ!この物凄いエレキは!!」と耳を疑った。ジミ・ヘンドリックスのブルースギターだったのだ。ラジオを聴いて居ると、何でも「ウッドストック」と言う、音楽の祭典があって。その時のライブの音源だった。曲名は「Star,spangled,banner(星条旗よ永遠なれ/アメリカ国家)」だった。私は「この人は天才か?」と思った。翌日。大学生に聞いて見ると、最近のロックギタリストでは最高峰の男だと聞いた。私はそれ以来ロックを本格的に聴こうと思って、母に言った。「ラジカセ買ってくれない。」母は見て居たのだろうと思う。なぜか反対はしなかった。そして3日後にデパートの家電売り場で懇意にして居た店員からサンヨーの普及型ラジカセを買って帰って来た。そして私に渡して行った。「勉強はしっかりやりなさい」。なんでもこのサンヨーのラジカセは高域がよく出て、低音もしっかりと伸びるワイドレンジな音と言う感じで、この当時、ナショナルやらソニーと比べても良い音だと言われて居たものだった。私はそのラジカセを何時もはな身放さず持って居た。小学校にも持って行った。当時、レコードは高くて買えなかったし、要約、小遣いを貯めて、「豪華、マカロニウエスタン・テーマ曲集・決定盤」と言う。2枚組のレコード3千8百円の物を持って居ただけだった。そのレコードは、近所の大学生のステレオで再生し、カセットテープに録音して居た。当時はラジカセがトレンドだった、各々、手持ちのラジカセを持ち寄って、ラジカセ評論会などをして居た。友人たちも負けじ踊らずアイワだとか、ナショナル、ソニーまたは日立、シャープと色々とラジカセを持って居た。私はそのサンヨーのラジカセは中学3年まで使って居た。そして中学3年の時に壊れて仕舞った。何とか音は鳴るのだが、ラジオが入り難く成ったのだ。私は3年の学園祭で友人から、「そのラジカセを寄越せ」と言われた。バザーに出すと言う、壊れて居るし良いかと思い渡して。その後、幾らに成ったと聞いたら「けっ!五百円だ!!」と言って居た。私はそれを聞いてその同級生の友達とは絶交した。
Jimi Hendrix - Hey Joe (Legendado) HD
私は北海道のお兄ちやんが大学を卒業して実家に帰った後も、その次に来た、大学生に取り入った。色々な学生が居た。東大。明治大学。高千穂商科大学。慶應義塾大学。明星大学。色々な大学生が私の家に下宿に来て、そして卒業とともに実家に帰って行った。だから私は小学生から中学ぐらいまでの間、全共闘世代の学生と子供の時から話をして居た事になる。勿論影響は受けた。私は高校生になると家は下宿人を余り置か無くなって。私は次に自分の感性を磨く処。音楽喫茶と映画小屋に通う様になった。勿論誰もそんな処があるとは教えてくれない。だから当時の情報誌「ぴあ」が頼りだった。それと平凡パンチだった。私は「ぴあ」で埋もれたイタリア映画。フランスのフィルム・ノワールと名作映画を良く観た。そしてテレビの映画劇場は全て観た。特にマカロニ・ウエスタンは、この頃はテレビでマカロニの未公開映画を多数放映してくれて居た。私はむしゃぶる様に観た。映画喫茶に行って、「ぴあ」でコンサートの予定を調べた。サントラ・レコードを結構聴いたし、ジャズ喫茶で通が好んで聞くレコードを知り。ブルース喫茶でバンドでの演奏の肥やしに成るブルースのレコードを可也聞いた。最新のサブ・カルチャーなどの動向は「平凡パンチ」で仕入れて居た。その代わり勉強はダメに成って行った。勉強が分からなく成ったのは小学校3年生の時に扁桃腺の手術をして学校を半年休んでからだ。同級生は勉強が進んで行くが私は置いてきぼりにされて仕舞った。私は親に教えてくれと言ったが父は1日朝早く起きて教えてくれただけで次から教えてはくれなかった。母も塾の先生だとかは付けてくれなかった。私は孤立した。だから尚更、音楽と映画に没頭し猛進して行った。そして何とか大学に受かり、もう勉強をしようと思って、勉強をしだした。処が当時の大学生の気風はしらけて居て大学でちゃんと勉強をする学生など居なかった。せっかく大学で専門的な勉強が出来るのだ。それなのに・・・。私は同学年の学生を軽蔑した。自分は勉強して優を貰った。私は大学生活と並行にバンド活動をして居た。当時のバンドはブルースバンドだった、ジャズも演奏した。そして二つのバンドを掛け持ちして居た。そんな時にある宗教団体のバカにストーカー行為をされて、そいつを振り払ったが、私は大学2年で統合失調症を発病して仕舞った。バンド活動は出来なくなった。私はバンドを解散した。
