詩の散歩道


日々思うことや静かになれる詩、本を紹介していきます。

おすすめ動画

2007年12月23日 | 日々の詩



先日パートナーがブログで紹介していたのですが、
思うところあって私のほうでもおすすめします。

「象の背中」(1/2)、(2/2)2つともみていただけたらと思います

http://jp.youtube.com/watch?v=f0j7vmCRmWQ


山道のススメ 2

2007年12月18日 | 日々の詩


小さな鳥が帰り道の暗闇の中で
鳴いている

ピィピィでもなく
チッチでもない
澄んだ空気の中で“とおく”を感じる音
星空の下
木の枝の上で鳥の喉奥がふるえている

日々機械で作られた音に囲まれていて
音は平らなものだと思っていた
考え事をしている時にも無理矢理入り込んでくるものだと
思い込んでいた

でも違う
音は一緒に生きている存在がそこにあることを
感じさせてくれる

森に住む鳥の声
川のせせらぎ
枯葉のざわめき

日々は小さな音に支えられている

遠くの家に明かりがともる

闇を背中に木々が揺れて
冷たい空気が山の上を通り過ぎていった

今夜は月が輝いている


てんとう虫の家 

2007年12月07日 | 日々の詩


部屋の中でてんとう虫が見つかった
引越し後、この家はてんとう虫がよく入ってくることに気がついた

ふとすれば隅のほうでじっとしていたり
思い出したかのように羽を開けて身づくろいしていたり
細い前脚で木のテーブルを引っかいたり
いろいろな場所で様々な動きをしている

てんとう虫が住みついた

そう笑ってから
気がついた
実は私たちが住みついてきたことに

私たちの足で踏み固められてきた
地中深く沈む 虫たちの声

肢体を内に丸め
うっすらと目を閉じて
わたしたちは寝息をたてはじめる


山道のススメ

2007年12月03日 | 日々の詩


高尾に移り住んで早1ヶ月半が過ぎ、
最近は駅までの山道でさ迷うこともなくなってきた。

車を持っていないので歩くか自転車を使って駅まで行くのだけれど、
これが想像以上にいい刺激になる。

電車の発車30分前に家を出て山道を登りくだりするのだが、
着く頃には身体がいい具合に温かくなり、リラックスした状態になるので
駅近くで相方と笑茸を食ったかのように笑い合っている。

私が幼い頃、小学校に行くまでの道で遊び場はあったが、もうすでにアスファルトに覆われていた。
だけれど時々、帰り道の空き地に土を積んであったり、大きな岩がおかれている時があって、その時は必ずといっていいほどよじ上り、
景色や風の流れがいつもと違うことを感じていた。
おしとやかとはお世辞にもいえない、猿のような子供だった。
ただ、人前ではおとなしく振舞っていたように思う。

そんなことを思いながら駅までの山道を登っていると、
山の様子が昨日とまるで違うことが分かる。

まっすぐな樹に絡まりながら天への道案内をしてくれる蔦の色や、
緑色の景色の中で赤々と荘厳な姿で輝く紅葉。
その木々の緑色もまた濃淡が美しく、朝の光の中で緑色とも銀色ともいえる輝きを現している。
そして枯葉は枝から離れ、虫たちの身体をひっそりと隠し、暖めてくれている。

森にはリズムがあることをここで初めて知った。

あまりに全ての配色が美しく移り変わるので、
神様が町のみんなが眠りについた頃を見計らって絵筆を持って色を足してくれているような気になってくる。
日々は決して単なる繰り返しではない。

これまで、同じような色の服をまとい、目にして、何に対しても違いが見えなくなって無感情な部分があったように思う。
細かい心の襞を見ずに、人を無意識に画一化して捉えていたのではないだろうか。樹も人も単調ではないのに。

山は、私たちが生まれ持ってきた感性のすばらしさや輝きを見つめさせてくれる。そして日々、私たちが変化していることを改めて感じさせてくれる、そんな気がしている。



回想 -遠のく意識の中で

2007年12月02日 | 日々の詩


最近よく思い出すこと

目の前にはピアノ
部屋にずらりと並んだ作曲者の額縁の中の顔

音楽の教室

私はそこでよくある軽いめまいを起こしていた

そしてレム睡眠の時によく起こる、現実と夢の合間の
危うい意識の中をさ迷っていた

夜眠るときでも現実と夢が交錯し、
(レム睡眠中、その日に起こった情報の処理をしているそう)
私はよく現実には正しくないであろうことを
正しい、正しいよね、そうそう、と半ば夢の中で確認を念入りに取ってしまう。

そのせいか、よく、現実と夢を混乱して記憶し
あの時こういっていたよね、と知り合いに話をすると
え?ということになる。

それはさておき音楽教室でのこと
(これは現実)
ぐらつく空間を前に
わたしは私の立ち位置と
時間の感覚が思っているよりも危ういものだとなぜか感じて
いつも押入れから引き出されるお気に入りの冬物のセーターの匂いと
母親の手作りの夏のブラウスなどが1年分の回転のみならず、
何年分ものそれが重なり合って同じに思えた

いつも繰り返されるあれはなんだろう

こうわけもわからずセーター、夏服、セーター、夏服
と自分が伺い知れないところで繰り替えされたらたまらない
そう思い
この一瞬を「始め」の一点にしよう、
そこから定規の線のように測っていこう、そう決めていた
それから最初の内は「始め」の一瞬から一週間、三週間、と測っていたが
それはやがて忘れ去られてしまった

今、もうあれから二十数年経っているが
あの一瞬を思い出すと妙な気分になる

ふと思うと、いつでもあの一瞬、ピアノを前に意識が遠くなっている
あの時に戻れそうな気がするのはどうしてだろう。