詩の散歩道


日々思うことや静かになれる詩、本を紹介していきます。

5月に

2006年06月27日 | 日々の詩

新幹線の窓の外が
ビル群から緑一面の畑に変わって
映写機みたい

昨夜 母から祖父が亡くなったと連絡があった


新幹線がいつの間にか各停に変わっている
横一列に座っていた誰かが
名前の分からない駅で降りたようだ

椅子のくぼみと少しのぬくもりを残して


いざ往来堂

2006年06月18日 | place(cafe,shop…)

ようやく前々から行きたいと思っていた書店「往来堂」(千日前千駄木駅から徒歩5分ほど)へ行った。
http://www.ohraido.com/index_n.cgi

外観はどこにでもありそうな町の本屋さん。
だが、中の本棚をみていくとその奥深さがすごい。
棚のレイアウトが絶妙で、棚の本を取りながら少しずつ進んでいくと、いつの間にかぐんぐんとその魅力に飲み込まれていき、イメージの中で本と本との関係が結びつき、連鎖し始める。
気がつくと手にはまた本がすでに何冊か、そして買おうか迷う本が頭の中で山積みになっていく。
花森安治の暮らしの手帖、森茉莉、幸田文、石井好子、全ての本が棚の中で絶妙な関係性を持って、その場所に居る。
出口近くに行くと謙虚な感じで往来堂書店のお勧め本コーナーがあり、これもまたよかった。
百聞(内田百聞)の本や金子光晴、あまから抄などなど。
あまから抄を手に取り、武田泰淳の食のエッセイを発見すると武田百合子の「ことばの食卓」のなんだか甘いような懐かしいような文体を思い出して女性向けのコーナーにまた戻りたくなる。
そうやって何時間か過ごし、ようやくレジに辿り着いて、(距離としては近いのだが)購入。
素敵なお店で買ったものはとても幸せな気持ちにさせてくれる。
そしていい本に出会えてよかった。
外に出るともう雨は止んでいて、しゅっと縛った傘を少し降りながら、わくわくした気持ちいっぱいで帰った。


そこにあるもの

2006年06月01日 | 日々の詩


何の気なしに兄の書いたブログをのぞいた。
以前から意識して遠ざけていたので、旅行記しかみていなかったが
今朝、兄からの両親に対する感謝の気持ちを書いたメールに
少なからず心を動かされたからだろう。

兄のブログには今まで知らなかったが、
自分のことや父親のこと、母親のことが書いてあった。
兄からみた私、兄からみた父親、母親
私にしても重なる思いはあるが、また違った感じがした。
読み終わった後、私は号泣していた。
今朝メールをもらってから父親のこと、
母親の事などを思い起こしていたから余計に胸に込み上げてくるものがあった。

(以下引用)※長文ですので御注意ください

第三話 妹の場合

お兄ちゃんが四つの時に私は生まれた
生まれた時の記憶は当然ないが、物心が付く頃には私の中で
とても大きな存在になっていた
普通の家庭ならば両親が子供の面倒を見るのが当然だろうが
私の家庭は自営業を営んでいた為、その当然は少し違っていたかもしれない
忙しい両親は私の世話などにはとてもかまっていられなかったようだ
二人目の子供というのは一人目の子供よりも少し愛情が希薄になるものだろうか?
お兄ちゃんの赤ん坊の頃の写真はよく見るが、私のそれはあまり見かけない
たとえあったとしてもお兄ちゃんと遊んでいる時の写真であったりする
だが寂しいという思いはした事はない
いつも兄の側に居てた
兄は兄でありながら、友達であり、親であった
思春期の中学生の頃、それはよく現れたと思う
私自身の未熟な存在や、世の中に対する矛盾、苛立ち、その思いを誰かに話したかったが
忙しい両親は私の話に耳を傾けてはくれず
友達に話そうにも、
一体なにを考えているの?頭おかしいんじゃない?
そう思われたり言われたりするのを恐れていた
唯一、兄だけが私の話に乗ってくれた

------------------------------------------------------------------------

第四話 父の場合

私の家庭は貧しかった
いや、貧しかったというより貧しくなったいう方が正しいだろう
私の父は呉服業を小さく営んでいた
真面目一筋の父に育てられ私は大きくなった
遅い時に出来た子供だったので
学生の頃、父兄参観の時などは私の父母が一番年寄だったので少し恥ずかしかったりもした

父母はよく私を可愛がってくれた
父母に最初に出来た子供は不幸があって亡くなった為
私は大切に育てたかったのだろう
とにかくよく可愛がられた
そんな私は家庭が貧しかろうと温和に育っていった
だが、高校二年生の春、その時は卒然やってきた
母が倒れた
学校で連絡を受けた私は病院へすぐに向かった
癌らしい
母はやがて亡くなった
そして働き手が一人減った為
老体の父の身体に負担はすぐに来た
母が亡くなって一年と半年後
父は半身不随の身体になり病院へ入院した
老体に鞭を打って働いていた為だろう

私は自体が最悪になるまで、状況を把握する事を出来なかったのだ
高校卒業間近だった
まだ子供だった
貧しい田舎で営んでいた小さな呉服店
町へ何キロも歩き続けていた父と母
時々、私は一緒に服を売りについて行った事がある
そう言えば呉服が売れた姿を見た事は数える程度しかない気がする