Sergio Leone Greatest Western Music of All Time (2018 Remastered 𝐇𝐃 Audio)
そして親父の会社に入社した。そこいら辺の事は今まで散々書いて来て居る。良く、成功する為やら、自分を高める為には環境を大切にしろと言います。そして自分より上の人たちの輪に入れとも言う。要するにバカな連中と一緒に居ると、その人までバカになるが。自分より出来る人たちやら、利口な人たちの輪に入ったり成功者の人と交流を続けると、その人まで利口に成り出来る人間に成ると言いますよ。私の周りには1970年代当時の最新の風俗やら社会性を持った大学生が居た。私の思春時代はだから20歳に成ってからでは無く。10代の頃にもう形成されて居たと思います。20代からの私の青春は惨めな事しか起こらなかったし、嫌な事しか無かった。そして全てが失われて仕舞ったが、最近に成って、自分らしさが戻って来て居る。もう年は61歳と老骨になって仕舞ったが、気分は30代だ。後生きても10年程の命だと思う。
私は薬を飲み過ぎて居る。向精神薬の強い薬をほぼ40年間飲んで居るのです。薬害は怖いが。もう身体に出て居ますよ。前に今の病院では無いが、主治医に言われた。「こんなに強い薬を数十年と飲んで来て、身体めちゃくちゃでしょ・・・。」そして、たった一人に成ったのです。身内である姉はもう私の事は兄弟とは思っては居ない。精神病になった弟は、最早、血が繋がって居るとは思わないそうだ。だから向こうも縁を切ると言って居るのだから。私も縁を切る。もう此れで身内は誰も居なくなった。ああ、母が居るが姉が絶対に会わせない。私の母親はもう90歳になろうとして居ます。認知症で何も、最早、分からなく成って居ます。恐らく母が死んでも姉は知らせても来ないでしょう。彼女は本来なら長男の私がちゃんと面倒を見るべきなのに、私たちに面倒を見させて居る。「ふざけるな。」だから。
私は従兄弟と姉を恨みます。私が何をした。障害者に成ったのですよ。それで嫌がらせをしたり縁を切るですか....。従兄弟は、私を目の敵にした。私が東久留米で車に乗って居た時にUFOを見た。その時は従兄弟にも教えたのだが、彼は運転をして居て、見えなかった見たいだった。次の日に彼は私を大嘘つきだと言い出した。「すぐ嘘をつく!!」と言う。そして次の日から私を見ると「嘘をつくな!!」と怒鳴り出した。彼は私より8歳年上だ。私を子供呼ばわりして居たが、自分は何も知らないバカだった。彼が私に言った事を思い出す。「ねえ、あの早稲田を出た井口さんが私を次期社長だと言ったんだよ。凄いだろう。」「ねえ、〇〇ちゃん、私はこんなにも難しい本を読んで居るのだよ。」そう言って見せた本は1千4百円の「すぐ解る、マーケッティング・リサーチ」だった。そして私が哲学書の類やら、思想書芸術関係の本を倉庫番で暇だから為にも成るので、読んで居ると、「そんな本は読むのを辞めろ」と言うのですよ。だから私は呆れて「人の勝手だろ」。と言うと「だってその本をさっきお前がトイレに行った時に、少し読んで見たが、ちんぷんかんぷんで何も解らなかった」と言うのですよ。
姉に付いてはもう何も言いたく無い。最後に電話で話した時に思った。この人は生涯虚勢を張って友達も無くして生きて行くのだろう。と、現に姉さんは「近所の連中は敵だ」と言って居た。「さよなら姉さん...。」、今は母が施設でコロナに移らない様に祈るばかりです。でも、返って何も解らなくなって生きて居るよりもコロナに掛かって亡くなった方がいいのかも知れない。私は母が元気なら最後まで面倒は見るつもりでした。私は発作を起こして、強制的に病院送りにされた時に、最後に一人になった認知症の母はどうなったのだったか・・・・。私は親不孝者です。情けないけど。弟も姉も私には母がどうなったのか一切教えなかった。私は弟と姉に日頃、母の事を自分一人では、面倒見るのが大変だからと相談しようと電話を掛けたが。二人とも「そんな話は聞きたくも無い」だった。私は思う。私は働いて居た時に給料もボーナスも全部母に預けて居た。私は月3万の小遣いしか、そこから貰っては居なかった。何故かって、何遍も言うが実家は学生を置いて面倒を見て、飲食費と部屋代を貰わなければ、やっては行けない状態だったのです。だから私は給料もボーナスも親に渡して居た。先の事は考えなかった。彼女が出来た。生涯でただ一度愛した彼女だった。彼女の実家は旅館をして居て。父親は農園を栽培して居た。彼女の母親は旅館のおかみさんとして活躍して居た。そんな彼女は、私がジャズとかブルースが好きなのを知るとジャズマニアの父親から何時も、ジャズのニューヨークやらロサンジェルス。そしてパリのライブの模様のビデオを貰って私に持って来てくれて居た。小柄だが、素直で、しかし負けん気が強く。そして可愛く。私を良く思ってくれた彼女だった。しかし一緒には成れなかった。ある事情があったのだ。今でも覚えて居る。最後に会おうと、吉祥寺の「ジャズ喫茶」で待ち合わせをしたのだが、従兄弟の嫌がらせに会い。とうとう会えなかった。最後に彼女がラジオ番組の伝言板に「あなたが好きでした。もう会える事はないでしょうけど。どうか身体に気をつけて....。」と伝言を残して・・・・。私は泣いた。それからこんな事もあった。新宿の「ICBM」と言う。中古輸入ビデオと国内レーザーディスクそして、輸入レーザーディスク、まあ、主にアメリカのクライテリオン盤だったが。月に3万の小遣いうちから、殆どを映画やらアニメのレーザーディスクやらビデオに費やして居たのだけども、まあ、それも親に食費を持って貰って。実家と言う住居があったからですが。服も母がデパートで買って来るモノを唯着て居た。しかし母は何と思ったか、その売り場の女の子にハンカチを手渡して居たのだった。その子は田舎から出て来て、一人暮らしをして居た子だった。彼女は私のリクエストを全て受け付けてくれた。その当時はレンタルもして居たのだ。私は毎回映画を結構注文して居た。彼女は言った「出来る限り、お客様の要望にお応えします」そして、何時も同僚から、「無理をしなくてもいいのに」と言われて居るのに。私の為に商品を取り揃えてくれて居た。しかしある時に、私が店に行くとその子は居なかった。私が映画がよく分かって居ない店員に聞くと。白血病に掛かって辞めたのだと言う。その子は自分が病気に罹って大変なのに。私が無理をして注文した。「夕陽のギャングたち」のドイツ盤をドイツの輸入盤の会社と店を辞める直前まで交渉してくれて居たのだった。その子がどうなったかは知らない。ただ、私の為に奔走してくれたのだ。恩義は今でも感じて居る。その子は苦労して輸入した。「夕陽のギャングたち」のレーザーディスクを同僚に渡して、私に渡す様に準備してくれて居たのだった。私が30代の頃だ。私は、その店で、彼女が最後に客用に取り寄せた「野獣暁に死す」と言う輸入ビデオを購入して持って居る。その子の記念の為にだ。そして私はその子が苦労して取り寄せてくれた「夕陽のギャングたち」で輸入盤は5分長いことを知って居たので、パソコン通信の掲示板で探して居た「海老原」さんに教えて挙げたのだった。その人はコンピューターのプログラマーで、IT企業の会社で働いて居た。会社が横浜にあるのだが、自分は家から自転車通勤をして居ると言って居た。何でも距離的に近かったそうだ。しかし彼女も程なくして、胃癌で亡くなって仕舞った。まだ20代だったのに・・・・。まあ、書きたい事は山ほどあるが此処までに仕手置こうと思う。
そんな事やら色々とあったのですよ。しかしその事は主治医は知らない。私は3流大学の途中で発病したバカで教養は無く何も知らないし。何もとち狂って居て解らない患者だと思って居る。私が昔を懐かしんでそう言う話をする相手は居ない。訪問看護師?彼女らは特殊な人間だ。私との付き合いはあくまで患者と看護師としての関係だろう。私は結構。音楽の事やら、思想書でいいものがあったり漫画でいいモノを彼女らに教えるが、反応は余り良くない。彼女らも自分は看護師で病気の患者である私を見て居ると言う考え方だ・・・・。最近はこのアパートの子供たちに、自分が待って居るDVDだとかケーブル TVで録画したDVDを挙げるのが、楽しみなんですよ。私は子供が居ないから。そしてそれだけだとその子らの親御さんが詰まら無いだろうから。子供にはアニメのDVDを挙げて居るが、たまに映画のDVDを挙げて居るのですよ。子供に手渡しをする時もあるが子供が外で遊んで居る時にとか。今日も親御さんに会ったら「何時もDVD有難う御座います〜〜。」と奥さんから笑顔でお礼を言われた。人が喜んでくれる事は、非常に私に取っても嬉しい事なのです。DVD一枚幾らもしませんよ。お陰で近所付き合いは上手く行って居ます。