父母は私に疲れただろうと言って、帰り道にいつも温かい大判焼きを買ってくれた
あの温かさと言ったら、それはとても表現できるものではなかった

温かかった

とても温かかった

今はもうあの温かい大判焼きは食べられない

父も母も家に居ない・・・

私は狭い家に一人切りになった

今まで気にもならなかった隙間風がとても冷たく感じた

働き手の居なくなった私の家庭は国から生活保護を受けるようになった

近所の視線が痛かった

ほら、あそこの家の子よ、生活保護を受けている貧しい可愛そうな子よ
見えない所で誰かが話しているだけど
私の耳にはそう聞こえてくる様な気がしていた
私は最初は父の見舞いは病院へよく通っていた
そして高校卒業後、町の野菜小売店へ働きに出た
そして父の元を訪れるのがおっくうになり始めた
忙しさに任せて、寂しさを忘れた

いつも病室の中で一人切りだった父には私しかいない事も知らずに・・・

私はまた自分が子供だったと後年になってから思い知らされた

歳はまだ二十歳だった・・・
町の空気は未だ私の頬に冷たく感じた
------------------------------------------------------------------------

第五話 父の場合ー2

疑問を感じていた
これでいいのか?と・・・
母が死に親父は病室のベットに横たわったまま
私は高校卒業後、ただ生きるために目の前にある生活金の手に入る仕事を選んだ
生きるためにする事と自分にある状況と自分の中にある何かにぶつけたい強い衝動
その区別に苦しんでいた時
町を歩いていた時
おんぼろの作業着に身を包んでいた時
眩しく目に映ったものがあった
それは白い服に身を包んだ和食職人の姿だった
田舎で育った私にとってあの白い服に身を包んで仕事をする姿が一体どれほど眩しかったか
私は「これだ!」と胸の中で震えていた

悩み、考え、友人知人へ相談し数々の批判を聞いたその数ヵ月後
私は和食の本場、京都に自らの身を移した
我が父と田舎の親戚知人友人達を過去へ捨てて・・・
私は人生の旅へ旅立った・・・

理想と現実の違いに思い知らされたのは思いの他、すぐの事だった
自分の中でイメージした華やかな姿とは完全に違うものがそこにはあった
まず、仕事をさせてもらえない
ただ、誰でも出来るような仕事を永遠にしている
そして虐められる
毎日である・・・
こんなはずじゃなかった・・・
一度思うのではない
一日の間に自分自身に何度問い掛けただろう・・・
一日の十回問い掛けたなら、十日で百回、一月で三百回・・・
数え切れない程の葛藤とみじめな思い
ここに来ても私は変わらず、惨めだった・・・
温かい母の温もりが懐かしかった
親父の優しい声が聞きたかった
だが、捨てた過去はやはり惨めな環境が待っていると思うとここに居続けるしか私には生きて行く方法は考え付かなかった
時折、都会の中の誰かが、「がんばれ」と声を掛けてくれる
また違う時に違う誰かも「がんばれ」と声を掛けてくれた
そしてまた違う誰かも「がんばれ」と声を掛けてくれた
「がんばれ」「がんばれ」「がんばれ」「がんばれ」「がんばれ」「がんばれ」・・・
何度涙が流れそうになったかわからない・・・
一体どれだけの人に支えてもらったか、私には数え切れない
くじけそうになった数と同じだけ「がんばれ」の声を聞いた
その日、一日とにかくがんばろう!
今日一日がんばろう!
明日の事は考えれなかった
ただ今日だけしか考えれなかった
そして、いつの日か私は京都での板前修業を終え田舎の土地へ妻子を連れて病室で横たわる親父を訪ねていた

「親父、ただいま・・・」

すっかり痩せ細ってしまった親父の枕元へ我が子を寝かせた
親父は初めての孫を見て涙を浮かべた・・・
その表情はこれから巣立って行く新しい命の幸ある事を祈る想いのそれだった

我が子は生後間もない頃だったからおじいさんの事など覚え
ていないだろう・・・
我が息子よ・・・
私のお父さん、お前のお祖父さんはお前の姿を始めて見てから
ほんの数週間後にこの世から去ったんだよ
お祖父さんは本当にお前のことを愛らしい表情で見つめていたよ
お祖父さんが息を引き取る時、悔いのないいい表情をしていたよ
お前がまだ一歳にもなっていない時の事だったんだよ・・・

---
今朝、兄からのメールを見て、父親母親を思い出していた。
大阪に一人暮らしをしている私に滋賀から運んできてくれた料理の数々は本当に重かった。
私は見た目よりも物を持ち上げる筋肉があって、
大柄な兄をも背負うことができるのに、父親が持ってきてくれた荷物は持ち上げることさえできなかった。

-どんな思いでこの荷物を持ってきたのだろう。周りの人はどんな表情でこの細い腕の父をみていたのだろう。-

父は「身体大事にしいや」など言葉少なに話し、
母が朝早く起きて作ってくれた、というお弁当を一緒に食べて直ぐに帰った。

ここまで書いていたら今、北新地の料亭で修行をしている兄から電話があった。
-どうしたんや?さっき電話してくれたみたいやけど

いつも無償の愛を注いでくれる家族を私は誇りに思う
そして心のそばにいてくれる恋人、友人達に感謝。
いつも支えてくれてありがとう。