最後に前回のblogで書いた様に。私は陽気に美容室で話をして居たが、美容師はそれで私はバカだと踏んだらしい。今回書いて来て先ほども言ったが環境を変える必要があるなぁ。バカにされて居る美容院に行くより。色々と問題があった生まれの土地は離れて新境地の今の場所の美容院に通った方がいいと思い出した。そうしようと思う。あの美容師は老骨すぎた。考え方が親父根性だ。私の様な客は居ないと思う。パーマと髪を染めるので幾ら金が舞い込む。美容師は客商売だ。客をバカにする様な処にはもう行かない。此間、私は初めて自分の歳を言った。すると、その美容師はもの凄く驚いた顔をした。その男の美容師は56歳ぐらいなのだ。そして私は気が付いたのだが、そこは美容院みたく装っては居るが。元は床屋なのですよ。彼は美容師では無い。理髪師です。現に私が最近美容界で有名な、スーパー美容師。高木琢也君の事を言っても「誰、、知らない。」と言うのですから。美容師なら誰でも知って居るはずの名ですよ。だから男の長髪は許せないのですよ。床屋なのだから(笑)美容師の振りをして居ますが.....。自分でバカだから化けの皮を剥がして居るのですね。此れからは多少高くても。越して来た街の美容院に掛かろうと思います。今日も外に出た時に、近所の若い美容師5人でやって居る。美容院を見つけて、中を覗いて居たら。相手の美容師が、「何だろう?」と言う顔をして居たが。そこでもイイなと思って居る。美容師は若いほうがいいです。話は今回は此処迄です。読んでくれて有難う御座いました。
カリスマ美容師に『イケメンにしてください』と頼んだ結果....!!
==「ビンテージ・ラジカセの選び方」==
歴史を物語る名機たちで全盛期のサウンドを聴く
デジタル音源とは異なる音の感触や、テープ記録のメカニカルな魅力などで人気が再燃して居るカセット。
その音の実力とはどの程度なのか。カセットデッキの収集や修理で知られる「ビデオ工房トパーズ」の中村雅哉さんの協力のもと、カセット全盛期の名機の数々で、実力を検証した。
中村さんは、もともと音楽の録音やテレビの収録にも携わって居た経歴を持つ人物。
録音機器は仕事の道具でもあったが、生来のオーディオ好きが高じて、数々のオーディオ機器をコレクションして来たと言う。自ら修理を行い、現在でも動作する数々の機器は、オーディオ家電の歴史を物語る。

試聴に協力してもらったビデオ工房トパーズの中村氏(左)。中村氏はイベントなどのビデオ撮影、編集、BD製作のほかに、オーディオ関連のコンサルティングも行う。
検証❶
カセットテープの音のポテンシャルは、そもそもどの程度のものなのか?
カセットの音には「シャーッ」というヒスノイズが含まれ、そのぶん微小な信号が埋もれて仕舞うし、高域特性も、CDと比べて決して高くないと言うイメージがある。
だが、きちんとEQ(イコライザー)とバイアス(記録電流)調整を行って録音したカセットには、十分にCDと同等の実力があると言う。
録音したのは、女性ボーカルやSACDのジャズなどだが、きちんとEQとバイアス調整を行ったその音は、CDは勿論、SACDと比較しても遜色の無いものだった。

試聴で使ったCDの一つ「ローラ・フィジィ/イントロデューシング」。1990年代の録音で、カセットテープとの音の相性もいいと言う。
ノイズリダクションのドルビーBを加えると、ヒスノイズもほとんど消え去って仕舞った。現在、手に入るノーマルテープでもこんな音が録れるのだから、正直、驚きだ。
さらに、録音に使用したA&DのGX-Z9100や、Lo-DのD-2200MBなど、昔のカセットデッキの実力の高さも思い知らされた。
ただ、中村さんによると、これはすべての機器に常に当てはまる訳では無く、デッキによっては自己録再は良くても、ほかの機器で再生すると音が変わって仕舞うものもあると言う。
ほかの機種で再生しても音の変化が少なく、肝心の音質もいいデッキとなると、手持ちの機器ではソニーのTC-K555ESRがおすすめとの事。
ただし、中古の場合は、録音ヘッドの摩耗など、機器の劣化もあるので、いい製品を探すのは大変な様だ。
【結論】
調整などは大変だが、テープの実力は高い。機器の状態のよしあしも重要になる。
検証❷
昔のハイポジションテープは、現行のノーマルテープより音が優れている?
ハイポジション(クローム)やメタルと呼ばれるテープは、現在流通しているノーマルテープよりも高磁力の磁性体を使う事で、音質を向上させたもの。
カセットは、特に高域の特性が減衰しやすいが、ハイポジションなどのテープは高域特性も優れており、しかも高出力のため、ダイナミックレンジも広いと言われる。
今回、1990年代に販売されていたハイポジションテープを使って録音を試して見たが、きちんとEQとバイアス調整をして録音すると、確かにノーマルテープよりも高音域がしっかりと再現出来る事が確認出来た。

上がハイポジションテープの「UD2」。下は現在でも入手できるノーマルの「UR」。いずれも日立マクセルの製品。確かに音質の差が確認できた。
ただ、だからと言って、ハイポジションテープを使うべきとは思わない。何より、今やハイポジションテープを入手する事自体が簡単では無いし、かつて自分が使って居たハイポジションテープを改めて使うにしても、テープは何度も録再を繰り返すと、性能も劣化して仕舞うのだ。
しかも、現在発売されて居るラジカセなどでは、ハイポジションで録音しても実力は発揮出来ない。EQとバイアス調整が出来ないので、音質的にも良くないのだ。
と言う訳で、きちんと整備されたカセットデッキがあれば、貴重なハイポジションテープで高音質を楽しめるが、そうでなければ、現行のノーマルテープで割り切るべき。音質の差も、圧倒的に大きい訳ではない。
【結論】
確かに音質は優れるが、現在は入手は簡単ではない。実用上はノーマルでも十分。
検証❸
黄金期のビンテージラジカセの音は、最新型のラジカセより優れて居る?
ラジカセは、1970年代後半から1980年代前半のものが黄金期で、その後はCDの普及で衰退して行った。オートリバースなどの便利な機能がもてはやされる様になり、音質的に有利な独立3ヘッドのモデルが急速に減って仕舞ったそうだ。
CDはアナログレコードを一気に過去のものにして仕舞ったが、ラジカセに対しても大きな影響を与えて居た訳だ。
此処では、そんな全盛期のラジカセと、現在も販売されて居るCDラジカセの音を聴き比べて見たが、その結果は明らか。ビンテージのラジカセの方が圧倒的に音が良かったのだ。

手前にあるのが、東芝のTY-CDX9とパナソニックのRX-D47。奥にあるのがビンテージ・ラジカセのアイワ・CS-80(1979年発売)。
これはカセットデッキ部分の差もあるが、それ以上にラジカセが備えるスピーカーやアンプ回路の出来の差が大きすぎるため。現行モデルは多くがフルレンジスピーカーであるのに対し、黄金期のラジカセは2ウエイ構成で、ウーハーも明らかにサイズが大きい。新旧と言うよりも、オーディオ機器としての格が違うと言う印象だ。
1980年代当時のラジカセは、まさしくオーディオ機器と呼べるレベルの作りに成って居て、各社が盛んに競争する事で、音質的な実力も可也優れたモデルが多いと言う。
状態のいいラジカセは価格も高く、簡単に見つかるものでもないだろうが、音質にこだわるのなら、そうした名機を探して見るのもいいだろう。
【結論】
新旧の音の実力は明らか。オーディオ製品としての作りがまるで違う。
検証❹
黄金期のビンテージラジカセの音はメーカーによってどのくらい違う?
1980年代前半は、まだミニコンポもそれほど普及してはおらず、本格的な単品コンポか、それらをセットにしたシステムコンポが中心だった。そして、そのサブ・ユース的なアイテムだったラジカセは、多くの人が使う一般的なオーディオだった訳だ。
それだけにラジカセの人気は高く、オーディオメーカーは勿論、数多くの電気メーカーがラジカセを発売し、音質や機能を競い合って居た。
当然ながら、各社ともそれぞれに音質を磨き上げて居たので、メーカーそれぞれで、音質には差があると言う。
試聴では、ソニーのCFS-686やサンヨーのMR-9600、パイオニアのSK-95、シャープのGF-303SBなどを聴いたが、ソニーはくっきりとした鮮明な音で、中域も厚みがたっぷり、サンヨーは高域がよく出て、低音もしっかりと伸びるワイドレンジな音という感じで、まさにラジカセごとに大きな音の違いがあった。

写真はサンヨーのMR-9600。当時のサンヨーのフラッグシップに位置するモデル。音のよさで評判が高く、現代では貴重なモデルとなって居る。
これは現代のオーディオと同じで、どれがいいと言うよりも、自分の好みに合うかどうかと言う差になるだろう。
音質以外でも、アナログメーターやLEDメーターの採用など、デザインも多種多様で、それぞれに味わいがある。また、当時、音のよさで人気のあったモデルは、現在でも人気があるそうだ。中古ラジカセを探すなら、それらの個性を理解して選びたい。
【結論】
音質はもちろんのこと、機能やデザインなどもメーカーやモデルで多種多様だ。
検証❺
ビンテージ・ラジカセは同じモデルでも個体によって音質に大きな差がある?
ラジカセのビンテージ・モデルは1970〜1980年代のものが多いので、故障や不具合の出たモデルも少なくない。
音が出るように修理されたはずのモデルでも、経年劣化やユーザーの使い方によって、コンディションはさまざまだと言う。このあたりも、じっくりと見極める必要があるのがなかなか難しい処だ。
そこで、当時から人気が高かったモデルでもあるビクターのRC-M70を4台集め、それぞれの音質の差を聴かせて貰った。
まず、個体によってはアナログボリュームが劣化して、音量調節でガリガリとノイズが出る事もある。それを別としても、音が痩せた感じで、ひ弱な印象になる個体がある一方で、同じモデルとは思えない程に高域が伸びやかで、声も表情豊かに再現される個体もあった。
このビクターのRC-M70は、当時のヒット製品で、比較的コンディションがいい個体が多いそうだが、それでもこれだけの差がある。

RC-M70GXを含む4台のRC-M70を、同じ音源を使って比較試聴。同じモデルでありながらも、その音にははっきりと違いがあるとわかった。
中古のモデルを探そうという場合は、同じモデルでも複数のモデルをできるだけ試聴して、コンディションのいいものを選ぶことが欠かせないそうだ。
【結論】
中古で目当てのモデルを探すときは、できるだけ複数の候補を吟味したい。


最近、Bluesharpの練習をきちんとして居ない。本来ならスケール練習だとかしなければならないのだけども。2ndポジションでメジャー・ブルーノート・スケール。ナチュナル・マイナー・スケールしか吹いて居ません。と言うか、理論は苦手です。ファースト。セカンド。サード。ポジションで曲に合わせて吹いて居るだけでも、練習になると思うのだけど・・・下はBluesharpを始めて見ようと思う人向けに簡単な説明です。
【楽器のマメ知識♪】実はいろいろあるんです!ハーモニカの種類をご紹介♪|三田市・神戸市北区 音楽教室・楽器店 平瀬楽器
ハーモニカ(10ホールズ・ハーモニカ,ブルース・ハープ)とは? ~OHORI123の「ハーモニカ」のすゝめ」始動!!~
山口牧・ブルースハーモニカの楽譜p4.「ブルースハーモニカの持ち方と吹き方」
ご存知の通り、ハーモニカは12のキーがあるわけですがファーストポジションで演奏する限り、あらゆる楽曲に対応させるには、矢張りそれぞれ12個のハーモニカが必要になります。では、一つのハーモニカで別のキーの曲を演奏する事は絶対出来ないのか?と問われればそうではなく、ポジションを変える事で幾つかのキーに対応させる事は可能です。
上記の円は「サークル・オブ・フィフス」と名付けられたもの。
何に使うのかと言うと、キーのポジションを割り出すのに便利な一種の表の様なものです。
・右回り(5度進行)は、ハーモニカ基準で楽曲のキーを導き出す
例えば、使用するハーモニカのキーが「C」と仮定すると、ファーストポジションで演奏する場合はその侭「C」キーの楽曲。セカンドポジションでは「G」キーの楽曲に対応する事になります。
・左回り(4度進行)は、楽曲基準で使用するハーモニカを導き出す
例えば、演奏したい楽曲のキーが「F」と仮定すると、ファーストポジションで演奏する場合はその侭「F」キーのハーモニカで。セカンドポジションで演奏する場合は「B♭」キーのハーモニカを使用する事となります。
つまるところ、一つのハーモニカでもポジションを変える事で各キーの楽曲に合わせて演奏する事は一応可能なのです。ただし、全ての曲が演奏出来る訳ではありません。
ブルースハープにおけるセカンドポジションは、2番吸音を主音として演奏する奏法の事を言います。
詳しく書くと長くなるので省きますが、セカンドポジションはブルーノートスケールという哀愁漂う響きを持つ音階を鳴らすのに適してるのです。
■ブルーノートスケールの音階構成「ミ♭ファ♭ソラシ♭」
ブルーノートスケールは通常のドレミファ..に比べて、3番5番7番の音が半音低くなっており、この3つの音は..例えばCキーのハーモニカの場合、この3音はベンドを使っても鳴らす事は出来ません。
しかしながら、ポジションをセカンドの「G」に変える事でブルーノートを鳴らす事が可能なのです。
■とりあえず鳴らしてみよう
口で説明しても分かり辛いと思うので、実際にセカンドポジションでブルーノートスケールを鳴らして確認してみましょう。※赤文字の③④の吸音はハーフベンドで半音下げます。
哀愁漂うブルージーな響きを感じ取れれば、それがブルースなのです。
下は使って居るマイクです。丸いマイクは昔は無線用のマイクでした。歪んだ音が出るため、シカゴ・サウンドに向いて居ます。これらは、元々からBluesharp専用ではありませんでしたが、シカゴ・ブルースのBluesherp奏者たちが使って居た事で、有名になりました。それぞれのマイクによって音色が変化します。
Harmonicom-SugarBlue-JasonRicci-Billy Branch - - Wheeling, WV - 08-13-16
Magic Dick w/LRBR - Whammer Jammer - The State Theatre
Billy Branch, Sugar Blue, Charlie Musselwhite, Giles Robson and TC (Tom Cocks) Colne Harp Explosion
Tino Gonzales + Tiffany Harp 2013, Born in Chicago, B.B. King, Perfect Blues
Lee Oskar - Funky To the Blues
1969年1月30日、ロンドンの高級住宅地サヴィル・ロウにあるアップル社のオフィスの屋上でザ・ビートルズ(The Beatles)が行ったゲリラ・ライヴを、彼らのフェアウェル・ライヴと考えてもおかしくは無いだろう。演奏後に、バンドは静かに階段を降りて通りに出て、集まった人たちは仕事に戻り、ザ・ビートルズのメンバーはそれぞれの道を進んで行き、そうしてバンドの物語は終わり。と言う事を想像するのは難しくない。しかしそこで物語は終わらなった。
The Beatles - Don't Let Me Down
その数週間後、ザ・ビートルズはスタジオに戻り、そのまま春の間もレコーディングを続け、その後、7月と8月のほぼこの全期間を『Let It Be』が発売される何か月も前るリリースされたアルバム『Abbey Road』の完成に費やした。
映画『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズを手掛けた名監督ピーター・ジャクソンが新たに手掛けているドキュメンタリー映画『The Beatles: Get Back』は、1969年1月に撮影された何時間ものフィルムから、今までとは異なるバンドの物語を提示する事になるだろう。「現実は神話とは全く異なるものです」と監督は最近明らかにしている。
映画についてリンゴ・スターはこのようにコメントしている。
「バンドが解散する18ヶ月前、マイケル・リンゼイ=ホッグによって撮影した映像と音声をすべて見直して見ましたが、驚くべき歴史の宝庫でした。確かにドラマチックな瞬間もありますが、このプロジェクトで長い間言われて来た僕らの不仲なものはありません。沢山の喜びがありましたし、ピーターはそれを見せてくれると思います。今回のバージョンは、私たちが本当にそうだった様に、もっと平和で愛に満ちたものになると思います」
そしてポール・マッカートニーもリンゴの意見に同意してこう付け加えている。
「明らかに僕らに一緒に居て楽しんで居ました。お互いに尊敬し合い、一緒に音楽を作って居るのが皆さんも見る事が出来ます、それが紐解かれて行くのがとても楽しみです」
では、なぜ『Let It Be』のアルバムが彼らの解散と結びつけられる様になったのだろうか?
ゲット・バック・セッション
1969年は、ザ・ビートルズの名を冠した2枚組のアルバム、通称『White Album』がチャート1位にランクインした事で始まった。それだけでは十分ではないかの様に、アニメーション映画『イエロー・サブマリン』のサウンドトラックが、1月17日に発売されて居る。
そんな中、彼らは元旦の翌日、次のプロジェクトの準備をして居る処を撮影される為に、トゥイッケナムのスタジオに向かう為に、夜明け前に起きて居たのだ。
トゥイッケナムには少なくともアルバムを録音するのに十分な機材は無かったが、この企画は当初、テレビ特番用にリハーサルやパフォーマンスを撮影する事だった。撮影したのは当時28歳の若くてダイナミックなマイケル・リンゼイ=ホッグだ。彼は、革命的なポップTV番組「Ready Steady Go!」を担当し、ザ・ビートルズの「Paperback Writer」「Rain」「Hey Jude」「Revolution」のプロモ・クリップを監督した経験があった。音楽プロデューサーのグリン・ジョンズもこの場におり、彼は、テレビ特番として収録される予定だったライヴ・コンサートの音響監修のために招かれて居た。グリンはリンゼイ=ホッグと共にザ・ローリング・ストーンズの『The Rolling Stones Rock and Roll Circus』のTVスペシャルで仕事をした事があった為だ。
The Beatles - Penny Lane
トゥイッケナムからアップルへ
ライヴ・パフォーマンスに適した曲が詰まったアルバム『The Beatles (White Album)』でチャート1位を獲得したにも関わらず、ザ・ビートルズはすぐに新曲の制作に取り掛かった。1月2日、ジョン・レノンがジョージ・ハリスンと共にギターをチューニングする間に「Don’t Let Me Down」を演奏。二人がこの曲に慣れ始めた頃、リンゴ・スターが到着し、すぐにドラムで参加した。ジョージはジョンに「いい曲だね。シンプルな曲が好きなんだ」と「Don’t Let Me Down」が気に入ったと伝えて居る。この最初の朝のセッションにポールは遅刻して来たが、到着したと同時にポールも演奏に参加した。
こうしてセッションは続き、「Don’t Let Me Down」の他にも「Two Of Us」「I’ve Got A Feeling」「All Things Must Pass」「Maxwell’s Silver Hammer」などの演奏が行われた。彼らは新曲に集中しただけでなく、リバプールやハンブルグでの名声を得る前の時代に遡って、多くのカバー曲をジャムしたりもして居た。しかし、前年の『The Beatles (White Album)』のセッションの途中で、リンゴが一時バンドを脱退した時と同じ緊張が再燃した。1月10日の金曜日の昼食前に、ジョージが脱退を宣言して、スタジオを離れた仕舞った。
残った3人のメンバーは、トゥイッケナムから場所を移すまでの数日間、ジョージ抜きで活動を続けた。そして1月20日、ロンドン中心部のサヴィル・ロウにあるアップルのビルの地下に新しく設置されたスタジオにジョージを含めた全員が集結した。しかし、ザ・ビートルズの仲間だったギリシャの電子技術者マジック・アレックスが設定したセットアップに不備がある事が判明し、翌日にアビーロードにあるEMIのスタジオからポータブル機器が運び込まれ、作業が再開された。
リンゴはこう振り返って居る。「アップルの設備は素晴らしかった。とても快適で、自分たちの家の様でもありました。私たちが働いてない時でも、居心地を良くする為に、暖炉の周りに座ってくつろぐ事も出来ました。ただ、自分たちの演奏をプレイバックで聴くときだけは火は使えませんでした、薪のはじける音がしたのでね」
プロジェクトを締めくくるライヴ・パフォーマンスの場所の候補として、北アフリカの古代円形劇場から孤児院まで、幾つかの会場が検討されて居たが、最終的にロンドンの賑やかなリージェント・ストリートの裏手にあるアップル社のビルの屋上で、ゲリラ・ライヴを行う事が土壇場で決定された。ポールはこう振り返る
「『あと2週間でどうやってこれを終わらせるか?』って映画の終わり方を探して居たんです。そこで、屋上に上がってコンサートをして、それぞれが家に帰るって事になったんです」
ゲット・バック・セッションが終了してから1年以上経った1970年5月8日、ついに『Let It Be』がリリースされた。裏表紙には「新しいフェーズのザ・ビートルズのアルバム…」と書かれて居たが、アルバムがプレスされて居る間には、バンドはもう存在しなかった。このアルバムは実際には彼らの最後の音楽作品にはならなかったかも知れないが、これはビートルズがその侭にして於いた(Let It Be)サウンドだったのである。
The Beatles - Let It Be - Let It Be (STEREO REMASTERED)
今回は此処までです。体調がすごく悪い為に、しばらく更新まで時間がかかると思いますが。皆さん宜しく。更新出来なくても。皆さんの処には見に行きますので。
宜しくお願い致しますね。最近挙げた物とか読んで居なかったら、過去記事も読んで見て下さいね。宜しくお願いします.....。でわでわ。。。。